救えない掬えない巣食えない

 最初に懐かしい匂いじゃと思った。
 家庭にはそれぞれ独特の匂いがあって、それを嗅いだとたんにしまい込まれた幼い過去が蘇る。記録のオート再生スイッチのように。

「雅治くん男前になったね」
「おばちゃんの方は全然変わっとらんぜよ。いつまでも若いのう」
「口が上手いのは相変わらず」
「お世辞じゃなか」

 にこやかに会話を交わしながら数年ぶりに訪れたその家で、仁王はすっかりくつろいでいた。彼女はまだ帰宅していない。時計の針は午後8時前を指している。思ったより遅い。

 ところは彼女の家、つまり仁王にとっては叔父と叔母の家である。
 本来なら立海部員揃って試合当日バスで会場入りの予定を、強引に変更して仁王が前日東京入りしたのは実をいえば彼女のせい。
 先日の不意の再会が、妙に心に波紋をのこしていたのだ。彼女に会いたかった。彼女に会ってその波の理由を知りたかった。
 上っ面だけで近寄ってくる数多の女子たちにはほとんど興味が持てないのに、彼女には逆の感情をいだくのは幼少期に培ったゆるぎない関係性のせいだろうか。
 ともあれ、どんな態度でも彼女なら受け入れると安心できるのだけはたしかだ。と思っていたら、玄関からやっと「ただいま」の声が聞こえた。


「ところで雅兄、なんでそんな髪にしてるの。きらきら」
「姉貴にやられたんじゃ」
「ああ、なるほど」

 心から納得のいった顔で彼女は頷いた。姉貴の破天荒っぷりは親戚縁者の一部にとって周知の事実なのである。俺が姉貴のおもちゃにされていることを読みとった彼女が、「ほんとにキレイな銀色」と呟きながら髪の先にそっと触れた。

「男前度数割増しじゃろ」
「自分で言うな」

 束ねたしっぽを引っ張られて頭皮ににぶい痛みが走る。いっしょに鳩尾のおくのほうも、きゅっと突っ張るようにいたんだ。

「似合わんかのう」
「いや、似合ってるけど」
「おかげでモテすぎて困っとるぜよ」
「はいはい良かったねえ」
「嘘じゃないき」
「お母さーん、雅兄が頭ケガしてるみたい早く薬持ってきてー」

 軽口をたたけば、すぐにかえってくる毒のあるレスポンスがいっそ気持ちいい。
 自惚れているつもりはないが、群がる異性に辟易しているのは本当のことだった。風貌に似たところのある彼女だって少なからずその類の目にあっているはずだ。
 絶世の美少女ではないが、なんとも言えず惹きつける雰囲気を持っている。整ったやわらかい顔立ちが毒のあるさめた言葉や持ち前の器用さと相まって一種独特の魅力を生んでいた。中身と外見のギャップ感が絶妙なタイプ。
 そもそも先日の再会からしてよく考えれば不可解なのだ。一般的にただのマネージャーをわざわざ抽選会場へ連れてくるものだろうか。必要もないのに連れ歩くなど、まるでマスコット扱いではないか。青学の部長もしくは副部長は彼女に対してなにかしら特別の思いを抱いているに違いない。

「バカって言いたいんか」
「よくわかりまちたねー、まーくん」
「傷ついたナリ」
「一番傷ついてるのは脳だよね。かなりの重症だと思われます」
「お医者さんに見てもらわんと」
「なにそれお医者さんごっこのお誘いのつもりですか」
「よう分かったの」
「雅兄……大丈夫か」
「大丈夫じゃないけ、早う診てくんしゃい。先生」
「……ばか」

 心底呆れたように言われて、嬉しくなった。なんでこんなことで喜んどるんじゃろう俺。隠されたマゾヒズムが開拓でもされたんじゃろか。

「ところで、どこまで本気なの」
「俺はいつも100%本気ぜよ」
「コート上の詐欺師、なのに?」
「誰に聞いたんじゃ」
「氷帝の忍足さん、って知ってる?」

 てっきり青学の誰かの名が出ると思っていたのに、全然違う奴が出てきて驚いた。一体どこに接点があるのだろう。

「氷帝の天才か」
「そうなの?」
「千の技を持つ男、とか言われとるはずじゃ。おまんも顔が広いのう」
「たまたま趣味が合うだけ」
「テニスか」
「いや、映画とか本とか。テニスしてる所は見たことない」

 言葉をつづける彼女のなかに動揺を探るが、なにも見つからない。どうやら趣味が合うだけというのは本当らしいと思ったらホッとしていた。
 さっきから不自然なくらいざわざわと心が波打っている。

「ところで、中学テニス界では二つ名で呼ぶのが流行ってるの」
「そういうワケじゃなか」
「でも“コート上の詐欺師”に“氷帝の天才”って……ねぇ」
「なんじゃ」
「流石リアル中二病世代というか」
「天才って呼ばれとるのはもう一人おるけどのう。天才・不二」
「不二先輩!あとは?」
「神の子とか皇帝とか」
「神!?」
「うちの部長ナリ」

 入院しとって関東大会には出場できんのじゃけど、といえば本当に残念そうに彼女が呟いた。

「神のプレイ、見たかったのに」
「いつか見れるぜよ」
「でも明日天才見れるからいいか」
「不二ならいつも見とるじゃろ」
「ううん、忍足さんの方」

 また忍足の名が出てきた。よほど仲がええんじゃろか。

「今日はそいつと一緒じゃった?」
「違うよ、クラスメイトのテニス部男子の家に」

 忍足の名に揺さぶられたばかりなのに、平気な顔して今度は違う男の影をちらつかせる。ただの事実なのだろうが、無意識の揺さぶりをかけられている気分になる。

「二股とはやるのう。さすが俺の従姉妹じゃ」
「雅兄そんなことしてるの」
「さあ、どうじゃろな」

 肩を竦める彼女の声を遮るようにおばさんがお茶を持ってきたので会話が途切れた。
 それにしても何だろうこの違和感のなさ。数年のブランクなんてすこしも感じない。昨日までも毎日おなじようなやり取りを繰り返してきたような錯覚に陥る。波立っているのに心地好い。

「いい加減着替えてくるね」
「白衣でもナース服でも好きなほう着てきんしゃい」
「持ってるわけあるか」
「プレゼントしちゃる」
「ないわー」

 舌打ちして立ち去る彼女の背を見送りつつ、仁王は口元をゆるめた。





 当たり前のようにリビングに居座っている雅兄に最初はびっくりしたが、思えば数年前はこうしてよくうちに訪れていたのだ。すぐに慣れた。
 着替えて戻れば冗談か本気かわからない顔で「男のロマン裏切られた」などと眉を下げるので、私もただいま絶賛裏切られ中だと告げたら不思議そうに首を傾げる。

「いや、せっかくのイケメンがコスプレ好きなんて」
「嫌いな男子なんておらんじゃろ」
「そういうもの?」
「そういうもんじゃ。覚えときんしゃい」

 ゆるやかに持ち上がる口角がキレイな弧をえがく。本心の読めない顔だなあ、と思ったのと同時に携帯が鳴った。断って画面をのぞけば、忍足さんからの新着メールが一通。

『いよいよ明日やな、ほんまに楽しみやわ。主にキミに会えるんが』

 予想通りの内容に少し微笑んで『応援はできないけど、私も楽しみにしてます。氷帝の天才さん』と返信したら、雅兄に「誰?」と聞かれた。

「噂の人」
「忍足か」

 頷くのとほぼ同時に、またメールがきた。忍足さんは基本即レスだ。

『そんなん誰に聞いたん?』
『従兄弟に。いま家に来てるので』
『なるほどな。正直めっちゃ羨ましいけど、あんまり邪魔したらあれやし。ほなまた明日な』
『はい、頑張って下さい。いややっぱり頑張らないで下さい。また明日』
『どないやねん(笑)』

 いつも通りさっぱりとやり取りを終えて雅兄に向き直ると、やけに不機嫌そうな顔があった。

「ごめんね雅兄」
「ずいぶん楽しそうじゃの」
「そう?」
「俺にもメアド教えんしゃい」
「悪用しないでくれるなら」
「どういう意味かわからんぜよ」
「ペテンなんて聞いたら誰でも身構えるでしょ」
「テニスの技としてのペテンじゃけ、日常生活では使わんよ」
「ほんと?」

「この目見てみんしゃい」と顔を近づけた雅兄をのぞきこむ。透き通るような切れ長の瞳がこちらを見据えていた。長いまつげといい白目の濁りなさといい、ちょっと視線をはなしたくなくなるレベルの美しさだ。

「澄み切ってる」
「じゃろ」

 美しいけれど、底がしれない。透き通る泉はどこがほんとうの底辺なのか決して悟らせない。数多の視線をうけることにも嘘をつくことにも慣れきったような目。だと思った。無自覚か意図的かはわからないけれど。

「クリアすぎて逆にその目こそペテンのような気がしてきた」

 詐欺師、か。
 皆、なにかの役を背負っている。背負おうとしている。なりたいふうに、なろうとする。なりたいという明確な意思があろうとなかろうと、日々築いていく。そうして人はできていく。だとしたら、ペテンを演じねばならない雅兄の奥にはなにがあるのだろう。

「酷いナリ」

 わざとらしい嘘泣きの仕草が予想外にかわいらしくて笑ったら、「お前さんにはペテンも全部見抜かれそうじゃな」と言いながら雅兄も笑った。
 きれいな月夜だった。


救えない掬えない巣食えない
明日は仲良く手を繋いで会場入りしてやるぜよ。仁王流婉曲的心理作戦じゃ
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