愚の骨頂

 彼女がびっくりするくらい楽しげに笑っている理由も、突然乱入してきた海堂に「スペシャルハチマキ云々」とわけのわからないセリフで怒鳴られる理由もわからず、桃城は眉間にシワを寄せた。おまけに乾先輩は海堂の背中に隠れて意味深な含み笑いをみせている。
 俺以外の3人には事情が分かっているらしいのが歯痒い。つまり困惑しているのは俺だけ。

「なんなんだよ!」
「まあまあ落ち着いて桃城くん」

 表情に笑みの名残をのこした彼女に宥められたけど、納得がいかない。眉間のシワをますます深めたら、彼女が言った。

「五感の入力をいくつか制限されると、それを補おうとして脳内では情報が捩曲げられるんだね。興味深い」
「は?」

 ますます分からなくなったじゃねえかと悪態をつけば、「つまり見えないと脚色過剰になるってこと」と彼女に肩を2、3度叩かれた。やっぱりわからないものはわからない。

「分かるように言えっつの!」
「私と桃城くんの5分前からの会話を振り返ってみたらいいよ」
「いや、裁縫習ってただけだろ」
「うん。それを振り返るの」
「……」
「ゆっくり、ひとつずつね」
「たいした会話してねえし」
「私 出るから あとは2人でごゆっくり。海堂くん着替えるでしょ」
「おう」

 相槌を打った海堂が、自分のロッカーから着替えを引っ張り出す。やっぱりわからない。振り返るってなにを。
 どうしても針に糸が通らなくて、小さな穴を狙って必死になっていただけではないか。
 ぱたり、閉まるドアを目で追って問題の針と糸に視線を戻せば、さっきあんなに苦労してやっと通した糸はすっかり針穴から抜け落ちていて無性に腹が立った。
 海堂とふたり、取り残されたしずかな部室でとりあえず「どうしてくれんだよ」と目の前に針と糸を差し出して詰めよった。

「お前のせいで糸抜けちまったじゃねえか!」
「知るか!」
「つか、なんなんだよさっきのあの反応は」

 口ごもる海堂の胸倉を掴めば、きっといつものように喧嘩を売られると思ったのに。

「勘違いだった、わりぃ桃城」
「……は?」

 珍しく素直に謝りやがった。

「てっきり 事に及んでいるのかと」
「は?事に及ぶってなんだよ」
「そんな言葉も知らねえのか。ヤっ、
「知ってるっつの!みなまで言うな」

 その後、やけにしおらしい海堂の口から事細かに告げられたのはとんでもないピンク色の歪曲解釈で、やっと事態を理解したとたん 心臓が飛び出そうになった。
 ヤってる、って。
 その勘違い、テッパンすぎる。ありえない。

「つか 海堂お前…さすがにそれは」
「だいたい“入らない”だ“初めて”だって紛らわしい会話してるお前らの方が悪ぃだろうが」
「いやいや、言いがかりだろ!」
「うるせぇ!思春期なめんな!」

 開き直ってブチ切れられる海堂がある意味うらやましい。俺のほうはそれどころじゃねーっつの、と桃城はため息を吐き出した。
 目に映らない情景には、余分な色が付加されがちなものだ。俺がこの前みた彼女と忍足さんのありもしないデートシーン(※夢)みたいに、脚色過剰になる。だから海堂の動揺や誤解は理解できた。よく理解はできたけれど。

「部室でやるわけねーっつの」
「部室じゃなけりゃやんのか」
「バッ!バ!バカかお前っ!」
「バカはてめぇだ」

 そんなことを言われて、改めてさっきの彼女とのやり取りを反芻してみたら脳内がえらいことになった。まるでカオスだ。
「桃城くんはじめて?」「うまく入れらんねえ」「穴、小さいのかな」「難しい」「先っぽ舐めるとするって入るかも」「濡らすのか」「…上手」「入ったぜ」「抜けないように」って、露骨なくらいそのまんまじゃねえか。海堂の説明を受けてしまえばそういう場面しか浮かばない。
 俺はこのあと彼女にどんな反応をすればいいんだ。どんな顔して向き合えばいい。焦って海堂に泣きついたら、つめたく一蹴されて頭を抱えた。

「知るか、自分で考えろ」
「殺すぞ海堂!」

 着替えを終えて出ていく海堂の背中に吠えたら、入れ違いで戻ってきた彼女に「桃城くんは照れると短絡的になるよね」なんて笑顔で言われて、余計にどうしたらいいのかわからなくなったけれど、たぶん俺はおかしくない。断じて おかしく、ない。

 乾ノートに本日あらたに書き加えられたこと。
『その1、桃城は拗ねたら発言が英語の直訳みたいになる。その2、桃城は照れると短絡的になる。その3、彼女は桃城のことをよく観察し本質をとらえている模様。理由を探る必要アリ』
 以上。





 階段を二階へあがっていく桃城の足取りは重かった。
 両手で大切にかかえているお茶をこぼさないためだと誰へともなくいいわけしながら、後ろめたさを払拭する言葉をさぐっている。開き直るべきなのか、弁解すべきかさっぱり考えがまとまらない。
 いつもと同じ段目で木が軋んで音を立てる。その音が自室にいる彼女の耳にも届くだろうことは分かっている。だから、思わず途中で歩みを止めた。

「どうすりゃいいんだ」


 ところは桃城宅。
 あの一件のあと、部室での作業は一旦中断し日を改めることにした。まともに針仕事をできるような精神状態ではなかったからだ。主に俺が。実をいえば針で5度ほど指を突いた。加えて、手縫いでの作業は効率的でないと彼女が主張したから。「だったら俺ん家来るか、ミシンあるし」という流れになったのである。
 そんな自然な成り行きで彼女を自室に招いたのは、関東大会の前日。

「案外片付いてるね」
「こう見えて片付け上手なんだぜ」
「へぇ」
「一家に一台桃城武、ってな」

 なんて狭い空間に二人きりの緊張をふざけた会話でごまかしていたら、ミシンを持ってきた妹にたまたま聞かれた。

「いや。一家に一台お兄ちゃんは…いらないでしょ」
「つめてーなお前、兄ちゃん泣くぞ」
「泣けば」

 兄妹のやりとりを聞いて彼女は楽しそうに笑っている。
 片付け上手なんて嘘。お前が来るから昨日必死で片付けたんだ本当は。

「さっさと出てけ、邪魔」
「せっかくミシン持ってきてあげたのにー」
「用事済んだだろ」

 興味津津を絵にかいたような眼差しで彼女を観察している妹を、必死の思いで追い出した。


「妹、美人ちゃんだね」
「ありえねーな、ありえねーよ」
「兄弟だとなかなか純粋な容姿的評価を下すのは難しいものだから」
「そういうんじゃなくて」
「桃城くんによく似てる」

 俺に似て美人、ってこと?心臓がバクバクし始めたところでベッドを背に座っていた彼女が、「あれ?」と声をあげた。

「え、なに」
「なんかある…いま指に触った」
「へ」

 彼女の手の先を目で追えば、ベッド下の魔空間に右手が滑り込んで。滑り込ん、で。ううわああああ ちょ ちょっと待て それはまさか なんでもっと慎重に隠しておかなかったんだ俺のバカ!ヴァカーー!!

「なんか雑誌っぽい」
「わ!お、俺お茶いれてくるわお茶」

 まさかの思春期男子の秘密ゾーン露見の危機に、転がるように部屋を抜けだした。いや、どうするんだ俺。逃げちゃだめだろ俺。
 動揺のままお茶をいれに階下へおりたら、ふたたび妹に遭遇した。

「お兄ちゃんにあんなきれいな彼女がいるなんて意外」
「バカ!ただのマネージャーだ」
「それにしては鼻の下伸びてるけど」
「そんなわけねーだろ」

 戻れば俺の部屋に彼女がいる。さっきのトラブルは収拾できず放置されたままなわけで、きっと彼女はあの雑誌を見てしまったわけで。そのうえ、この前海堂に誤解された行為をふたたびこれからする(※あくまで裁縫です)のだ、と思ったらどうしたらいいのか分からなくなる。
 いやでも俺、健全な中2男子だしそんなもんの一冊や二冊持ってるのが当たり前なんだし、開き直ればいいんじゃね。もしくは彼女がさらっと流してくれたら、いっそなかったことにしてガンスルーしよう。そうしよう。
 とは言うものの、とても普通の顔で作業などできそうもないから。桃城は階段でばかみたいに立ちすくんでいるのだった。

「どうすりゃいいんだ」

 立ち止まって数分、階段をのぼってきた妹に脛を蹴り上げられて我にかえった。お茶菓子を持った妹にひきずられるようにして渋々部屋に戻れば、なんとも涼しい顔で彼女は雑誌をめくっている。
 俺、詰んだ。

「桃城くん、こういうの読むんだ」
「……ま、まあ」

 さらっと水に流しては貰えなかったらしい。「こういうの」ってどういう意味だろ。すげえ心臓に悪い。

「私も買ってみようかな」
「はぁ!?」
「え、そんなに驚くこと?」
「いや、別に…それは個人の自由だと思う、けど」

 なかなか面白いよね、と言いながら彼女は興味深げに雑誌をめくりつづける。白いスコート姿の女性の脚がやたら健康的で眩しい。
 って、その雑誌なに?

 ガバッと手を伸ばして彼女のもつ雑誌の表紙を確かめる。なんだそれ、うふんあはんなあっちのアレじゃねえじゃん!
 そこに刷られた『月刊プロテニス』の文字に涙が出そうになった。井上さん、芝さんありがとうございます!御礼の言葉を大声でいま叫びたい。

「桃城くん毎月買ってるのこれ」
「お、おう…一応な」
「流石テニスプレイヤーだね」

 これはもしかして。
 助かった、のか――





 桃城くんの家から帰宅すると、玄関に見慣れないテニスシューズが脱ぎ捨てられていた。ずいぶんサイズがでかい。
 こんなものを履くような知り合いいたかな、と思いつつ「ただいま」と言えば、リビングから間延びした男の声が聞こえた。

「おかえり。お邪魔しとるぜよ」
「ま、雅兄?」

 はたして、銀髪の従兄弟 仁王雅治がいた。

「おう。まーくん参上」
「なんでいるの」
「関東大会の会場がここから近いけ、前入りしたんじゃ」

 自分のことを「まーくん」なんて呼んでニコニコ笑いながら、雅兄は私の頭をわしゃわしゃと撫でた。子供扱いなのは相変わらずだ。

「初戦の偵察?」
「俺らも試合じゃよ」
「そっか、シード1だ」

「王者立海大じゃけのう」誇らしげに答えた雅兄の隣にぽすん、と座る。ソファがゆるく軋んでよろめけば、そっと肩を抱きとめられた。

「お、ナイスアングル」
「は?」

 ああ、またかこいつは全く。案の定むなもとに留まる視線を避けて、腕を振りほどく。肘で脇腹を突いたらプリッ、と変な擬態語を発したので足を踏ん付けてやった。ピヨッ、てなにその良くわからないオノマトペは。宇宙人か。

「それにしても帰り遅いのう、青学は試合前日もこんな時間まで練習か」
「今日はちょっと別件」
「あんまり遅いき、学校まで迎えに行こうか思っとった」
「絶対やめて」
「そんな嫌がらんでもええじゃろ」
「というか学校にはいなかったし」
「いっちょ前に男か、隅に置けんの」
「違わないけど違う。健全な乙女をからかうな」

 だめだ。雅兄と話してるとなんだか調子狂う。

「久しぶりに今夜は一緒に風呂でも入るか。背中流しちゃる」
「断固拒否!変態!」
「なんじゃ、せっかくおまんの成長度合いを生で確かめちゃろうと思っ、」

 ニヤニヤと表情を崩す雅兄の後頭部を、桃城くんから借りた雑誌を丸めた奴で思い切りひっぱたいてやったけど、全然気がおさまらない。

「痛いナリ!なにするんじゃ」
「こっちのセリフ」

 こんな猥褻男子にはぜひ、乾先輩特製乾汁スペシャルバージョンを飲ませてやりたいと思うので今度レシピを聞いておこう、とひそかに心に決めたのだった。



愚の骨頂

(俺 今回ぜんぜん出番あらへんかったな。あとでメールでも送ろ。 by忍足)
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「見えない臓器の名前は」
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