冗談にしちゃ笑えない
自慢ではないが自分の無鉄砲なまでの浅はかさには自信がある。自信がありすぎた。だからいま、こんな状態に陥っているのだ。
冷静に考えればとても笑い飛ばせる状況ではないけれど、悲劇的な状況も度が過ぎればいっそ可笑しく思えてくるものらしい。
という訳で私は、いまにも変な風に歪んでしまいそうな顔面の組織とひそやかな攻防を繰り返していた。
「どうした、おかしな顔して。腹でも痛ぇのか?」
「い…いえ」
左之さんが変なタイミングで浴場に現れたせいで、きちんと巻けなかったさらしが胸元に引っかかって心許ない。静かな夜のなか肩を並べて部屋へと戻りながら、見透かされはしないかと気が気ではなくて。ごわごわする襟を袂からきゅっと乱暴に引っ張れば、よけいに曲線が露わになる。
馬鹿だ、私。心のなかで己を叱責しながら咄嗟に胸元を庇って両腕を抱きしめる。冷や汗が背筋を伝った。
「この時間になると冷えるなァ」
「そう、ですね」
その仕草を寒さのせいだと勘違いしてくれたのか、優しい表情で見下ろす原田さんに相槌を打てば、無造作にくしゃりと髪を撫でられる。
「ちび助…湯冷めして風邪ひくなよ?」
「……はい」
「明日も朝から忙しいんだからな」
そう。新選組の隊士として。
今の私は男で、新選組の隊士で、それは自ら望んだことだ。本当は女だなんて絶対にばれてはいけない。だからこそ、さっきは冷めた口調で「男同士なのに」と口走った。
「分かってます。朝一でうちの組が巡察当番ですよね」
「そんなんじゃなけりゃ、お前とさしで一杯飲みてぇ所なんだがなァ」
空を見上げる原田さんの顔を青白い月が照らす。ばらけた長い髪を、無造作にかきあげる姿が夜空に映える。
「残念ですね、いい月夜なのに」
さらりと切り返すその裏では、胸の膨らみを見咎められやしないかと焦っている。バレる訳にはいかない、と。
ドキドキする胸を隠して俯いたら、それを見透かしたように額をつつかれて無理矢理上を向かされた。
「なっ!」
「そんなに俺と飲めねえのが残念だったのか?」
原田さんの傾げた顔が近づく。見慣れぬ下ろし髪がゆれて肩を撫で、さらにざわざわと心臓が騒いだ。
「ま、そのうち島原にでもどこへでも連れてってやるよ」
すぐ傍にある端正な顔、不自然に覗き込まれる姿勢のせいで胸が波打っている。どくん、どくん、原田さんにまで聞こえそうなほど鼓動が大きい。息をうまく吸い込めない。焦りが込み上げる。
「楽しみ…に、してます」
なのに心が痛い。痛かった。
島原――有名な花街ではないか。つまり原田さんは私のことを男として見ているのだ。同じ隊の同士と。当然のことなのに、なぜこんなに胸がちくちくするのだろう。
「おう。任せてくれや」
「………っ」
口のなかでため息を噛み殺して無理に笑顔を作ったら、おでこをまたツンと突かれる。
「お前も男なんだから、ちったあ芸者遊びでも覚えとけ」
若い内にな、と言葉を続けて原田さんは柔らかく笑った。こんなときなのに、とても綺麗な笑顔で。そんなものを間近で見せられるとますます胸が痛む。
――男なんだから…。
笑顔のまま無造作に髪を撫で下ろす原田さんの指に、胸の奥がぎゅうと音をたてる。女遊びなんて興味はない、だって私は女なのだから。でもとてもそんなことは言えなくて、浅くなった呼吸を鼻から逃がした。
「んん?」
原田さんは、島原の女の人たちの前では、もっと柔らかくわらうんだろうか。もっと寛いだ表情を見せるんだろうか。ここで見せるのとは全然違う、男の顔をするのかもしれない。
「どうした…またそんな顔して」
「………う、いえ」
女に向かう原田さんの表情は、きっと今よりもずっと。ずっと。そんな顔を見てみたいと思う一方で、見たくないとも思う。
「にしても、」
低い声で言葉を続ける原田さんが、次は何を言うのかと身構える。割り切っている、ちゃんと割り切れている。だから傷付いたりしない。私は自分で女を捨てたのだから。
「………」
「こうやって濡れ髪下ろしてると、ますますお前…」
「え?」
「まるで……」
予想外の台詞に驚いて、口ごもる原田さんを見上げる。いつになく神妙な表情。沈黙のなかで一瞬重なった視線を、ふいっ、反らされた。
「…いや。なんでもねえよ」
月に酔ったかなあ、俺も。取って付けた様なその言葉が妙に不自然に響いて。そのあとには陽気な笑い声が、静かな闇夜にこだまするだけだった。
まるで――
そのあと原田さんは、何と続けるつもりだったのだろう。
まさか。いやいや、それはない。そんなはずはない。でももし万が一予想通りの言葉であれば、私は。私は…
――嬉し…い?
「おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
部屋の前で別れたあとも、さっきまでのシーンがぐるぐると私の頭のなかを回っていた。浴場でピシャリと扉を閉じた仕草、髪を下ろして月を見上げる横顔、言い澱んだ台詞の続き。
――男同士なのに、か…。
きちんと巻けず半端に皺寄っているさらしが気持ち悪い。その不愉快さを気にするべきなのに、原田さんのことばかり考えているのが可笑しくて。原田さんの台詞が予想通りであれば秘密の露見を危ぶむところなのに、どこかで喜んでいる自分はもっと可笑しくて。
苦笑いを頬に貼付けたまま布団に潜り込むと、私はそっと眼を閉じた。
◆
がらりと風呂場の扉を開いた瞬間に焼き付いてしまったちび助の背中や首筋が、眼を閉じた原田の網膜を翻弄する。白いうなじ、なだらかで細い肩のライン。あいつは、男だ。男だと充分わかっているはずなのに、反射的に扉を閉じた際の動揺が何度もなんども蘇る。
今頃隣の部屋で眠りに落ちているのだろうか。濡れた髪を垂らして、さっきまで隣に立っていた横顔を思い浮かべれば、鳩尾のあたりが狭まってほんの少し呼吸が困難になる。
まるで女に懸想している時と似た感覚が湧き上がって。原田は一人、頭をがりがりと掻きむしった。
「…ったく。どうしちまったっつうんだァ?俺は」
最近忙しくて、女遊びどころじゃなかったからな。独り言を漏らしながら腕を枕にごろりと寝転べば、背中に触れるつめたい畳が冷静さを呼び戻す。
あいつはれっきとした男だ。あの意志の強そうな眉は男だろう?平助に負けず劣らずの剣の腕は男だよな?男。そう。男…なんだ。
――男、なのに。
気に掛かって仕方ない。想い浮かべれば心が微かに震え出す。理屈など何処かへ飛んで行く。
――男、なのに。
本当は分かっていた。いま自分が必要以上に同じ言葉を繰り返しているのも、総司のからかいにいちいち腹が立ってしまうのも、結局のところ理由はひとつだ。考えを巡らせれば、同じところに辿り着く。
「男…なのに、なァ」
胸を焦がすこの想いは、やっぱり。
は……、原田は苦笑混じりのため息を漏らすともう一度頭を掻いて、布団に潜り込んだ。
バカバカしい等と笑い飛ばす訳にはいかない想い。だけど躊躇せずに受け入れることも出来ない想い。それでも眼を反らすことも逃げることも叶わぬ確かな想いがここにある。
一体いつ俺は、こんな趣向に目覚めたのだろう。いや、ちがう。多分、相手があいつだから…だ。
――だいたい恋に男も女も関係ないでしょ。あの子、男にしては細面だし綺麗だし、悪くないんじゃないの?
もともと俺は、そんなに捌けた感覚の人間じゃねえはずなんだがなあ。
総司のいつかの台詞を反芻しているうちに、原田はいつしか眠りに落ちていた。
◆
「ちび助…そろそろ巡察出るぞ」
翌朝。努めて平静を装って原田が勝手場に声をかければ、返事の代わりに小さな呻き声と何かの倒れる音が聞こえた。
「どうした?」
「左之さん…いえ、ちょっと足を」
おおかた使い終えた食器を棚へ戻そうとして、足元がふらついたのだろう。眼に飛び込んで来たのは、倒れた踏み台と斎藤に支えられたちび助の姿。その光景に一瞬、胸が沸きたった。
「気をつけてくれ」
「ありがとうございます」
斎藤のつめたい台詞に律儀に礼をいうちび助の声が、少し遠くで聞こえる。
「屯所のなかで怪我などされては迷惑だからな。それだけのことだ」
「すみません」
それがただの偶然の不可抗力により生み出された光景だと分かっているのに、原田のなかでは何かがざわり、騒いでいる。眉間に寄せた皺を、斎藤に見咎められそうなくらい。
「さっさと行け」
「はい!」
すんなりと斎藤の腕から身を起こして、ちび助がこちらへ走り寄る。その小さな身体向かって思わず両手を広げそうになって、原田はすんでの所で想い留まった。
「左之さん、お待たせして本当にすみません」
「…いや」
「それにしても、斎藤組長は華奢に見えて意外と逞しいんですね…」
「……そう、か」
「驚きました!」
「………」
咄嗟に抱きしめそうになった自分、昨夜の艶っぽい姿、斎藤に支えられた光景。そして、何気ないひとこと。
「左之さん…」
「………」
「左之さん?」
「お、おう…」
ちび助が心配そうな顔で俺を見上げている。
「大丈夫ですか、寝不足とか」
「いやいや。そんなんじゃねえよ」
強張った笑顔を作り、ごまかすようにぽんぽんと頭をなでれば、柔らかい髪の手触りがなおさら心に絡み付く気がした。
冗談にしちゃ笑えない
なにげない褒め言葉に妬けた…なんて、とても言えやしない。