命短し恋せよぼくら | ナノ


たとえば不毛な恋患い

 東雲の空がやわらかに白みはじめる時刻、男物の着物に袖をとおしながら日課になった思考をくりかえす。朝のひえた空気が、頭の整理には一番適しているのだ。
 ひとまず今朝も無事だった。寝相は悪いほうではないが、日中あれほど気をつけていることが意識を手放した就寝中に露見するなどというバカバカしい事態だけは避けたいのが人情というもの。ほとんど乱れのない寝間着は、ほんのりと汗に湿っていた。
 同輩の寝息をうしろにそっと布団をぬけだし、毎朝、初心をたしかめる。私はなんの為にここにいるのか、なんの為に自分を偽っているのか。偽るだけの価値が本当にあるのか、否か。

「ある」

 きゅっと力を込めて引く袴の腰で覚悟を締めなおす。ここにいたい、居続けたいと思う。偽ることで犠牲を払っても余りあるだけのものがここにはある。
 はじめは国を変えたいという衝動だけでやみくもに飛びこんだ。その想いはもちろん今もかわらない。だけど人間は、とくに女というのは、正義や思想という観念的で曖昧なもののためだけに命は張れない生き物なのかもしれない。武士として、私は些か歪だ。そう、思いはじめていた。

 自分の意志で飛びこんだ以上、投げ出すつもりはないけれど。

 かたちばかりの主義主張より先に浮かぶのは仲間の顔。なによりここにいる彼らが好きだった。好きになっていた。裏切りたくないし助けたい、役に立ちたい、いつまでも共にありたい。日を追うごとにそう思うようになっていた。そう思うようになったら、なおさら男装を見抜かれるのが怖くなった。

 だって、女だとバレたら何もかもが終わりなのだ。ここでの生活も、わずかな存在意義も、恐らくこの命さえも。

 そして、
 秘めた淡い想いも…――

「こうして笑って生きてるのが、ほんとは奇跡みたいなことなんだよね」

 いまさら過去の短慮を嘆いてもしかたがない。まして惚れた腫れたの瑣末事にとらわれているわけにもいかない。いまいる場所で、いま自分にできることをするだけ。それだけだ。
 汲んだ水で顔を洗い、ぱちんと頬を叩いたら、うしろで誰かの気配がゆれた。朝の薄闇のなかからやわらかい低音がひびく。

「おはようさん。今朝も早ェな」
「お、おはようございます左之さ…」

 寝癖のついた髪を束ねぬまま、大欠伸をこぼす原田さんが目に入ったとたん、胸の内側がヘンな音を立てる。具合、悪いのかな私。最近やけにこんなことが増えた。

「ちゃんと寝てんのか?ちび助」

 顔色悪ィぞ。と、言いながら大きなてのひらが額に触れて、また胸が音を立てる。

「だだだだいじょうぶです左之さんこそ今朝はずいぶん早起きなんですね何か用事ですかお手伝いしましょうか」
「なァにビビってんだ。別に取って食ったりしねぇよ」

 腰をかがめて覗き込まれた顔が触れそうに近くて。それはそれはもう、優しいまなざしをしていたから。琥珀の瞳を見つめたまま息を飲む。

「やっぱ顔色よくねェな、手伝ってやるからちっと待ってろ」

 バシャバシャと音を立てて顔を洗う横顔も、水を滴らせて顔をあげた姿もきれいで。起きたばかりで空気にさらされた剥き出しのてのひら。いつもは見えない手首の肌がみえる。たったそれだけでこんなにも、胸が、いたい。
 どこをどうとってもきれいな人。ああ、巷で女誑しといわれているのも分かるな、と改めて納得する。

 この人、本当に…――

 瑣末事にとらわれないと誓ったばかりなのに、ともすると変なことを考えそうで怖くて、わざとらしい位の大股でその場をはなれた。頭がくらくらしている。

 逃げるように外へ出て、箒を手にとり深呼吸をする。誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きる生活のなかで、思ったより身体がボロボロになっているのだろうか。このところ呼吸の乱れる傾向が顕著だ。だからといって医者に相談する訳にもいかないし、万が一倒れてしまえばそれもまた身の危険を高めることにしかならない。

「八方塞がり、なのかなこれ」

 朝日にかるい眩暈を感じて、箒の柄に縋った。





 待ってろと言ったのに、ちび助はさっさと先をゆく。それが無言の拒絶のように思えて、内に秘めたおかしな想いが知らず漏れているのかと不安になった。後を追えば、箒に縋るようにして身体を支える姿が目に入り、その肌の青白さに柄にもなく慌てた。

 そんな些細なことで不安になるとか慌てるとか、全く自分らしくない。ちび助が来てから、調子の狂うことばかりだ。
 だけど。
 その理由がなんなのか、自分はもう知っている。

「お前、たまには休んでろ」
「大丈夫で、」
「組長命令だ」

 有無をいわさず縁側まで引っ張って座らせる。代わりに箒を手にする俺に「組長にそんなことはさせられません」とか何とかほざく口をどうやって塞いでやろうかと思った刹那、脳裏にうかんだ甘ったるい方法に、馬鹿みたいに余裕をなくした。

 なに考えてんだ俺は。
 あれは女相手だからこそ通用する方法じゃねえか。

 動揺のままに荒々しく箒を振りまわせば「余計に埃が立ちます」といなされ、やっぱりとっとと口を塞いじまうのが早ェんだけどなと振り返ったら、青白い顔のなかでくちびるだけがやけに艶めかしい。
 この、くちびるになら。

「う、うるせーよ」
「左之さんの方がうるさいですよ」
「ったく。口の減らない」
「ガキじゃありません」

 ああ、お前はガキじゃねえよ。ガキじゃねぇから俺も困ってんじゃねえか。戯れで手を出せたならどんなにラクか。
 こいつが屯所に来てからというもの、俺の内はまるでドタバタ活劇かなにかみてえだよ。こんな所を総司に見られでもしたら、また何を言われるか分かったもんじゃない。

「俺ももうガキじゃねえよ」
「一人で掃除くらいできる、と?」
「おう。だから放っとけ」

 追い払うようにてのひらを翻したら、ちび助は無表情で肩をすくめる。「お任せします」とだけ残して去ってゆく背中に、安堵のため息がもれた。




 そんなある日の夕刻、屯所にしつらえられた高い棚の前で孤軍奮闘するちび助に行きあって原田は足をとめた。上段の書物を取ろうとしているのか、つま先立ちの姿勢のまま上へ上へと必死に手を伸ばしている。
 届きそうで届かずに一生懸命な姿がなんともいえず可愛らしくて、しばらく腕を組んで観察していた原田の耳元で押し殺した笑い声がきこえたのは数分後。

(飽きないねェ、左之さん)
(…総司!)

 また、あの子見てるんだ?とニヤニヤする顔がまるで餓鬼大将のそれだ。

(お前どこまで人が悪ィんだ)
(手伝ってやればいいのに物影から観察して笑ってる左之さんの方が僕よりよっぽど意地悪だと思うけど?)
(………)

 まったくその通りだから、苦笑しかできない。だけど、頑張っているちび助の姿を、もう少し見ていたかった。

(左之さんが行かないなら、僕が助けにいっちゃおうかなァ)

 そう言う総司の腕を、無言でぎりぎりと掴みあげて止める。やっぱりこいつ、俺のことを玩具かなにかだと思ってやがる。きっ、と睨めば、さして気にもしない声が(いいの?)と告げる。

(また、一君にいい所を持っていかれちゃうよ)
(またって何だ、またって)

 総司が顎でさした先から斎藤が姿をあらわすのが見えた瞬間、咄嗟に飛びだしていた。


「何やってんだ、ちび助」

「これか?」と問いながら原田は後ろから書物に手を伸ばす。ちび助には背伸びしても届かないものでも、自分ならたやすく手が届く。触れるほど近寄れば、こいつはこんなにも小さい。

「左之さん」

 礼を言おうとしたのだろう、つま先立ちのまま不自然に身体を捩ったちび助が、胸のうちがわでバランスを崩す。

「わ!」
「っバカ」

 反射的に書物から手をはなしてちいさな身体を庇えば、次の瞬間には、二人して縺れ合うように倒れこんでいた。

「申し訳、ありま…せん」

 真上からきれいな瞳が俺をみおろしている。乱れた長髪が頬にかかって、はらりと俺に降ってくる。ちび助の両手は、倒れた反動でがっちりと俺の腕を押さえつけていた。跨がられた腰には、ほとんど重量を感じない。

「だ、大丈夫ですか左之さん」
「………」

 心配げなくちびるが、俺の名を呼ぶ。はねのけるのは簡単なのに、匂い立つような華奢な姿にはっとして動けなくなる。無防備すぎる細い身体が俺の上でちいさくふるえていた。これでは、まるで。

 まるで、俺が押し倒されちまった体勢みてえじゃねえか。

「あの…左之さん」
「…………」
「大丈夫、ですか」

 かすかに怯えた大きな瞳が、呼吸を探るように近づいてくる。上目遣いでそれを見つめて、一度ゆっくりと目を瞑れば、胸がざわざわと音をたてる。何なんだこの状況は。

「大丈夫、だ」

 心配すんな、と感情を押し殺して答えたものの、本当は出来るならばもっとこの状況を堪能していたいと思った。まあ、これ以上総司の玩具になるのはごめんだが。

「た、立てますか?」
「いや」
「やはり頭でも打たれたのでは」
「お前が乗ってちゃ…立てねえな」

 迷いを断ち切るように笑って、ちび助に手を借りる。背中にひやりと触れる床のつめたさと、総司の視線のおかげで今回はぎりぎり踏み止まったが、それがなければ、俺は。

 俺は、どうしていた…?
 どう、したかった?

 そっと総司のほうをみたら、案の定意味深な笑みを浮かべてこちらを注視していた。

「す、すみません」
「軽いなァ、ちび助もっと食え」

 申し訳なさそうに俯く頭を、わざと無造作にくしゃくしゃとなでた。視線の端で、いつもは表情に乏しい斎藤の口元までゆるんでいるように見えたのは、できれば、気のせいだと思いたい。
 どうか、気のせいだと言ってくれ。





 総司の隣で二人を見ながら、斎藤は口元をゆるめた。最初は対抗勢力の送り込んできた間諜ではないかとの警戒のもと観察していたのだが、それはどうも違ったようだ。
 そのうちに左之があからさまな好意をにじませるようになり、ついつい別の意味で目で追うようになっていた。

 あれでは、あたかも…――

「左之さんって、ホント嘘つけない人だよね」
「全くだ、見ておれぬ」

 そのように思っているのは自分だけではなく、総司にも同じように見えているらしい。

「そう?僕は面白いからずーっと見ていたいけど」
「総司も人が悪いな」
「そうだよ。知らなかった?」
「いや。知っている」

 味気ない屯所のなかで、思わぬ余興をみつけたと、こっそりほくそ笑む斎藤と沖田だった。


たとえば不毛な患い
あいつにそんな趣味があるとは、知らなかったがな。
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