酒の勢いお借りします
巡察を終えるころには、すっかり陽も陰っていた。昼間のあかるい光のしたでは、ちび助はやはり男にしては多少きれいすぎる風貌をした男子にしか見えず、あの夜の一件は気のせいだと胸をなでおろしたのも束の間。この時刻になると、幻がふたたび頭をもたげはじめる。厄介な話だ。
屯所に戻る道すがら、意味もなく何度もふり返っては後方を歩くちび助の姿を確かめる。夕陽をあびて真っすぐ前を見据えた顔にはなんの感情も読み取れない。ただ白く透き通るような肌が橙にほんのり染まるだけ。
そんな無表情をみるたび、少なからずがっかりしている自分に気づいて、原田はそっとため息をもらした。
「どうしたんすか」
「あぁ?」
「近ごろなんとなく、一日中上の空っすよねぇ。組長」
「そんなはずねぇだろ」
返す声がほんのすこしだけ上擦っている。組員の何気ないひとことにすら敏感になるなんて、自分らしくない。ただの平隊士にも見抜かれるような、そんな態度を取っているのだろうか。自分は。
「具合でもお悪いんですか」
左之さん?変声期前の少年のような涼やかな声で名を呼ばれて、このうえちび助にまで見透かされているのかと情けなくなる。
もしも今の俺の具合がおかしいとしたら、それは全部お前のせいだ。お前が女みてぇな成りをして、先日の朝も無用心に斎藤に助け起こされる姿を見せたりするから俺は。俺は、
いや。
あくまでもこれは俺自身の問題であって、ちび助に責任はねぇんだよな。どうも今の俺は、自分で思っているより随分と精神的にやられているらしい。こういうときは酒でも飲んで憂さを晴らすに限る。
「大事ねぇよ、心配すんな」
「そう、ですか」
心細げなその声にあの夜の光景が浮かんで、危うく手が伸びそうになる。意志の制御をはずれた体のうごきに動揺して、往来だというのに頭を掻きむしりたくなった。
「ああ。ありがとうな」
乱れる心を隠してそう言えば、ちび助がふわっとかすかに表情を崩す。それでまた記憶が蘇る。
あれは、薄暗い空間の見せたただの幻にすぎないというのに。俺もいつまで囚われてんだか、まったく。女遊び欠乏症にも程がある。迷いをふり切るように、勢いをつけて振り返る。
「ところでちび助、今晩あけとけ」
「今晩…ですか?」
「酒、呑みに繰り出すぞ」
「はい!」
途端にぱあっとうれしそうな顔でこちらを見上げるちび助のちいさな頭を ぽん、とひとつなでた。
◆
原田さんたちの後ろをついて、島原へ向かう足取りが重い。一緒にお酒を飲めるのは本当に嬉しいけれど、場所が花街だけに手放しでは喜べない私がいた。
そんなひそやかな乙女心も知らず、永倉さんはやたらとテンションが高い。平助くんなんてはしゃぎすぎて、まるで飛び跳ねる兎みたいだ。
「そんなに嬉しいのか、平助」
「だってめちゃくちゃ久しぶりじゃねぇか、島原行くの」
左之さんは楽しみじゃねぇの?という平助くんの言葉を聞いて、すこし安堵する。沖田さんがいつも「女誑しの左之さん」なんて呼ぶものだから、どれ程かと思っていたがそう頻繁に通っている訳ではないらしい。
「お前は初体験だもんな、ちび。わくわくすんだろ!」
「まあ…それなりに」
「んだよその醒めた態度!そんなんじゃ女にモテねぇぞ」
喜色満面を絵に描いたような平助くんの有頂天ぶりに、微妙な笑みを返す。そりゃあ私だって未知の領域に足を踏みいれるという意味ではわくわくするけど。
でも、
きっとそこでは普段屯所で見せない男の顔をして彼らは笑うんだろう。女性をうっとりさせるような空気を纏って。
原田さんのそんな所、あんまり、見たく…ない。それに酔って気を緩める訳にはいかないし、女だとバレてしまってはおしまいだ。
いまさらだけど、私やっぱり帰るべきではないだろうか。選択を間違えたのでは。
「ん?ちび助、浮かねぇ顔だな」
「いえ」
誘われた瞬間にはあんなに昂揚していた気持ちが、島原までの距離に比例して萎んでいく。どうしよう、いつ切り出そう、どうやって。頭を悩ます一方で、組長のせっかくのお誘いを新入りの私が断るなんておそろしく罰当たりなことにも思えた。
「無理に誘っちまって悪かったか」
「そんな!とんでもないです」
いや、本当はとんでもなくないけど原田さんと一緒にいたい気持ちは嘘ではないのだ。これには決して人に言えない深いふかい訳があってですね…
天啓降ってこい、早く神様助けてください。
「緊張してんのかァ?」
「そんな所です」
本当は全然そんな所ではなく、緊張していると言えなくもない困惑の理由は、原田さんの考えている類のことではまったくない。本当にどうしよう。
「まあ、気楽にいけや」
柔らかい笑みに無言で頷いたら、背中をぽんと叩かれる。その掌がひどくやさしい。
結局、逡巡している内に島原へ着いてしまった。こうなればもう、腹をくくるしかない。神様がおられるのならきっと私を進むべき方向へ導いてくれるはず。そう言い聞かせて、門をくぐった。
華やかな女物の着物を美しく着こなしきれいに化粧を施した女性が数人、座敷に同席する。馴染みの者たちなのだろう、原田さんと視線で会話を交わし、阿吽の呼吸で酒を注ぐ。ただそれだけの行為に、言い知れぬ艶っぽさがあふれている。
この女性たちはきっと、まだ私の知らない原田さんをたくさん見てきたのだ。そう思ったら胸の芯がじりじりと鈍く焦げた。
「新顔さんどすか?可愛らしおすなあ」
「滅相もないです」
「声まで可愛らしわぁ」
おべっかとも本気ともつかない台詞をなめらかに紡ぎながら、女がお銚子を差しだす。杯を受ける私の心中はかなり複雑だ。
「おいおい、男にかわいいはねぇだろ。なァ?ちび助」
「は…い」
原田さんにしてみれば助け舟のつもりだろうその言葉が、ぐさぐさと胸の中心に突き刺さる。まだ酔ってもいないのに「私は男ではありません!」と叫びたくなって、でもとてもそんなことは言えなくて。だから代わりに杯を煽る。
「あら、良い飲みっぷり」
注がれるままに乗せられて、予定外に酔わされている。そんな私の様子を見兼ねて左之さんが芸妓さんたちを遠ざけたのは飲みはじめて1時間ほど過ぎた頃だった。
女性たちはみな隅の方で永倉さんにぴったり寄り添っている。
「いいんですか?」
「なにが」
「左之さんにお酌してくれる方たち、みんなあっちに行ってしまって」
「お前が代わりに注いでくれりゃいいじゃねえか」
はい。と、しおらしく返事をしながらお銚子を持つ手がふるえる。ただでさえ飲みすぎているのに、これ以上酔って地を出してはいけない。気を引き締めなくては。
ふかく息を吸い込んで、乱れた感情をととのえる私の前に、すっと空の杯が差し出される。
「なんか俺、だいぶ酔ってるかも」
「大丈夫?平助くん」
心配しつつお銚子を傾ける。
張り付けた無表情の内側で必死の警戒をつづけている所に、平助くんがとんでもない爆弾を落とした。
「お前がめちゃくちゃ綺麗に見えてきたんだけどー」
「…!?!!」
ちょ、ちょっと待って。
いくら男の格好をしているとはいえ、そんなことを言われればやっぱり嬉しくて。ドキドキする。勝手に心臓があばれだす。本当に無邪気な男はおそろしい。
「な、なな、なにを言うたはるんですか!!?」
すっかり余裕をなくして、京訛りが口をつくものだから、ますます焦りが支配する。
「お!良いねぇその言葉」
なにお前元々こっちの生まれェ?酔って間延びした口調で問い掛ける平助くんに、ぶるぶると頭を振る。あまりに勢いよく振り過ぎて首がもげるかと思った。
「ち、違う!違います。芸妓さんたちの真似してみただけです」
出生の件は何となく、原田さんと二人だけの秘密にしておきたいと咄嗟に思った。なぜそんな事がうかんだのかは自分でも分からないけれど。
「残念!でも今日のお前まじでそこらの女以上に可愛いわー」
あー酔ったかな俺。つづく台詞に、いよいよ警戒心なんてどこかに消えてなくなりそうだ、と思った瞬間。さらりと紡がれた左之さんの声で現実へと引き戻された。
「なーに血迷ったこと言ってんだ、平助」
「えー?」
「こいつはどこからどう見ても男じゃねえか」
「でも可愛いモンは可愛いだろ」
どこからどう見ても男――焼け石に冷水を浴びせられたように、胸が冷えていく。抉られる。もう平助くんのやさしい言葉なんて耳に入らない。
そう、ですよね。私は男。いまは男です。男でした。自分から望んで、自ら選んでこの道をとったはずなのに、それを忘れて傷ついているなんて馬鹿みたいだ。滑稽すぎて泣けてくる。
私は、男です。
◆
本当は、俺だってちび助のことを可愛いと思って見ていた。しかも具合の悪いことに酒を飲みはじめるよりずっと前から、だ。酔ったせいではなく素面で、可愛いと。そう思った。
つまり平助より俺の方がよほど重症。いまも、ついつい目であいつを追っている。せっかく女遊びに来たはずが、芸者なんてすこしも目に入らないのだから相当だ。
そんな折に、平助があいつに向かって「綺麗」だ「可愛い」だと吐くものだから、自分の気持ちを言い当てられたようで冷や汗がでた。
気がつけば、必死で平助を遠ざけるための台詞を捻り出していた。ほとんど無意識で。その強がった台詞は、なによりも自分に言い聞かせるためで「どこからどう見ても男」などと思ってもいない嘘を吐きながら、かすかに歪むちび助の顔に見惚れる。
「平助くん、相当酔ってますね」
「だな」
胸を裂かれそうな切なげな目を見せたかと思えば、一瞬後にはまたいつもの無表情にもどっている。
それにしても、ちび助のさっきのあの表情は何だ。まるで、男と言い切られたことに反発し、傷ついたようにしか思えない。
まさか、な…。
彼が、彼女であるはずはないのだ。そんなのは、ただの血迷った俺の空想。あまりに都合のよい願望にすぎないはずなのに。
「どうぞ」と、まるで女のそれのような細い手首がそっとお銚子を傾けるものだから、馬鹿みたいにざわざわと心が騒ぐ。
零さないように手元を見つめる伏し目を、ながい睫毛が縁取っている。なめらかな曲線を描く頬のりんかくから視線がはずせない。きれいだ。こいつは本当にきれいだ。
ちいさな耳たぶが酒のせいか、仄かに色づいている。束ねた髪の隙間から白い首筋がのぞく。酔い潰れて畳に臥した平助を横目に見ながら、その細い手からお銚子を奪いとる。
「左之さん?」
下を向いていた瞳が、俺を映す。俺だけを映している。どうしようもない衝動がせり上がる。止められなくなる。
「酔っ払いたちは放置して、ふたりで逃げ出しちまうか」
「…え?」
「な。決まりだ」
もう、男でも女でも構わない。そんな事は総司の言うとおり大した問題じゃねぇのかもしれない。酔った頭がとんでもない答えをひねり出したとたん、胸がふるえだす。
「あの…」
「反論は聞いちゃやれねぇぞ」
不思議そうに俺を見上げるちび助の手を取って、二人で夜の街へ飛び出した。
酒の勢いお借りします
うっかり繋いだ手はやわらかくて頼りなくて、離せなくなった。