ノット イコール ユー

 2年8組の教室。
 放りっぱなしだった日直の仕事をさっさと済ませて、自分の席――窓際の一番後ろに腰をおろすと私はかるく目を閉じた。
 グラウンドからどこの運動部のものか分からない声援が聞こえてくる。青学ぅーーっ ファイ オー!…か。別れ際のどこかふっ切れたような桃城の顔が浮かんだ。うん。何があったのかはよく分からないけれど、頑張れよ桃城くん。ファイト。

「全く、私も甘いよね」

 なんで爽やか桃城くんにはついつい甘くなるかなあ。本日の日直当番の欄に「桃城武」と几帳面な文字で書き加えて、開いた日誌の前で頬杖をつく。
 あまりに爽やかで稚気にあふれて見えるからだろうか。それとも今日、不意打ちで指をとらえられたのが記憶に残っていたからだろうか。無骨で、誠実そうな手だった。おおきくて温かかった。
 また自己分析でもしてみようかと思ったが、押し寄せる眠気に負けて「ほんと甘い」ちいさく呟くと私はゆるく目を閉じた。外から元気な桃城くんの声が聞こえていた。





 桃城をテニスコートへ連行した越前は、隠れて様子を窺っていた。

「20周か…」
「いや30周…」

 手塚部長に向き合う桃先輩を盗み見つつ、部員たちが無責任な予想で盛りあがっている。

「今までのデータから推測すると50周はいくな」

 校内ランキング戦で桃先輩のかわりにレギュラーへ返り咲いたのが相当嬉しいのか、暑い季節にも関わらず乾先輩はしっかり青学レギュラージャージを着込んでいた。分かりやすいね、乾先輩も。

「大石!桃の奴何周だと思う?」
「え」
「グラウンドだよ。何周走らされんのかにゃあ」

 満面笑顔の菊丸先輩とは対照的に沈んだ低い声の大石先輩に、内心ひやひやした。

「きっと最高記録出るぜ、大石!」
「ああ」

 二人はさっきも桃先輩のことでもめたばかりなのだ。他人のことでそこまで熱くなれるのって不思議。
 コートの傍らでは、手塚部長に向かって桃先輩が深々と頭を下げている。

「規律を乱す事は許さん!暫くお前にはラケットを持たせない!」

 厳しい表情で告げる手塚部長に、桃先輩はただ黙って目をふせたまま頭を低くした。

「球拾いからだ!3日も無断で部活を休んだ罰だ。いいな」
「すいませんでしたっ!!」

 桃先輩 声デカいっスよ。コートじゅうに響き渡ってるし。校舎内の彼女にも聞こえたんじゃないの。
 そう考えたあとで、聞こえるようにわざと言ったのだと気づいた。彼女が、ああ見えて心配してたことを桃先輩はちゃんと分かってるんだね。

「グラウンド100周だ…行ってこい!」
「はいっ!!」

 告げられた数字に、平部員たちの戦慄にみちた声が聞こえる。

「ひゃ 100周!?最高記録じゃん」
「うわーーキビシイ」

 厳しい。たしかにかなり厳しいけれど、その行き過ぎた厳しさは桃先輩への期待の裏返しなのだ、きっと。

「桃城……」

 グラウンドへ出て行こうとする桃先輩に手塚部長が声をかける。走り出しそうな姿勢のまま、桃先輩はぴたりと止まった。
 すれ違って数歩分はなれた背中同士で、目を合わせぬまま交わす会話が手塚部長らしい、と思った。

「俺達は必ず全国へ行く」

 この人は見ている。皆のことをいつも本当によく見ていた。サイボーグみたいに無表情な顔で、その時のその人に一番必要なことを言うのだ。

「次のランキング戦で戻ってこい」
「へーーい」

 首だけで振り向いて返事をする桃先輩の声に、もう迷いはなかった。ひとまず一件落着、だね。ホント手のかかる先輩。

「ところで越前、どこ行った?」

 ホッと胸をなでおろした途端に聞こえてきた手塚の言葉に、越前はギクッと肩を揺らした。





 桃城が3日ぶりの部活を終えて清々しい気持ちで教室へ戻れば、机に突っ伏して彼女が寝ていた。
 開きっぱなしの日誌はほぼ埋まっている。癖のないきれいな字が何の変哲もない一日を綴っていた。

「おーい、起きろ」

 並んで書かれた自分と彼女の名を指で辿りながら声をかければ、かすかに彼女の瞼が動く。頬にかかるまつげが長い。唇がすこしだけひらいている。かわいい寝顔だな、と思った瞬間、胸の奥のほうが鈍く痛んだ。

「起きろって」

 声だけでは目覚める気配のない彼女の背中をぽんぽん、と叩く。まだ起きない。うすい夏服ごしに指先で知覚した硬い感触――も、もしかしてこれはブ、ブ…ラ…うわあああ!!?!しなやかな背中のなかで一部分だけ違和感を伝えるそのラインに、ばかみたいに動揺した。なんだかすごく悪いことをした気分になった。

「置いて帰るぞー」

 背中を避け、今度は肩に手をかける。細い肩をそっとゆする。あまりつよく揺すったら壊れそうだった。自分の胸のほうがゆすぶられている気がした。
 彼女はまだ、起きない。

 明かりの消えた教室内は、廊下からのよわい光だけでうすぼんやりと現実感をなくして見える。いつから寝てたんだろう、こいつ。桃城は寝ている彼女の隣の席に腰をおろし、片肘をついて彼女を眺めた。

「もしかして、俺を待っててくれたのか…」

 まだ寝息を立てている彼女の髪をくしゃくしゃと撫でながら問い掛ける。本当は、日直の最後の仕事――日誌提出のために残っていただけだろうけど。理由が何であれ、彼女が俺を待っていたことにはかわりない。
 ざまあみろ忍足さん、うらやましいっスか。心のなかで呟いて、髪にそっと指を絡める。やわらかい。誰にも彼女の髪をさわらせたくない、と思った。
 なめらかな感触を味わいながら桃城がざわつく心臓を持て余していたら、いきなり廊下の照明が消えた。
 消灯時間だろうか、当然教室はまっくら。このままいつまでも教室にいるワケにはいかないと、さっきより強めに彼女の肩をゆする。

「お、き、ろ!」
「う、」

 彼女がゆるく目をあける。周りが真っ暗だったのに驚いたのか、がたっと立ち上がるなり彼女はいつになく狼狽してきょろきょろと首を振る。

「うわああ、あ!も!桃城くん」
「はいはい、桃城くんですよー」

 ふざけて返事をかえしたら、いきなり抱きつかれた。なにこのスピーディな展開。
 びっくりするくらいのやわらかさに俺のほうが狼狽しながら、それでも勝手に抱き返す腕に力がこもる。やわらかいし、いい匂いがする。

「どうした」
「ここどこ」
「教室」
「真っ暗」
「消灯時間じゃねえの」
「そんなの初耳」

 驚きのせいか、彼女の鼓動がやけにはやい。多分俺のはもっとはやい。
 抱きしめたまま、彼女を落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩けば、またあのラインに指が触れて心臓がバクバクした。それをごまかして平静を装うのに必死だ。

「お前もしかして暗所恐怖症?」
「ち、ちがう。いきなり真っ暗でびっくりしただけ」
「だよなー」

 すこし腕の力をゆるめてみたが、彼女の抱きつく力は相変わらず弱まらない。困った。動悸がハンパない。ホントに困った。なんかすげえ変な気持ちになる。

「あの、」
「ん?」
「落ち着いたか?」
「最初から落ち着いてるけど」

 だったらその腕は何なんだ。しかも彼女の腕はまだ俺からはなれない。勘弁して。

「じゃ、そろそろはなしてくんね」

 やわらかい肌の感触は危険だ。知っていますかお嬢さん。こうみえて色々大変なんだぜ、思春期男子。

「あ、ああ!ごめん」

 言われて初めて自分の体勢に気づいたのか、彼女は呆気なく俺からはなれる。

「べつに良いけど…」

 さっきまで困っていたくせに、いざ腕が解かれると寂しくなった。彼女にならもっと困らされたい、とか思った。わがままだな俺。

「寝ぼけてた」
「寝顔、みた」
「忘れなさい桃城くん」
「さあなー」

 絶対わすれたりしない。忘れてやるもんか。プリントアウトしてラミネート加工するくらいの勢いで記憶にがしがし刻み込んでやろう、と桃城はひそかに誓った。

 すっかり正気を取り戻した彼女と連れ立って暗闇を進む。非常灯がぼんやりと不気味に床を照らしている。ドキドキする。

「何も見えない」
「そうか?」
「どこ、桃城くん」

「ここ」と答えながら、闇のなか手探りで彼女のてのひらを掴む。やっぱりやわらかい。
 彼女よりさきに暗闇に慣れた俺が先導して、職員室へ向かう。日誌を提出し終えて外へ出れば、きれいな月が昇っていた。

「送るよ、家まで」

 俺の愛車で、と言いながらチャリを指差す。二人乗りがどんなに心臓に悪いもんかなんて、その時の俺はまだ気づいていなかった。

「いい」
「今日のお詫び。素直に受け取れ」
「アポロチョコは消えないからね」
「わかってるって」
「よい心がけです」

 にっこり笑う彼女のおでこをツンと人差し指でつつく。自転車に跨がって後ろをさせば、彼女はなんのためらいもなく後部席に腰をおろした。

「しっかりつかまってろよ」
「もう、つかまってる」
「どこ?」
「座面」
「ばか!振り落とすぞ」

 ぐいっ、とスピードをあげたら申し訳程度に細い指が制服を摘む。そんなんじゃマジで落ちちまうって。

「な、危ないあぶない桃城くん」
「聞こえねーな、聞こえねーよ」
「スピード出しすぎ怖いって」

 それでもまだ遠慮がちな手をつかんで、無理やり自分の腰に回す。キュッ、と赤信号でブレーキをかけたら、反動で彼女のからだが背中にピッタリと密着した。
 むにゅ、って。
 や、わらか…い。

「危ない!ホントに落ちるし」
「落とさねーっつの」

 わざと乱暴に返しながら、布ごしにふれあう背中へ全神経が集中する。グラウンド100周させられたあとよりずっと動悸が激しい。

「あー怖かった」と呟きながら、俺の下腹部で彼女の両手が無造作に交差した。また抱きしめられている。むずむずと歯痒い感覚がはい上がって、じっと止まってるのが堪らなくて、必死で唱える。はやく信号変われ!早く!

「もうああいうの止めてよね」
「悪ぃわりぃ」

 きっと彼女のほうは、なんとも思っていないのに。


「と…ところでさ、チョコ一週間分って具体的にどれくらい?」
「一日5箱」
「5箱ォオ!?!」
「と言いたい所だけど、一日1箱にしといてあげる」

 前を向いたまま、肩越しに彼女の頭をペシン、と叩く。

「いてっ」
「痛くねぇだろ!からかうな」
「ごめんごめん。さっきのお返し」
「ちーっ、一週間は焼きそばパン抜きかー。仕方ねーな、仕方ねーよ」

 ペダルを漕ぎながら、照れ隠しにわざとでかい声を出した。背中に触れる彼女のぬくもりで、まだ心臓が跳ねていた。


 彼女の家の手前。桃城はゆっくり深呼吸をする。

「実は、俺……レギュラー落ちた」

 何気なさを装って伝えれば、無言のままぎゅっ、と腰を掴む彼女の手に力がこもった。

「絶対またはい上がってやるけどな」
「そう言うと思った」
「バレバレか」

 背中にそっと頬の押し付けられる感触があたたかい。
 悲しいし、悔しいはずなのに、そのせいでこんなことになってるのだとしたら捨てたモンじゃねえな、とか不謹慎なことを思った直後。「あのね」と声が聞こえて、肩越しに桃城は振り返る。

「私も桃城くんに報告、ある」
「ん?」
「週末、忍足さんと会う」
「な、なんで俺に」
「心配してくれてたし」

 なんでもないことのようにサラっと言って、微笑む気配。逆風でふうわりただよってきた彼女の香りになぜかひどく切なくなって。
 切なくて肌が痺れた。
 きっとこの鳥肌は、日が落ちて寒いせい。

 夜空に浮かぶ雲が、ぼやけた絵の具みたいに曖昧にところどころ淡くちぎれていた。



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