手と手

 コンコン――

 ドアをノックする音に振り向かないまま「どうぞ」とこたえる。ちいさく軋んでひらいた扉から、雅兄のゆるい声が私の部屋へしのびこんだ。

「お風呂先にいただいたぜよ」

 おおかた “早く風呂に入れ” が口癖の母にでも伝言を頼まれたのだろう。礼を言おうと振りかえれば、ふんわり香ってくるボディソープの匂い。予想よりずっと近くに彼がいた。近すぎて視界が遮られている。顔が見えない。

「宿題か、真面目じゃの」

 肩ごしにノートを覗きこまれて、頭の上から声が降ってきた。
 ほんのりと湿気をまとった首筋に、濡れたままの銀髪が張り付いている。そのままじわじわと視線を上方へずらした、ら。

「な!」

 な、なに、それ…――

 雅兄の双眸と目があった瞬間。
 右手にしっかり握ったままだったシャーペンが、指先からポロリとすべりおちた。ころころと転がっていくそれを眼で追うこともできず、視線は一点に集中する。

 端正な顔に、たったひとつだけ追加されたオプション。

 目に映ったものがあまりに予想外すぎたら言葉をうしなうものなんだなあ、と頭の片隅で思った。声が出せなくなった。ひとことも。
 なんなの雅兄、その格好は。

「………」
「なんじゃ、黙り込んで」
「……や」
「俺の顔に何かついてるかの」

 不思議そうな表情の雅兄に、無言でぶんぶん頷く。何度も。
 ついてるかの?って何を白々しくしらばっくれているんだろうこの男は。さすがペテン師。
 ついてる、ついてる。しっかりついてます。ついてるじゃないですか、本当は自覚あるんでしょう。というか、それ絶対わざとでしょう。どこで私の偏りまくった嗜好情報を収集してきたんですか。ばらしたの誰だ。

「ん?」

 首を傾げたせいで、レンズが反射して、一瞬だけ見えなくなった眼に困惑する。

「…う」

 雅兄クラスのイケメン+眼鏡+風呂上り無防備スタイル×不意打ちのギャップ感=破壊力無限大だな、もはやジャスティスだな、なんてばかみたいな私欲まみれの公式を思い浮かべつつ、視線をはなせない。見慣れない格好にばちばちと瞬きをくりかえしながら、勝手に跳ねあがる心臓をもてあます。また不整脈だ。

「惚れ直したじゃろ」

 いや、ごめん雅兄 そもそも私はあなたに惚れた覚えがありませんけど。と、いつもの反論すらできずに口をぱくぱくしていたら、わざとらしく長い指先がズレたフレームを押し上げる。
 ちくしょー、それは乙女心をひそかにゆさぶるメガネ男子の仕草ランキング堂々の第1位(※当社比)にランクインしているアレじゃないかバカ!雅兄のバカ!
 心の中で突っ込みを入れつつめずらしく動揺している私を知ってか知らずか。不遜な目で見下ろしたまま、雅兄のうすいくちびるが、わずかに持ち上がった。意地悪げな弧を描く口元がひどく魅惑的にみえて、動揺ばかりが膨らむ。

 嗚呼…
 やっぱりわざとだ。この人。

 気の抜けた部屋着姿から素足をむきだしにしてそこに立つ彼の顔には、黒いフレームのメガネが燦然と存在感を放っている。色白の肌にくっきりコントラストを浮かばせた黒縁が、似合いすぎていっそ憎たらしい。
 たかが合成樹脂を加工したちっぽけな塊にすぎないのに、この破壊力はいったいなんだろう。眼鏡男子に無条件でフェティシズムを感じてしまう己の嗜好が憎い。

「勘違いバカ男!」

 上ずった声で言い返したのは別に私が雅兄のことを恋愛的な意味でどうこう思っているのが理由なわけではなくて、単純に眼鏡男子のビジュアルには滅法弱いってそれだけのことなんだけど。そんなことを主張したところで負け惜しみにしか聞こえないんだろうなあ 悔しい、と思いながら口を尖らせたら眼鏡の奥の瞳が眩しそうに細まる。

「その口」
「なに」
「あれじゃのう」
「だからなに」

 手招きをされて顔を近づければ、耳元に降ってくる低い声。

(キスしてくれ っておねだりされとるみたいじゃ)

「は!?」
「俺のほうはいつでも準備万端ぜよ」
 
 そう言って、ふたたび口角をゆるく持ち上げた彼から慌てて身を引いた。冗談か本気かぜんぜん読めない表情はやめてください。
 なにを言い出すのこの人。ばかじゃないの。第一いまそういう場面じゃないし、私の記憶の中の雅兄ってこんな人じゃなかったし。いつから忍足さんの変な病気伝染ったの。ナルシストこじらせるのも大概にして、その病気早く治した方がいいよ。雅兄も、忍足さんも。
 これ、もしかしてテニスの弊害?

「なに逃げとるんじゃ」
「逃げるでしょ普通」
「おまんは普通じゃないと思っとった」
「普通じゃなくても逃げるわ ばか兄」

 きつく睨み上げれば、記憶よりずいぶん大きくなったてのひらがぽすん、と頭をひとつ撫でて。とたんに冷静な観察力が影をひそめる。不整脈がさらに乱れている。近いうちに病院いかなくちゃならないレベルだこれ。
 ためいきを吐いたら、すこしだけ呼吸が楽になる。ああ、心臓に悪い。

「ええこと知ったナリ」
「なにが」
「秘密じゃ」

 やけに嬉しそうな雅兄の声が腹立たしい。腹立たしいのに、やっぱり目に映る光景は麗しいと思ってしまう自分がもっと腹立たしくて。


「はよ風呂入りんしゃい」

 おばちゃん機嫌悪くなるぜよ、と言いながら出ていく彼の背中を、見つめたまま数十秒固まった。





 いよいよ関東大会初戦の朝である。音のない桃城の自室には、ブラインド越しのやわらかい光が差し込んでいる。外からチチチ、と鳥の声が東の空にひびいていた。今日はよい天気になりそうだ。

「お兄ちゃん昨夜遅くまで何作ってたんだろ」
「さあ、うるさかったわねぇ」
「テンション上がると音楽のボリュームがんがんに上げたうえに奇声を発する癖やめてほしい」
「お母さんはあのべったべたガチガチに固めた髪やめてほしいわ」
「女子はさらさらヘアが好きなのに」
「「ねえ」」

 階下でくりひろげられている妹と母の会話には気づきもせず、桃城はぐっすり自室で寝入っていた。しずかな室内には桃城の規則正しい寝息だけがひびいている。
 昨夜はずいぶん遅くまで桃城スペシャルハチマキ作製作業をつづけていたのだ。ベッドにも入らず、椅子に座ったまま首や左手にはハチマキをまとわりつかせて眠りに落ちた。健やかな寝顔の中、上向き加減の口はぽかんとあいている。


「……んがっ」

 いびきをこぼしたのと同時に、けたたましく携帯が鳴った。

「ん、…もう朝 か」

 呟いてアラームを止め、ベッドに携帯を放り投げる。不自然な姿勢で眠ったため、体の変なところが痛い。こきこき、と首を鳴らしていたら、携帯から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
 俺、いつのまに携帯のアラーム設定をそんな音声に変えたんだっけ。そもそも、着ボイス的なものをこいつに登録した覚えが全然ないけどさっきの声、ものすごく好みだった。なんだこれ、夢か。まだ夢の中にいるのか。最近の俺、夢好きだな。

 半分寝ぼけたまま首を傾げたら、もう一度携帯が喋った。やっぱり気のせいじゃない。

(桃城くん、起きてる?)

 起きてるけど。今起きたけど。どういうことこれ。
 椅子から滑り落ちそうになりながら、さっき放り投げた携帯をふたたび掴む。画面表示は

 ――通話中?


「え、だれ」
「私。おはよう桃城くん」
「お、お前 なんで」
「いつものモーニングコールないからちょっと心配になって」

 ということは。
 さっきの着ボイスは彼女の生声だったってことで、いまは夢じゃなくて現実で、彼女が俺に電話してくれたってことで。

「……」

 なんだそれ、メチャクチャ嬉しい。全世界の男ども(とくに忍足さん)に自慢してやりたい。

「桃城くん?」
「………」
「桃城武くん、起きてますか」
「お、おう!」
「関東大会遅刻厳禁」

 そんなことを言われてしまえば、はじめての彼女からのモーニングコールなのに、じっくり味わう余裕もなくなる。

「何時いま」
「七時前」

 まじかよ!寝坊したやべえ。言いながら机いっぱいに散乱した、青学必勝のハチマキをかき集めると、蓋のあいたまま放置していた油性ペンで指がべっとり汚れた。時間ないのに何やってんだ俺。

「先に行って待ってるから」
「すぐいく!」

 立ち上がりながらあわてて電話を切ると、盛大な音を立てて階段を駆け降りた。





 関東大会試合会場アリーナテニスコート――
 
 木々にさす朝日がきれいだ。よいお天気。徐々に高くなる太陽は、おしげなく光を注ぎカアッと照り付ける。
 すこしずつテニスラケットを持った少年たちの姿が増えてきた。行き交う人々で周囲はワイワイと騒がしい。

「手、繋ぐぜよ」
「なんで」
「こんだけ人がおったらはぐれるかも知れんじゃろ」
「誰が」
「俺が」

 もしここで「お前がはぐれる」とか言われたら、さっさと放置して先に行こうと思ったのに。どうしてこういうときは素直なの。雅兄は昔からほんと甘え上手だ。

「だって俺、東京知らんもん」
「うそつけ」
「このままじゃ迷子じゃ」
「仕方ないなあ」

 しぶしぶ彼の手を取れば、強引に引き寄せられた。そんなにくっつく必要がどこにあるのだろう。疑問に思いながら歩みを進めているど、黄色っぽいユニフォームに身を包んだ集団が前にばばーん、と現れる。なんかオーラが一般人と違う。存在感すごい。
 雅兄と同じジャージなのできっとあれが立海レギュラーメンバーなのだろう。不出来な従兄弟がいつもお世話になっているお礼くらいしておいても罰はあたらないかな、と口を開きかけたら

「朝っぱらから女連れで登場とはたるんどる!」

 いきなり低い声で怒鳴られた。なんだろうこの人先生?女連れというか、たしかに私は生物学的には女に違いないけど、仁王雅治の彼女とかではなくてただの血縁者なんですけど。この銀髪のいかにもふざけててふわっふわしたお兄さんと悪魔の悪戯だか天使の気紛れで偶然血がつながっているってだけの品行方正で汚れたところひとつないただの従兄弟なんですけど。

「可愛いじゃろ、真田」
「……手を放さんか!」
「なんでじゃ」
「ふしだらだからに決まっているだろう、たわけ者が!」
「相変わらず固いのう、真田は」

 そう言いながら、雅兄はますます繋いだ手をきつく絡める。おまけに腰を抱きよせるから、暑い。ねえねえ、いま夏だよね。どんなバカップルでもベタベタくっつくの躊躇しそうな季節だよね。ほんと暑いし、雅兄自分だけ涼しい顔しちゃってだいぶ腹立つ。

 雅兄とは対照的に顔から湯気が出そうな形相の真田さん(?)とやらは、しっかりふたりの繋がれた手に注目している。顔が赤い。ものすごく老けた顔をしているし古臭い言葉ばかり使っているけれど、彼の中身は案外純情少年なのかもしれない。

「そういう話をしている訳ではない!」
「あの、」
「なんだ女」

 女って呼ばれた。なんなのこの人。何時代の生まれ?明治?江戸?もしかして戦国時代かもしれない、だから真田って呼ばれてるだけでもしかしたら本名はぜんぜん別なのかもしれない。暑苦しいからいま真相究明するのはやめておくけど。

「従兄弟がいつもお世話になっております」
「イトコ?」
「はい。彼女じゃありません」
「彼女予備軍じゃけどな」
「勝手に決めないで雅兄」
「照れるんじゃなか」
「照れてません」

 いっそう腰を引きよせる彼の仕草に、真田さん(※仮名。真相究明は一時保留)が苦虫を噛み潰して飲み込んで胃腸をぐるぐるにかき乱されて内臓が口から飛び出しそうでいまにも発狂寸前みたいな顔をしているむこうに、青学レギュラージャージの集団が見えた。ブルーの平部員ジャージ姿の桃城くんがこっちをじっと見ている。
 桃城くんもう来てるんだ、早い。驚いて空いているほうの手を上げようとしたら、辛そうに目を背けられた。傷ついた猫みたいだった。どうした爽やか桃城くん。

「あの男か」
「え」
「おまんが昨日の放課後逢い引きしとったのはアイツか」
「まあ、」

 逢い引きという言葉をつかうのはどうかと思うけど、昨日会っていたことに違いはないので頷く。

「なるほどなあ」

 雅兄が桃城くんに視線を定めたまま、楽しげに唇を持ち上げる。なにその勝ち誇ったような顔。
 そして、桃城くんの泣きそうな顔はなんなの。そんな顔見せられたら、じっとしてらんない。

「私もう、行くね。雅兄」
「あとで応援に来てくんしゃい」
「青学の試合とかぶらなければ」

 じゃあ、皆さんも頑張ってください。と言い残して、雅兄の手を無理やり振りほどくと、私は青学のみんなの元へ急いだ。





 走って会場に向かえば、彼女はまだ青学メンバーたちのそばにはいなかった。

「あいつ来てないんすか?」

 そう聞けば、乾先輩が無言である方向を指さす。黄色いジャージ集団に囲まれて、あいつがいた。

「なんなんすかアイツら」
「立海だにゃ」

 立海――王者立海大か。なんでまた彼女はあんなところにいるんだろう。

「仁王は仁王と従兄弟らしい」
「は?」

 手塚部長の不可解な言葉に首を傾げたら、やけに自慢げな表情の乾先輩が、朗々と語り始めた。

「うちのマネージャー仁王嬢は立海大付属テニス部レギュラーで俗に言うコート上の詐欺師・仁王雅治と血縁関係にあるらしいのだ。そう考えればなるほど彼女がテニスに詳しいのも頷けるというもの」

 桃城、そう思わないか?と問われたのでとりあえず肯定してみたけれど、俺の両目は彼女に釘付けだった。正確にいえば彼女と、その隣にいる男の間の部分。なぜなのか理由は分からないけれど、ふたりの手はしっかり繋がれている。それも恋人つなぎと言うのだろうか、しっかり絡められた指が俺の精神をじわじわと蝕んで行く。
 なんなんだあれは。従兄弟同士で実は付き合ってますとかそんなオチ?俺もしかして始める前に失恋するって流れ?今日俺レギュラーじゃなくて良かったってはじめて思った。だってこの状態で試合に出たらきっと、精神状態フラットに保てない。

「桃城あまり気にするな」
「なんの話っすか」

 にやけた顔で慰めてくる乾先輩に、やつあたりしそうになっていたら彼女と目が合った。けれど、ほほ笑む彼女から眼を反らすことしかできなかった。


手と手
なんで彼女あいつと手ェ繋いでるん。なんで桃城レギュラージャージ着てないん。俺いつまで蚊帳の外なん? by忍足
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