意地悪パラドクス
低木の影に子猫がいた。うずくまってか細い声で鳴く猫。鼻にかかる甘えた鳴き声が、沖田さんに似ている。怒られるに決まってるから絶対本人には言わないけれど、降り始めた雨も気にせず私が足をとめたのはそのせいだ。
思えば沖田さんにはじめて心をつかまれたのも、その声が理由だった。やわらかい掠れ声。やさしい響きにのせ、形よいくちびるを伝って吐き出されるのは、毒のある言葉ばかり。だから、怖くなった。沖田さんを怖いと思った。やたら整った容貌の内側で、なにを考えているのかまったく分からない人。張り付いた笑みがその怖さを助長する。
「理解のできないものほど怖いものはないよね」呟きながら猫を抱き上げ、家路をいそいだ。雨足が強くなりはじめていた。
「なんなのさ、それ」
「子猫ですけど」
雨のなか、子猫を拾った。小刻みにふるえるちいさな体を胸に抱きしめて、私もいっしょにびしょ濡れで戻ったら、縁側に沖田さんが座っていた。手持ち無沙汰そうに。
「そんなことを聞きたいわけじゃないんだけど」
「捨て猫、です」
「拾ったんだ?キミは優しいよねぇ」
いつも彼のまわりにまとわりついている子供たちが、今は一人もいない。二人きりだと思ったら途端に心拍数があがった。
沖田さんは怖い。私にとっては不可解で怖い人だけれど、あんなに子供に慕われているところをみれば本質的には優しいのだとおもう。幼子は、本能で人の善悪を見抜くものだから。
「お一人ですか」
「見れば分かるでしょ」
「………」
「この夕立で皆帰ったよ」
蜘蛛の子を散らすように、ね。言いながら沖田さんが雨のなかにおりてくる。ためらいもなく伸ばされた腕が子猫に触れる、かと思ったら濡れた私の髪に触れた。
「沖田さんも濡れま、
「殺しちゃえばいいんじゃないの」
「え?」
まるで「お茶のおかわりくれるかな」とねだるような軽い調子で恐ろしいことを口にするものだから、てっきり私の聞き間違いだと思った。それがひとつめの過ち。
「何とおっしゃいました?」
「あれ、聞こえなかった?」
先程から、沖田さんはきれいな笑顔をすこしも崩さずにいる。何がそんなに楽しいのだろう、なんて整った顔をしているんだろう。物騒な台詞なんて吐きそうもない、うつくしい顔。
「…はい」
「同じことを何度も言うのは好きじゃないんだけど」
一介の町娘にすぎない私が、恐れ多くも新選組の隊長さんの台詞を聞き返してしまった。それがふたつめの過ち。
「も、申し訳ありません」
「謝るくらいなら最初からやらなきゃいいんじゃないの」
何も言えなくて、かと言って謝ることもできず、子猫を抱えなおす。そんな私を見据え、沖田さんはおもしろそうに口端を歪める。髪に触れていた指が、すうっと頬にふれる。雨でつめたく冷えた肌になまぬるい指がゆるく食い込んだ。
今日も、この人は意地悪だ。
意地悪なのに、この指のあたたかさはなんなの。髪の先から滴る雫を拭う仕草のやさしさはなんなの。
降りつづく雫に、布が重さを増してゆく。雨音にまぎれて、低い掠れ声が耳たぶをなでる。
「殺しちゃおう、って言ったの」
「……!」
聞き間違いじゃなかった。間違いじゃないのに、恐ろしいことを言っているのに、なのに、この人の声はなんて優しいんだろう。変な具合に胸がいたい。
「本気、じゃないですよね」
「キミなんかに僕の本心を深読みされたくないんだけど」
腕のなかで子猫が鳴く。物騒な言葉をこぼしたばかりとは思えないほど優しい目で沖田さんが猫の背を撫でている。
やっぱり分からない。私沖田さんが分からないよ。怖い。
「なんで、そんな意地悪を…」
「そんな簡単なことも分からないんだ」
「……」
二人で雨に濡れながら、見つめ合う。深い緑色の瞳がまっすぐに私をとらえる。頬にふれた指がすこし力を増す。痛くはない。痛くはないが、肌に指紋のあとが残りそうなつよい触れ方。私が、にじみはじめる。
頭から頬からまつげの先から、しずくがぽたり、ぽたり。無数の水滴がこぼれ伝う沖田さんはきれいで。ただ、きれいで。目がはなせない。雨の音も聞こえなくなる。
いつのまにかゆるんだ腕から猫が飛び出して、縁の下へと逃げ込んだ。
「意地悪をするのは、怖いから。かな」
沖田さんが、怖い?いったいこの天下無敵の才色兼備文武両道男がなにを怖がるというのだろう。分からない。
「怖いのは私の方です」
「僕が?なんで」
「分からなくて。沖田さんのことが分からなくて、怖い」
怖いけど、怖いと思うほどちかづいてみたくなる。傷付きたい訳でもないのに。
頬をすべりおりた指が首筋をたどり、肩をがっしり掴まれる。うごけない。固定した肩はそのままに、沖田さんの身体がすこしだけはなれる。
「いいながめだよね」
「は?」
眩しいものを見るように細まった緑瞳が、頭の先から足元までをゆっくり往復して。顔の位置まできて、止まった。
なに?この視線のうごき。
「僕に言わせれば、雨に濡れた布を肌に纏わりつかせたまま誘惑するでもなく無防備に近づいてくるキミのほうがよっぽど不可解。全然分からないよ」
・・・あ!
自分の恰好にやっと気づいて、慌てて逃げようとすれば逆に引き寄せられた。胸と胸がぴったりと触れ合う。濡れた着物ごしに、沖田さんの心臓の音がきこえる。鼓動が、はやい。
たぶん私の鼓動もはやい。息つぎがうまくできずに、眉をひそめる。苦しい。
「もう、逃がすつもりないから」
「なんで、こんな 急に」
苦しい。苦しいのに。いまでも鼓動が伝わるくらいぴったりくっついているのに。もっともっとと強く掻き抱かれて身体がたわむ。ぬれて、にじんだ肌がまざりあう。沖田さんの呼吸しか感じなくなる。
「さあ、どうしてだろうね」
頭の後ろから響く、低い声。
…ああ、もう。
猫よりも先に私がころされてしまいました、沖田さん。
意地悪パラドクスキミに抱かれてた猫に嫉妬した、なんて絶対におしえてあげない。