erotic and grotesque

 窓の外では雨が降り始めたことに忍足はとっくに気づいていた。彼女が気づくまで自分も気づいていないふりをしたのは、彼女と雨を交互に観察しながらポーカーフェイスの内側で好き勝手妄想の翼を羽ばたかせるためだ。

「あ、雨」
「…ほんまや」

 今の返事はちょっとわざとらしすぎたかもしれへん。彼女は「嘘つけ。あんたずっと外見てたやん」と言いたげな視線を送ってくるが、何も言わない。そういう無駄なことをわざわざ言わないところも好きだ、と思った。

 視線をさりげなく反らしてもう一度「雨、やな」と呟けば、言葉につられて彼女がまた外を見る。この横顔の角度、睫毛のながさが際立っててええ感じ。いま同じ雨をみて同じ空間にいてるんやなあ、って ただそれだけのことが嬉しい。
 きょうは世の全カップル憧れシチュエーションいちゃいちゃ「あーん」攻撃もベタに成功したことやし、俺は相当機嫌がええ。そのうえ、この雨。まさかの相合い傘までできる流れなんちゃうかと思ったら顔がじんわりゆるんで、ガラスに伝う水滴を眺めながら忍足はそっと口元を覆った。

「どうしたんですか忍足さん」
「なん?」
「何だかものすごく挙動不審というか変な顔になってます」

 まずい。
 ポーカーフェイスの危機や。心を閉ざせ忍足侑士。

「雨ってええよな」
「え、雨見ただけでにやにやするってどんだけ雨好きなんですか」
「ロマンチックやん」

 ただしく言えば、雨に付随しておこるであろういくつかの定番シチュエーションがロマンチックなのである。相合い傘しかり、突然の雨に降られて濡れた姿しかり。こうして不可抗力で室内に閉じ込められている感じもいい。ゆるい軟禁状態。
 あきらめてポーカーフェイスをすっかり崩しながら鞄のなかを確かめる。ある。折り畳み傘常備しといてよかったわ、つねに隙のない俺イケてる。と思った次の瞬間には、わざと傘ないフリしてふたりで濡れるんもええかもしれん、そっちの方がむしろええで!と思いついてさらに口元がゆるんだ。
 広げたタオルを傘代わりにかざしてびしょ濡れのまま肩抱いてくっついて走るとか、どや。相合い傘よりもっと親密なんちゃうのそれ。ついでに「雨宿りしていき」言うて俺のうちに呼ぶねん。濡れた制服乾くまで俺のん貸したったりすんねん。女子の着るサイズの合わへんぶかぶかシャツは男のロマンや。

「忍足さん、大丈夫ですか」
「ロマンチック言うかエ…ロ…ロロマンやろ!ロマン」

 まてまて俺。何をうっかり口走りそうになっとんねん、エロはあかん。濡れて張り付く制服も男物のぶかぶかシャツもエロチックやけどいまエロチック言うんはあかん。絶対。

「忍足さんがそんなにロマンチストだとは知りませんでした」
「男はたいがいせやで」

 たぶんぎりぎりセーフ。

「たしかに、雨って効果的な舞台装置ですよね」
「恋愛物の王道やな」
「雨バンザイですね」
「せやろ」
「でもあんまりベタな使われかたすると逆に萎えますけど」
「まあな」
「小道具としては、月も個人的にイチオシ」

 二人揃って空を見上げたが、雨のせいか月は見えなかった。

「まんまるな満月とか、雲に覆われた細い月とか、月夜の薄闇とか。太陽より神秘的なのも私はすきです」

 それより俺は君がすきや。
 あやうく口走りそうになって忍足は寸前でとどまった。恋愛物の王道から外れそうになってた。だいたいこういうんは焦れったいくらいじりじりしてる方がええねん。そのはずやねん。欲しい、って思わせたモン勝ちや。

「満月の夜の人狼とか、」
「そう。月の力に導かれて、的な」

 彼女がフォークを口に運ぶ。うれしそうにゆるむ目元で、ながい睫毛がばしばしと音を立てそうにゆれた。物食べるときの表情の幸せそうなことと言ったら、くちびるに吸い込まれて消えるケーキのかけらが毎度のことながら羨ましい。
 あまりにくちびるばかり見つめていたら「食べます?」と聞かれた。食べるんならほんまはそのつやつやのくちびるの方を食べたいんやけどと思いつつ頷けば、彼女は無造作に自分の皿を俺の前に押しやる。

「あーん、てしてくれへんの」
「なんで?」
「さっき俺もやったったやん」
「頼んでません」
「あーん、してくれへんのやったら食べる意味あらへん」

 さっさと皿を引かれた。
 多分せやないか思てたけど、やっぱりか。彼女はふつうの顔してケーキの続き食べとる。「あーん返し」を期待するんは夢のまた夢。調子乗りすぎたらあかん、欲張るとろくなことないてお父ンも言うとった。人間あきらめが肝心や、でもあきらめたらそこで試合終了ともA先生言うたはるやん。せめて相合い傘かびしょ濡れお招きだけでも成功させたる。

 と思っていたのに。

「小心者なのでいつも折り畳み傘持参なんです」

 その一言で、忍足のよこしまな夢はあっさり全て潰えたのだった。





「桃城に頼むくらいなら俺が起こしたるで」
「理由がありません」
「俺にはある」
「え」
「寝起きの声聞けるやろ」
「悪態ついたりしますよ」
「ますますええやん」

 ケーキを食べ終えてティカップに手を添えれば、すっかり冷えていた。紅茶新しいの頼もか?と言う忍足さんに黙って首を振る。

「それに朝から忍足さんの声聞いたら別の世界に連れていかれそうな気がするので、遠慮します」
「なんやそれ、桃城やったらええの」
「彼の声は…ホッとしすぎてまた寝てしまいそうなんですけど」

 桃城くんからのモーニングコールにやけにこだわる忍足さんをみて、やっぱり彼らの間にはなにかある、と思った。

「雨の朝って寝起きさらに悪くなるんですよね、気圧の関係かな」
「そない朝弱いん」
「低血圧なんです」
「血圧は俺もそない高いほうやないけどな」

 どれくらいか、と聞いたら「下が50で上はだいたい90」と言う返事がかえってきた。それ低い。

「私と同じくらいですよ」
「ほな俺も低血圧っちゅうことやな」

 だったら私が朝起きられないのは体のせいじゃなくて、単純に自分の甘えなのか。精神性の問題ってやつか。心入れ替えよう。

「うわ、甘えてたらダメだ」
「ええやん、女の子は上手に甘えるもんやで」

 そう言って忍足さんはテーブル越しに頭をなでる。彼が言うと、「甘え」がなんとなく違う意味に聞こえるのだが、私が言いたいのはそういう意味ではない。

「最近へんな不整脈もあるから、朝辛いのはそのせいかも」
「不整脈?」
「たまに不意打ちで心拍が恐ろしくあがるんです」
「脈、計ったるわ」

 忍足さんは私の遠慮の言葉を無視してさらっと手首をとる。とくん、とくん、規則的な脈拍を感じた。

「いまは平気なん」
「まったく大丈夫」
「なんや。不整脈て聞いててっきり俺に恋でもしてくれたんか思たのに」
「ないですね」
「あない恋愛小説ばっかり読んでんのになあ」
「実践と架空は違いますから」

 あれは所詮紙の上の話です、と言えば忍足さんはちょっと寂しそうに笑った。その顔をみて、すこしだけ心臓が跳ねる。

「あれ、いま乱れたんちゃう」
「気のせいですよ」

 いまの感じ、なんだろう。なんで私は焦って否定しようとしているんだろう。忍足さんの指を手首から引き剥がし、ぬるくなった紅茶を飲み下す。みぞおちの内側で、さらさらの液体がみょうに引っ掛かった。





 関東大会を目前にひかえたある日。海堂が自主練を終えて部室へ戻ると、ドアの前に不自然な姿勢で乾先輩が張り付いていた。最近この人と偶然会うことが多い。

「お疲れさまっス」
「しーっ」

 ノートを丸めて部室のドアに押し当てていかにも不審者丸出しの乾先輩に「なんスか」と声をひそめる。

「貴重なデータがとれそうなんだ」

 なんとも彼らしい回答だけれど、ここは初夏の夕暮れの部室前なのだ。いったい誰のどんなデータがとれると言うのだろう。
 海堂としてはさっさと着替えて家に帰りたいのだが、乾先輩から漂う“ドアを開けてはいけないオーラ”が凄まじいので半分あきらめてグラウンドでも周回するか、と背をむけたら腕を引かれた。かなりガッチリ。

「なんなんスか」
「黙ってお前も聞くといい」

 無理やり隣に座らされた瞬間、室内から桃城の声が聞こえて俺は反論を飲み込む。

「忍足さんのプレイ自体に興味があるのは確かだけど、彼自身の人間性やプライベートには関心ない。全くねえからな」
「桃城くんって拗ねると発言が英語の直訳みたいになるよね」
「拗ねてねえし」
「まあいいや、さっさとやろうか」
「余計な話振ったのお前じゃん」

 会話の相手はマネージャーだ。同じクラスの奴らは部活以外でも仲がよいらしく、教室でもよく会話しているのを見かける。隣のクラスだから見たくなくても目に入ってくる、それだけのことだ。別に気にして観察しているわけではない。

「桃城くんこういうのはじめて?」
「当たり前だろ、」

 さっさとやろう、とか、はじめて、という単語に気をとられているのか、乾先輩はさっきから息を詰めて集中している。

(やっぱりあの二人、あやしいぞ)

 あんたの考えすぎなんじゃないですか、と言い残して立ち去ろうとしたらまた中から話し声が聞こえた。

「つか悪ぃ」
「別に謝ることないし」
「うまく入れらんねえ」
「初めてだとなかなか入らないよね」

 聞いたか海堂、なかなか入らないって。鼻息荒めの乾先輩にリピートされなくても、ちゃんと俺にも聞こえた。あいつら部室でいったいなにやってんだ。「こんにゃろ!焦るぜ」と続く桃城の声を聞いて、コノヤロー!って言いたいのは俺の方だと拳をにぎりしめた。

(落ち着け、海堂)
(シャレになんねえっス!)
(まずはありのままを知る事だ)

 ありのままを知る、って別に俺はそんなこと知りたくねえし。まったく望んでない。むしろあいつらが今ごろこの中で「ありのままの姿」になってるんじゃねえかと思ったらむかむかする。
 レギュラー落ちして腐って無断で部活休んだかと思えば次はこのザマかよ桃城お前ふざけてんじゃねーぞ。

「焦らないで。穴、小さいのかな」

 やわらかい彼女の声に、否定しようとしてもイケナイ想像ばかりが膨らむ。イケナイ想像しか膨らまない。

「難しいな…」
「あ、そうだ。先っぽ舐めるとするって入るかも」

 清純そうなナリして、あのマネージャーは案外経験豊富なのだろうか。中学生のくせに。俺たちはまだ中学生なのに。
 やっぱり決定的だな、と呟く乾先輩の言葉を否定することもできず怒りに似た感情だけが増幅してゆく。

「濡らすのか」
「そう…上手」
「入ったぜ!」
「じゃあ抜けないようにしてね」

 そこまで聞いた瞬間、海堂のなかで大事ななにかがぷっつり切れた。

「ごるあぁあ!桃城なにしてんだてめぇは!」

 ガチャ!音を立てて乱暴に部室へ突入した海堂の頭には、そこに広がっているはずの乱らな光景のことしかなくて。さすがに見るわけにはいけないと、片腕で自分の両目を覆っていたのでなにも見えなかった。

「海堂?」
「10秒だけ目隠ししててやるからさっさと隠せ」
「どうした海堂くん、隠すって何を」

 なにそれ隠す必要ないくらい自分のカラダに自信ありますってか、こいつ。たしかに胸はそこそこでかい割に細いし、脚もきれいだけど。自意識過剰じゃねえの、大和撫子っつうのは慎み深さが命なんだぞオラ!
 それにしても、いかがわしい行為の最中だったにしては二人の声がやけに落ち着き払っている。ような気がする。

「今後一切部室をそんなことに使うのは俺が許さねえ」
「そんなこと、って」
「まだシラを切る気か桃城!」

 俺と乾先輩はばっちり外で聞いてたんだから言い逃れできねえぞ、と言い募ろうとしたら乾先輩の耳打ちがきこえた。

(勘違いだ、海堂。目をあけろ)

 恐る恐る目をひらけば、桃城の手には針と糸。あと布。
 しごく健全に裁縫を習っているだけでした。

「針に糸を通すのってこんな難しいもんなんだな、海堂知ってた?」
「知るかバカ」
「喧嘩売ってんのかコラ」
「うるせえ。桃城スペシャルハチマキ製作中って部室の外に貼っとけよ!」

 なんだこのめちゃくちゃな主張。
 俺らのやり取りに、彼女がお腹をかかえて笑ってた。多分俺と乾先輩のよこしまな想像、バレてる。



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