呼吸の残滓
なかば脅されてしがみついた桃城くんの背中は、大きくてあったかくてびっくりするくらい心地よかった。
すん、と息を吸えば吹き抜ける風といっしょに太陽とか汗とか石鹸っぽいなにかの混ざり合った桃城くんの匂いがした。すごくホッとする、男っぽい香り。
スピードをあげる自転車の横を次々に流れていく景色は、毎日見慣れているものなのにいつもと違って見えた。桃城くんと一緒だから、だろうか。
「ありがと」
「こっちこそ今日はサンキュ!」
「じゃあ、また明日ね」
「おう!おやすみ」
「おやすみなさい」と家の前で別れるとき、かすかに彼の眉が下がっていたのがすこしだけ気になった。
思い返せば、忍足さんの話をしたあとの数分間、桃城くんはひとことも喋らなかった。もしかしたらテニス上の因縁でもあるのかも、と思いながら自宅の門扉に手をかけた瞬間。真後ろでキキーッとブレーキ音がひびいて、桃城くんが戻ってきた。
「おかえり桃城くん、1分ぶり」
「お、おう…ただいま」
おかえり、ただいまのやり取りが妙にくすぐったくて笑いそうになった。
「なにか忘れ物?」
「…まあ、な」
「なに?」と首を傾げれば、ぐい、腕を引かれた。乱暴に抱きしめられた背後で、スローモーションのように自転車が倒れる。ガシャン、と音がしても桃城くんは全く動かなくて、かわりに私の胸がぎゅうぎゅうと音を立てた。
「桃城、くん」
「ちょっと、な」
「ちょっと何?」
「…忍足避け、みたいな」
耳元でそう言って、一層きつく抱きしめてきた桃城くんがかすかに震えていたから。かわいい子供を思い切りあやすように、背中をとんとん、とやさしく叩いた。
「バーカ」
「バッ!バカはねえだろ」
「別に私、忍足さんのこと何とも思ってないし」
「そう、なの?」
「そうなの!」
週末はたまたま見たかった映画&スイーツが理由で行くだけだし。そう続けたら、また「食い物に釣られんな」って怒られた。
「桃城くんも釣るでしょ」
「へ?」
「アポロチョコで」
「あ、ああ…!」
とんとん、とやさしく叩き続けていた背中をバシッ、勢いよくひとつ殴って。その反動で身体をはなすと、広い胸に拳をつきだした。グーでぽん、って気合い入れる感じに。
「明日、アポロよろしく」
「任せとけ!」
ようやくニィッと口元を綻ばせて明るい笑顔になった桃城くんにホッとして、明日はお手製の焼きそばパンでも作ってってあげるか、と思いながら二度目の「おやすみ」を交わした。
◆
家に帰ってから、桃城は必死で考えていた。今日のことと、この先のことを、だ。
だって彼女は、昨日までただの仲のいいクラスメイトだった。恋とか嫉妬とは無縁の、ただの友達だった。
なのに。
そんな彼女を今朝夢にみて、昼間いきなり指をつかんだ瞬間に自分の気持ちを自覚して――だって あいつ 可愛かった――夕方には強力なライバルの出現にひどく嫉妬した。夜の教室では背中の下着のラインにドキドキしたと思ったらいきなり抱きつかれて、チャリ2ケツで背中にむにゅって…むにゅ、って。おまけに別れ際に嫉妬心をあおられて勢いで抱きしめたら、とんとん、ってあやされた。
「おかえり」「ただいま」って挨拶を交わして。新婚サンみたいに。おかえりがあんなに心を動かす言葉だなんて知らなかった。
あまりに展開がスピーディで予測不能すぎるから。想像のはるかうえをいく刺激に、正直なんども思春期男子の下半身事情が危うくなりかけた。内緒だけど。
いったい俺、これからどうすりゃいいんだよ。この先どうすれば。けれど答えなんて簡単には出なくて、どうしようもなくて。気が付いたら越前に電話していた。
「桃先輩煮え切らなさ過ぎ」
「いや、だってよー」
「さっきから同じことばっか何度目スか、俺もう眠…い…」
「ちょ、待てって」
「いっそ、マネージャーになってくれとでも頼んでみたら?」
「…っ!!」
神様のお告げだ!と思った。なんで今まで思いつかなかったんだろう。
「俺、彼女なら歓迎っスよ」
「GJ越前!お前は神か…」
「じゃ、寝るっス」
「サンキュー!せめてものお礼に子守唄歌ってやろ、」
「却下!」
ぷつん、つーつーつー。響く機械音をBGMにしばらく小躍りしていたら、弟と妹にウルサイ!顔がキモい!とさんざん怒鳴られたけどまったく腹が立たなかった。
◆
次の日の朝、満面の爽やかスマイルで差し出されたアポロチョコを受け取ると、私はかわりに早起きして作った焼きそばパンを桃城くんに差し出した。
「なんだよこれ」
「早弁用に、と思って」
だって焼きそばパンの分、アポロに化けたんでしょ?と問えば、今すぐにでもかぶりつきそうな勢いで渡した包みを抱きしめている。
「潰れるつぶれる!」
「潰しちゃ勿体ねーな、勿体ねーよ」
大事そうに抱え直しながら口元がゆるゆるの桃城くんを見て、私まで顔が綻んだ。
ああ、私やっぱり桃城くんにはどうしても甘い。
「ところで…後でさ、お前にちょっと相談あんだけど」
「なに」
「いや、昼休みにでも」
「分かった」と返事しながら、神妙な顔をした桃城くんって意外に端正に見えるなあ、なんて呑気に思っていた。
◆
「私が?」
「そう。お前が」
「テニスのこと、ルールも上っ面しか知らないんだけど」
昼休みの屋上で桃城が彼女にマネージャーの話を切り出せば、案の定驚かれた。
「大丈夫だって」
「今までお遊び程度にしかテニスやったことないよ」
「やったことはあるんだ」
「ちいさい頃に、従兄弟とちょっとだけね」
青学テニス部にはマネージャーがいない。ドリンク作りは哀しいかな乾先輩の専売特許だし、その他の業務は部員が交代で行っていた。それで何とか事足りてはいるが、もし適当な人員がいれば是非、という話はミーティングのたびに出ていたのだ。特に関東大会を目前に控え、できれば部員は練習に専念したい時期でもある。
「あの越前のお墨付きだしなー」
「それもびっくりだし」
「図書委員で、何か感じるモンあったんじゃねーの」
「全然業務内容違うでしょ」
たしかに。文化系と体育会系と言えばフツーに考えて全然ちがう、ような気がする。だけど越前の直感や観察力を桃城はかなり信頼していた。
おまけに朝練の際、じつは既に先輩たちにはそれとなく匂わせておいたのだ。越前による口添えも含め、根回しはばっちり。もちろん二つ返事で皆が大歓迎だった(その何割かが、もしかしたら今後乾汁の被害から逃れられるかもしれないという淡く切実な期待から来るものだ、と知らないのは乾先輩だけ)。
「とりあえず、嫌じゃなければ放課後見に来ねえ?」
「まあ、うん。用事もないし」
「よっし!」
本当はレギュラーでバリバリ練習している所を彼女には見て欲しかったけれど、逆に球拾いからの平部員の立場のほうがマネージャー業務を教え易いかもしれない。ポジティブシンキングは得意だ。
「ところで桃城くんお昼は」
「早弁しちまったから、これからお前の焼きそばパン食う!」
「一緒に食べていい?」
「もちろん!」
それから二人で並んでランチタイムを楽しんだ。彼女のくれた焼きそばパンはめちゃくちゃ美味かった。がつがつと食い尽くしてしまいたいのに、食べ終わるのが勿体ないような、そんな味。
「まじで?」
「うん」
「これお前の手作り?」
「嘘ついてどうする」
「うんめぇええ!これなら俺30個は一気に食える!」
「いや さすがに食べ過ぎだって」
「じゃあ50個!!」
「増えてるし」
彼女はそう言って、ペシンと裏手で俺の頭をはたく。楽しそうに笑う彼女を見ながら "食い物に釣られてる" のは俺の方かもな、と思った。その場面を乾先輩に見られていたことには全く気づかなかった。
放課後のテニスコート。滞りなく彼女の紹介を済ませ…た、と思ったら乾先輩がとんでもない発言をかました。
「桃城に彼女がいたとはな」
「は!?いやいやいやいや」
「昼休みに仲良く2人ランチしていたじゃないか」
案の定英二先輩食いついてる!めっちゃ食いついてきてる!
「や、あれはっスね…」
「しかも桃城の食べていたアレ、キミの手作りなんだろう?」
乾先輩が彼女の方に問いを向けたものだから、冷や汗が出た。
「はい」
「ちょ、お前!否定しろって」
「でもアレ、本当に手作り」
「じゃなくてー!」
嬉しい誤解にアタフタしすぎて声がひっくり返る。越前は帽子の下でにやりと口元を歪めていた。
「良かったじゃないっスか、桃先輩」
「越前っ!」
「公私混同しないなら、俺は構わん」
「てっ、手塚部長までー」
「いいなー桃…羨ましいにゃ」
「違うんっスよ!」と叫ぶ声は冷やかしの口笛に掻き消される。そっと彼女を振り返ったら、楽しそうに笑っていた。
なあ、それってどういうこと。
◆
週末は約束どおり忍足さんと映画を観にきた。
「ドタキャンされたらどないしょー思て心配やってん」
「約束は守りますよ」
「ええ子や」
「単純に観たい映画でしたし、忍足さん観察もしたかったので」
「観察、か…まあええわ」
今はそれでも。と言いながらドアを開けてくれる忍足さんの、さりげないフェミニストぶり100点。
今日は丸眼鏡に加えて帽子着用ですか、いちだんと胡散臭さアップですね。私服の趣味、95点。ふわっと香る趣味のいい香水も、映画の前に飲み物を買ってくれるところも、パンフは後から派なところも、映画のセレクトもいちいちスマートで文句のつけようがなくて。この人は本当に自分とひとつしか歳が違わないんだろうか、と不思議になる。
「忍足さんホントに中三ですか」
「せやで」
「20くらい歳ごまかしてるんじゃ」
「アホ。もしせやったら犯罪やん」
「むしろ犯罪者臭いです」
てっきり関西仕込みのツッコミ技が飛んでくると思っていたのに、忍足さんは予想に反して反応が薄かった。まだまだボケレベルが足りないということだろうか。
「いまボケたんですけど」
「そうなん?」
「はい」
「キミちょっと天然やしてっきり本気で言うてるもんやと…」
「突っ込んでくれないんですか」
忍足さんがまた黙った。
なぜだか分からないが、気持ち悪いほど口元がゆるんでいる。
「関西人ならツッコミ常識でしょ」
「なあなあ、"突っ込んでくれないんですか" て、もっかい言うて」
「は…?」
「頼むわ。もっぺんだけ言うてくれへんかな。ゆっくり」
「……変態か!」
ベシッと帽子が飛ぶほどの勢いで頭を叩いたのに、「ええツッコミや」と更ににやにやしている忍足さんは本気でちょっと危ない。
「自分に聞きたかったことあんねん」
ぷるぷるのタルトフリュイに一刀目のナイフを入れた瞬間、忍足さんが言った。
「観察と鑑賞ってどないちゃうの?」
神経の8割くらいは目の前のタルトに夢中で、鮮やかなフルーツの色を活かす透明の膜に心を奪われたまま「え?」と問い返す。
「この前言うてたやん、俺は観察対象で跡部は鑑賞対象やて」
「ああ、あれですか」
切り分けた欠片をそっと口のなかにおさめると、舌先で堪能してから紅茶をひとくち。私が味わうまで、忍足さんは黙って待っている。間の取り方もスマート。
「有り体に言えば、鑑賞はただ美しいだけ。観察はその奥になにかが潜んでいそうで継続的にみていたくなる、って感じでしょうか」
「なるほど」
そんなこと聞いてどうする、と思っていたら「継続的に、なあ…」と何度かくり返して、忍足さんは口元をゆるめた。
呼吸の残滓きれいな笑顔に迂闊にもため息がでた