乳房

 記憶というのは、どういうワケか物事を都合よい形でしまい込んでおく箱のようで、まっさきに浮かんでくる思い出はあたたかくて優しいものばかりだった。ひさしぶりの再会にすっかりテンションが上がって、従兄妹同士でひとしきり抱擁を交わす。
 年頃の男女が人目もはばからず白昼堂々とハグ三昧だなんて、普通に考えれば「おいおいちょっと待て!」という状況なのに、まわりの反応を気にする余裕もなかった。だって私はすっかり子供に戻っていたから。

 舞い上がったテンションがやっとすこし落ち着いたころ、そっと体をはなしながら雅兄が言った。

「大きゅうなったのう」

 目を細めてやさしく私を見下ろす顔はずいぶん上のほうにある。大きくなったというなら、私よりも自分のほうでしょう雅兄。身長も髪も細面で大人びたその顔も、あの頃とはぜんぜん違う。低くなった声が心地よい。

「いつまでも子供じゃないんだから身長くらい伸びるよ」
「身長のことじゃないぜよ」

 にやりと口端を歪めたかと思えば、前触れもなくいきなり腕を引かれ ふたたび思い切り抱きしめられた。むねとむねがぎゅうぎゅう押し付けられて苦しい。潰れる。

「柔らこうて、ええ形じゃ」
「柔ら、かい…?」
「もうすっかり大人の女じゃの」

 楽しげな視線が、じっとセーラー服の胸元に注がれている。リボンの少し上、左右の衿が合わさる一番Vの深い部分にピンポイントで。

「いい眺め」
「…は!?」
「女神の谷間が見えとる」

 谷間。大きくなった、って…身長じゃなくて大きくなった、って。もしかしてそういうこと?
 なにこの突然の露骨なセクシャルハラスメント。きれいな顔でにやにや笑ってくれちゃって、なんなのこの失礼な美少年。親の顔が見たいわ!知ってるけど。

「ば、ばか兄!」
「ありがとさん」
「だから褒めてないって」

 そうだった。この人は昔からこういうふざけた所のある人だったの忘れてた。冷たい視線を流して、胸を強く押すと「ばか兄!変態」と叫びながら足を踏んづける。
 気がつけば、周りは更にしんと静まり返っていた。あらら、みんな固まってる。だいぶ浮いてる。やってしまったごめんなさい。


「突然騒いで申し訳ありません」

 言って丁寧に頭を下げたら、弾かれたように再び周囲が動きはじめた。

「立海大テニス部3年仁王雅治、こいつの従兄弟じゃ」
「青学3年、部長の手塚国光だ」
「かわええ従姉妹がえらい世話になっとるみたいじゃの」
「いや、彼女には寧ろ俺達の方が世話になっている。礼には及ばない」

 いやいや何を淡々と会話してるんですか、手塚部長も雅兄も。

「こいつは昔から器用じゃき」
「確かに。有能すぎる」
「それにしても、まさかまたテニスに関わっとるとはな」
「我々も大いに助かっている」
「そんな、部長とんでもないです」
「お!謙遜もちゃんとできるようになったんじゃのう」
「……」
「身体だけじゃなく中身も成長したんか、まーくん嬉しい」

 ふざけた調子で続けて、雅兄が私の頭をくしゃくしゃと撫でた。まったくこの人はどうしようもない、と思っていたら、手塚部長まで 「彼女の身体の成長度合いであれば、制服よりもジャージ姿のほうがより目立つ…」 なんてとんでもない事を真顔でボソッと呟くものだから、慌てて手を伸ばして口を塞いだ。
 大石先輩もそこで頷いていないで止めてほしい。雅兄も「楽しみじゃ」じゃないよ。

「息が出来んではないか」
「息出来ないようにしたんです」
「お前は俺を殺す気か」
「くだらない事喋らないで下さい」
「嘘は言っていないが」

 無表情で私の手を剥がす部長にため息をつきながら、「そろそろ会場へ」と促す。この人はどうにも、浮世離れしたところがある。

 フリーズしたままだった千石さんや橘さんが一通り挨拶をかわすのを見届けると、「雅兄またね」と手を振って部長と大石先輩の後につづいた。陽射しの強かった外にくらべて、屋内はひんやりしている。

「仁王ちゃんは、顔が広いんだね」
「いえ、偶然ですよ。ただの従兄弟ですから」

 まさかこんな所で会うとは思わず驚きました。そう大石先輩に返事していたら、また後ろからポン、と肩を叩かれた。

「雅兄、今度はなに?」
「だれやそれ」
「は、忍足さん!」

 私の声に、前を歩く部長と大石先輩が振り返る。案の定またびっくりしている。

「せや。忍足侑士くんやでー」
「こんにちは忍足さん」
「つれねぇじゃねーの仁王ちゃん。俺には挨拶ナシか?」
「跡部さんもこんにちは」
「久しぶりだなぁ」

 ニヤリと口角をあげた跡部さんに馴れ馴れしく顎を撫でられて、私は雌猫じゃないぞと抗議しようとしたら、耳元で忍足さんにささやかれた。

(大目にみたって、跡部やから)

 跡部やから、って。その理由が通る人も日本中にあんまりいないよね。彼の周りの女子たちはみんな喜んで喉を鳴らす従順な雌猫チャンばかりなのか、恐るべし跡部景吾。
 仕方ないし忍足さんに免じて今日は許します、と頷けば「堪忍な」と忍足さんが髪を撫でる。
 撫でなでなで、撫でなで、っていつまで撫でる気ですか忍足さん!挨拶を交わしている手塚部長と跡部さんを横目にみながら、10秒数えて。それでもまだ撫でつづけている忍足さんを睨みあげてみたが、効果はなかった。

「ところで"まさにい"って誰なん」
「立海大テニス部の仁王雅治、私の従兄弟なんです」

 とは言っても、ここに通ってることは今日初めて知ったんだけど。まあ今はあんまり重要じゃないからその説明は割愛。

「コート上の詐欺師かいな!」
「雅兄、そんな二つ名で呼ばれてるんですか?」

「せやで、立海大レギュラーや」と言いながら忍足さんはまだ私の頭を撫でている。詐欺師、って。あれからの数年、いったい雅兄にはなにがあったんだ。

「なるほどなァ、それで仁王ちゃんが男テニマネージャーっちゅうのんにも納得いったわ」
「名字が同じ時点でピンと来んだろ」

 手塚部長らとの挨拶を終えて跡部さんが戻ってきた。また猫扱いされてはかなわないので、そそくさと動いて部長たちの陰に隠れる。忍足さんが残念そうに眉を下げた。

「え?跡部前から気づいてたん」
「当然だ」
「嘘やろ!またお前日常生活でインサイト発動してんやろ」
「何となく顔も似てるしな。どっちも美形じゃねーか。あーん?」

 なんだ跡部さんあなたいい人じゃないですか!さすがキング。見る目ありますね。

「せやから跡部、無駄にポーズ決めんなや!カッコ付けて額に手ぇ当てるんやめえ!」

 二人は「お先に」の代わりにさっ、と後ろ手をあげて、いい声同士で喋りながら私たちを追い越していった。

「やっぱり……仁王ちゃんって、顔が広いんだね」
「ストテニ場で会って。偶然」
「跡部に忍足に仁王まで、か」

 大石先輩のしずかな声が、ざわめく廊下にしみじみと響いていた。





 トーナメント抽選で部長らに同行していた彼女が戻って来たのは、午後の授業の途中だった。結果が気になって仕方ない桃城は、彼女が席に着くなり机をくっつける。

(どうなったんだ)
(うん。シード1が立海大で 青学はシード16)
(それで)
(初戦でうちと当たる15枠を引いたのは…氷帝学、園)

「まじかよ!?」

 思わず大声で叫び、ガタッ、と椅子を鳴らして立ち上がったら、彼女にベルトを引っ張られる。やべ、いま授業中。教卓から先生の声が聞こえた。

「どうしたー、桃城。解きたいか」
「い、いや…遠慮しとくっス」
「仁王が戻ってきて嬉しいのはわかるが、私語は慎めー」
「そんなんじゃねえっスよ!」

 声を裏返して否定すれば、教室中がおおきな笑いに包まれた。ちくしょー最悪だ。と思っていたら、隣からノートがすうっと滑ってきた。隅っこに『桃城くん声デカイ』と書かれている。そんなことは自分でもわかってるっつの。

『うるさい!でもマジかよさっきの』
『ホント。跡部さんのクジ運にびっくりだね』

 さらさらと彼女の指先が書き綴るトーナメント表を見て、ため息が出た。つかこいつトーナメントの組み合わせ校 全部覚えてんのか、人の顔と名前はなかなか覚えらんねえくせに。変なやつ。

(意外な人に会ったよ、立海で)

 表を書き終えた彼女が、ちいさな声で言ったのを聞いて、すぐに忍足さんのことだと思ったけど、名前を出すのもシャクだから隠語で呼んだ。

(また跡部さんの腰ぎんちゃくやってたのか、あの丸眼鏡)
(ああ…、忍足さんにも会ったけどそうじゃなくて)
(だれ)
(立海大レギュラーのなかに従兄妹がいた。びっくり!)

 また桃城くんに紹介するね、と笑う彼女を見ながらいらいらした。別にそんなことぜんぜん知りたくねえし。

 それにしても。都大会5位で通過した氷帝がいきなり1位の青学と当たる、って何だよ。どんな運命のイタズラだよ。同じ東京同士で潰し合いじゃねえか。
 負けた方はそれで、もう全国へ行けないのだ。勝負の世界はときにドラマチックで非情なものだと知っているけれど…――

 ドラマチックとか非情とかどうでもいい。それより、悔しい。俺も出たかったぜ、めちゃくちゃ出たかった、くそ!なんで校内ランキング戦落ちてんだよ、なんでレギュラーじゃねえんだよ俺。
 本当は、理由なんてとっくに分かっていた。見かけで相手の強さを勝手に判断して油断した、それが俺の悪いクセだ。どんな状況でも一瞬の油断が命取りなのに。乾先輩を、彼のデータテニスを甘く見ていたせいだ。全部自分のせい。あの日の試合を思い出しながら桃城はこっそり奥歯をかみ締める。
 膝のうえ無意識できつく握りしめていた拳を、彼女が無言のままでふわっと包んだ。あたたかい。
 たぶん今俺が何を考えているのか、なぜ黙り込んでいるのか、彼女にはぜんぶつつ抜けなのだろうと思った。それが嫌じゃなかった。だけど顔を見られなかった。

 しばらく沈黙がつづいて、ふっと肩の力を抜いた瞬間。やわらかく抑えた彼女の声が聞こえてきた。ああ、やっぱり全部バレている。

(そうそう、今日は千石さんや橘さんや神尾さんにも会ったんだけどね)
(神尾に"さん"付けなんて勿体ねーな、勿体ねーよ)
(なんで?)
(同じ2年だからな)
(じゃ、神尾くん…それにしてもテニス部の面子ってなんであんなに揃いもそろってイケメンなの。あんまり出来すぎてて入部資格に"イケメン"って項目あるんじゃないかなとか思ったら私、おかしくて笑いそうになったし)
(俺が知るかよ)

 てのひらを預けたまま、隣の彼女をそっと見つめる。差し込む太陽の光が、睫毛やなだらかな頬のラインを撫でている。なぜ見つめるのかと問うように首を傾げた彼女の動きに添って、あまくて清々しい髪の香りが鼻に届いたらホッとするのにざわざわした。
 否定や肯定で考えることに意味なんてない。過去をいくら批判しても、いまも未来も変わらないのだ。

(まあ、桃城くんもそのイケメンのなかの一人だけどね)
(………ばーか)

 めずらしく神経質に考えて、ぎりぎりとどうしようもなく煮詰まっていた心が、すこしだけゆるんだ。



乳房

彼女は適度にやわらかくてやさしい
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