good morning, my world
イヤフォンの片方だけを耳につっこんだまま、いきつけの本屋のなかをさ迷っていた放課後。見知った男子学生とすれ違った。正確にいえば、彼のことはここで何度も見かけている顔見知りのような他人、名も知らぬのに顔だけはよく知っている微妙なポジションの人間。でも、姿を見ればうっかり会釈してしまいそうな程度には一方的によく知っていた。彼が私のことを知っているかどうかは、しらないし興味もない。
べつに私の物覚えが特別いいわけではなく、むしろ人の顔を覚えるのは不得意なほうだと思う。現にいまでも一部クラスメイトの顔と名前が一致しなくて「お前まだ覚えてねーのかよ」と桃城くんにさっき呆れられた。覚えていなくても特に困らないので、放っておいてくれればいいのに。
そんな私が、なぜたまたま本屋で会うだけの彼の顔をよく覚えているのか、自分でも不思議でしかたない。だから頼りない記憶をたぐってみた。
思いつく理由はみっつ。
まず第一に彼の顔が非常に整っている、いわゆるイケメンであること。女子という生き物は基本的にハンサムが好きなものなのだ。私の場合は惚れた腫れたの話ではなくて、あくまでも鑑賞対象として、だけれど。美しいものを見ているのは、精神衛生上とてもよいと思う。おまけにそのハンサムが、ただの爽やかハンサムではないのだ。観察意欲をそそられるなんとも言えず胡散臭いイケメン。変態くさい眼鏡男子、というか。ひそかに眼鏡フェチを自認している私的にもたいへん美味しい観察物件だった。しかもいまのこの時代に、吹いてしまうくらい典型的なまんまるの丸眼鏡。あんなものを普通にかけている人なんてそうそう見掛けないし、かけたら誰だって下手な仮装パーティーのお笑い鼻メガネ級に笑いをさそう風貌になりそうなものなのに、その彼は丸眼鏡でもイケメンオーラがゆるぎないのである。ツッコミ入れる余地がすこしもないのだ。あの丸眼鏡でまだ風格のあるイケメンポストを守れるとは、素はどんだけイケメンなんだろうってますます興味がわくではないか。いつかその眼鏡外して素顔をみてやりたいと欲望を刺激されるではないか。え、ひとつめの理由に時間かけすぎたかな。ごめんごめん。とりあえずイケメン眼鏡クンだってことです。まる。
第二に、たまたま聞こえてきた彼の会話が耳慣れない関西弁だったこと。べつにでかい声で独り言をいってた変人サンでしたという事ではなくて、友人連れで某本屋に来ていたときにたまたま聞こえたのだけれど。あれはインパクトが大きかった、かなり。「なんでやねん」とか「あほか」といういかにもツッコミ専門芸人のような台詞を生で聞くことなどあまりないし。もしや氷帝学園の制服を着た新人お笑い芸人コンビなのか!?と一瞬は本気で思った。またそのツッコミボイスが低くて恐ろしくいい声なのである。同世代であんな声出せる人っているんだね。正直顔を見るまでどこのサラリーマンさんがいい声出してるんだ、って思った。大人びすぎた声だった。ボケ役っぽい相方さんにはたしか"ゆーし"とか呼ばれていたけど、ゆーしさんって漢字ではどう書くのだろう。基本的に私は、お笑いコンビではボケよりもツッコミポジションの人のほうがより好きなのだけれど、え?そんなことどうでもいいって?まあいいじゃないですか、少しくらい脱線しても。彼は関西弁である、これが二つめ。
第三に、どうも好む本の種類がかなりの確率で私と重なっているらしく、その書店にいくたび毎回同じコーナーで遭遇すること。男の子が読むにしては珍しい女性作家のべたべた恋愛ものが多いのだけれど。あの人があんな甘ったるい顔をして恋愛小説ばっかり読んでいる裏にどんな理由があるんだろう、実生活ではどれだけ手練手管に長けた言動をとっているのだろう、と変な勘繰りをしたくなった。しかも好みの傾向が似通っているというのが気になる。恋の駆け引きなんて今はまだリアリティないけど、もしかして自分と似た者同士なのだとしたら駆け引きの応酬をすればいい勝負になったりするのだろうか、と思った。趣味趣向が似ているらしい、これが三つめ。
以上の理由で普段は物覚えのわるい私が彼のことはしっかり顔見知りだと認識しているようです。
自己分析おわり。
そんなある日、いつものようにずらりと並んだ背表紙の羅列を滑るようにさ迷わせていた指がぴたり、ある本の上で止まった。同じ本をまったく同じタイミングで取ろうとした誰かの指先にぶつかったのだ。
「っと、堪忍」
「い、いえ…」
顔をあげれば氷帝学園の制服を着た丸眼鏡の男が、斜め上から私を見下ろしている。あの彼だ。落ち着いた低い声で「堪忍」って言ったよ。生関西弁だよ。しかも至近距離でみたら思った以上のイケメン。なんたる眼福。
「どうぞ、君とりぃ」
「いえあなたが」
「ええって。遠慮しなや」
「あなたこそ遠慮なさらず」
「俺はまたでええから」
「いえいえ、どうぞ」
間近で聞く関西弁というのは、結構破壊力あるもんだなと思いながらいい声に聞き惚れつつ押し問答を繰り返す。
「ええから」
「いえいえ」
「君、ほんま譲らん子やなあ」
そのいい声で、遠慮して譲っている私に向かって"譲らん子"などとよくわからない事を言うものだから首を傾げたら、眩しそうに目を細めて彼は私を見た。
「あの、私譲ってるんですけど」
「なかなかええツッコミや」
「は?」
「東京にもこないツッコミできる女の子いてるんやね」
そう言った彼は、唇を歪めて楽しそうに笑った。なにがおかしいのかさっぱり分からない。
「あの、意味がよく…」
「ああ、せやね。逆説的シャレいうやっちゃ」
「なんですか、それ」
「譲り合いを譲らへん二人の妙味、というかまあええわ」
いやいやあなた一人で納得されても私には全然分かりませんし。ところでこの本いるんですかいらないんですか。もしもいらないのなら遠慮なく私が購入させていただきますが。と思いながら、一度引っ込めた手をふたたび本のほうへ伸ばしかけたら、その寸前で彼の指が本をさらった。
「ほな、この本は俺が買わせて貰うから、代わりにお茶でも奢らせて」
「いやいやいや意味が分かりません」
「ええやん。お茶飲みながらゆっくり説明したるわ」
「え、え?」
「ようここで会うやろ?一遍ゆっくり話したいなあ思ててん」
なんだこれナンパなのか?私はいまこのイケメンにナンパされているのだろうか、誰か教えてください。私が戸惑っている間にさっさとお会計を済ませてしまった彼に「行くで。スイーツならお勧めの店あんねんけど」とか言われたら、抵抗も出来ずに後ろに続いていた。だって質のいいスイーツには目がないのだから仕方ないでしょ。
という出来事があってね、なんというか偶然の出会いってなかなか面白いもんだよね。クラスメイトの桃城くんにそんな報告をしていたら、突然彼の顔が不愉快そうに歪んだ。
「どうした急に。私の出会いスキルが羨ましいのか桃城くん」
「そんなんじゃねえけどよ」
「じゃあ、なに?すごい不機嫌顔になってるよ。爽やか桃城っぽくないよ」
「勝手に変な呼びかたすんなっつの」
「いやいやどう聞いても褒め言葉でしょう、喜びなよね」
そういえば爽やかテニス男子桃城くんがなぜこんな時間にまだ教室にいるのだろう。今日はテニス部の部活お休みの日だっただろうか。
「つかお前、そうやって知らない男にホイホイついて行くなよなー」
「知らないというか、一応顔見知りだった訳だし」
「危機感なさすぎなんだよ」
「危機感って、ナンパじゃあるまいしそんなに心配しなくても」
「ナンパ以外の何物でもねーだろ」
「じゃ、初ナンパだ」
「にやにやすんな!」
にやにやなんてしたつもりはないのに、桃城くんにデコピンされた。地味に痛い。
「でもね」
「でももヘチマもねえって」
「すごい美味しいケーキ奢ってもらって恋愛小説の話してきただけだし」
「食いモンに釣られんな」
「食い意地はっててごめんなさい」
だけど彼 すごいエスコート上手サンだった 流石氷帝ボーイって感じで。と言葉を続けたらますます桃城くんの顔が歪んだ。なんでそんな顔してるの。
「俺、なんかすげえ嫌な予感するんだけど」
「なにが」
「丸眼鏡」
「なんで」
「丸眼鏡で、おまけに関西弁で氷帝って、悪い予感しかしねー」
「そういえば彼もテニス部だって言ってた。たしか名前は…」
えーっと。昨日聞いたばかりの名前をなかなか思い出せない私は、本気で人間に関する物覚えが悪いと思う。だって覚えているのは連れていってもらった店のシブースト・オ・ポムがめちゃくちゃ美味しかったことと、出てきた銀食器がかなり高価なものだったこと、流れていた音楽がとても中学生男子の好む店っぽくないしっとりしたクラシックだったことと、あとは彼の名字があんまり聞いたことのない変なひびきだった、ってことだけ。
そうなんだよ、なんだか変な名前だったの。なんだっけ…うーん。
「もしかして"お"から始まる名前じゃねえのその人」
「何となくそんな記憶はある」
「俺らより一個上で」
「うん」
「ちょっと髪長めで」
「そう」
あ!
思い出した!
「「忍足侑士」」
きれいに私の声と桃城くんの声がハモった。
「やっぱりかよ」
「やっぱり?」
「氷帝テニス部で関西弁丸眼鏡のちょっと胡散臭い系イケメンっつったら、あの人しかいねーよな」
「……桃城くんの知り合い?」
「知ってるっちゃ知ってるけど」
「けど、って?」
「いや。正確には氷帝テニス部の正レギュラーでダブルス専門ってこと以外詳しく知らねえ」
「氷帝レギュラーってすごいね」
「お前が"すごいね"って言ってもあんますごそうに聞こえねーな」
「そうかな、実感込めて言ってるんだけど」
「でもまあ、あの人には近づかねー方がいいな、近づかねー方がいいよ」
「どういう意味」
「野生のカン!」
そう言った桃城くんの顔があんまり真剣だったから、もう次の約束してしまったのですよごめんなさい心配かけて。なんてとても言いだせなかった。
good morning, my world君と彼との間には何かあるのですか?