宇宙の入り口でたたずむ魚

 ずいぶん長い沈黙に思えたのは桃城くんの顔が見えないからだろうか。顔のみえない会話はやっぱりちょっと苦手だ。
 電波の加減ですでに回線が切れているのかもしれないとあきらめつつ「桃城くん」と呼びかけたら、電話越しに息遣いが聞こえた。

「電話、切れたかと思った」
「切れてねえ…けど」
「なにか気に障った?ああ、私喋りすぎたかな」
「違う」
「でも」
「違う」
「……」
「俺の問題だから」

 とつぜん黙り込んでおいて、譲歩すれば拒絶して、なのにとても切り捨てられない空気を漂わせる。なんなのだろうこの桃城くんの繊細な声音は。電話越しという以上の距離を感じて、心細い。

「俺の、問題だから」

 もう一度つよく言い切られて、食い下がるのはやめた。そこは私が立ち入ってはいけない領域に思えたから。かと言って、すぐ電話を切るのはもっと違う気がした。

「桃城くん。沈黙のあいだに私もうひとつ仮説を立ててみたんだけど、というか勝手に頭に浮かんだことがあるんだけど」

 聞いてくれる?と尋ねたら、かすかに笑い混じりの肯定が返ってきてほっとした。

「あのね、声の質と容貌の美醜との間にはなんらかの因果関係があるのではないか、と思うのですよ」
「はいはい」
「さっき自分で言ってから気づいたんだけど、テニス部=イケメン=美声の等式、成り立ってるじゃない。桃城くんを筆頭に。顔がいいと声まで良くなるのかなって。いや、声がいい人は顔もいい、かもしれないけどニワトリ卵だからどっちが先でもいいというか」
「お前…幸せだな」

 桃城くんの声にちょっとだけ元気が戻った。そのやわらかい声を聞いて、自分が想像以上に幸せになっているのにびっくりだ。

「うん。幸せなので、もっと幸せにしてください」
「なんだよそれ」
「もっと喋る声ききたい、ってこと」

「ばっ…!」口ごもる彼が照れているのが分かって、口元がゆるむ。彼はやっぱり尖っているよりもこっちの方がずっといい。

「桃城くんはなにしてたの」
「トレーニング、みたいな」
「おっと!邪魔してごめん」
「邪魔じゃねえよ全然。つか誤発信したの俺の方だし」
「それは良かった」
「俺も。声きけて良かった、何かありがとな」
「私なにもしてないけど」
「かも知れないけど元気でた。とにかくサンキュ!じゃ、おやす」
「え、もう切るの?」
「や。あんま遅くなってもアレだし」
「アレ…?」

 口をひらいた後に気づいた。私自分がもっと桃城くんの声を聞いていたくて我が儘言おうとしてるだけだよ、ダメだこんなの。

「ごめん」
「なんでお前が謝ってんだよ」

 バーカ。って受話器からこぼれる声があんまり温かいから、じんわり胸がゆるむ。忍足さんとは全然種類が違うけど、やっぱり桃城くんいい声だな、と思った。

「我が儘ごめん、って」
「じゃあ我が儘ついでに俺から一個聞きてえことあんだけど」
「なんでもどうぞ」

 受話器のむこう、桃城くんがすうっと息を吸い込んだ。なんだかものすごく言いにくそうで、私もつられて深呼吸をひとつ。


「お前、忍足さん……すきなの?」

 すき、きらい。
 そんな二元論で考えたことなんて一度もない。興味深いか興味がないか、どちらかだ。どうして皆、すぐに物事を好き嫌いでカテゴライズしたがるんだろう。そうやって不思議に思っているくせに、なんで私のむねは今どきどきしているんだろう。

「なんのこと」
「……答えになってない」
「うん。答えてないから」

 桃城くんとこんな問答がしたいわけじゃないんだけど「なんでもどうぞ」と言った手前、答えないわけにいかないなあとため息を吐き出したらまた桃城くんの声が聞こえた。

「強いて言えば 好き、嫌い?」

 そう言って、彼はごくりと喉をならす。桃城くんはいったい今どんな顔をしているんだろう。からからに掠れた声がめずらしく私の名前を呼んだ。胸がちいさく鳴いた。

「強いていえば…ね」

 切迫した声で「なあ、」って迫られたら、逃げられなくなる。

「…好き、な方かな。というより面白い人、だとは思う」
「そう、か」
「そう」
「……」
「今日もね、ものもらい出来て眼帯してるくせにあの人さらに伊達眼鏡までかけてたし、どんだけ己を隠したいんだろうって思ったら、つい。興味わくというか。前髪うっとうしく伸ばしてるのも素を隠したいのかな、とか勘繰りに事欠かない人だよね」

 そういう意味で面白い。と続けたらまたごくり、桃城くんの喉が鳴る。そんな些細な音で、私まで緊張する。ごくり、に呼応するように心臓がどくり。

「…俺、は?」
「へ?」
「好き嫌いでいえば」

 桃城くんの掠れた声が、不安定に裏返る。なぜだか心臓がゆらゆらと揺れていた。

「なあ」
「…好きに決まってるでしょ。何言ってるのいまさら」
「……もう一回、言って」
「……」
「頼む」

 懇願するように頼りない声でねだられて、庇護欲がわきあがる。電話じゃなければいますぐ桃城くんの頭をなでたいと思った。わしゃわしゃと撫でまわしたい、と思った。忍足さんや跡部さんや雅兄が私を撫でるのも、こんな気持ちなのだろうか。

「 好き に決まってる」
「よし!寝る。おやすみ」
「え、なにそれ…」

 いきなりおやすみ宣言されて面食らったけど、桃城くんの声が楽しそうだから良しとしよう。桃城くんが楽しいと私も嬉しい。

「おやすみまた明日」
「朝練寝坊すんなよ」
「モーニングコール希望」
「マジでか」
「だいぶ」

 ここだけの話、本気でかなり朝には弱いのだ。毎朝、神様といろんなものを賭けて葛藤する。あと5分眠らせてくれたら一日なにも食べられなくてもいい、とか、一生恋ができなくてもいい、とか。5分の対価としてはおそろしく重たいものを賭けているのに気がつくのは、いつも目が覚めたずっとあと。

「低血圧寝起き不良症候群ってやつでね、モーニングコールどころかホントは寝たまま送り迎えされたいくらいなんだけど」
「……ふざけんな」
「だよね。ごめん」

 へへ、と笑ったら、ほんの少しだけ不自然な間があった。

「…か、考えとくわ。おやすみ」
「おやすみなさい、桃城くん」

 かくて桃城くんは翌日、モーニングコールした上にお迎えにきてくれたのでした。





 いつもより15分早くセットした目覚まし時計がなる前にばっちり起きてしまった桃城は、デジタル表示をみて、もう少し布団に潜っていたい気持ちを抑えた。
 普段強力なワックスを使って固めているが元々くせのない髪は、半身を起こした桃城の頬とうなじにさらりと被さった。あの髪型をつくるのには少し長めがちょうどいい。
 目にかかる前髪を掻きあげて、意識が覚醒するまえに携帯を手にとる。一息ついてしまえば、彼女に電話できなくなる気がした。

 1コール、2、3…7コール目でやっと呼出音が消えた。「も、しもし…」彼女の声が寝ぼけてやわらかくぼやけているのを聞いたら、とたんに動悸が乱れはじめる。

「もしもし俺」
「桃城…く…」

 今にも寝そうなその声は、まるで甘えているみたいで。彼女の甘えた姿なんて一度も見たことがないから、もっと聞いていたいと思った。

「朝だぜ」
「知って、る」
「嘘つけ」
「ね。桃城く…お願、い」

 舌足らずな口調に心臓が跳ねまくっている。お願いってなんだよお願いって。いまなら何でも聞いてしまいそうな気がして、桃城がてのひらに汗を滲ませながら携帯を握りしめたら、

「何でも言う、こと…きく から」
「……」
「桃、城くんのお願い 何で も」

 寝起きで半分麻痺した耳たぶを彼女の甘嗄れた声が撫でる。なんだこの破壊力。頭くらくらして来たやばい。無意識に変なお願いを口走りそうな気がする。

「き、く から あと5分寝、」
「無理!20分後に家の前な!」
「……おに」
「知るか 20分後だぞ 遅れんな!」

 危うく俺まで夢の世界へと逆戻りしてしまいそうで、言い逃げして電話を切った。
 今朝の俺が学んだこと。モーニングコールは思ったより心臓に悪い。





『お借りした本、返したいので』

 彼女からそんなメールをもらって、忍足はいそいそと待ち合わせ場所へ向かう。とは言ってもいつもの書店なのだが。たまたま部活休みの曜日が重なるなんて俺と彼女の出会いは運命ちゃうかと短絡的なことを考えながら。
 そもそも最初に声かけたあの日の出来事からして運命的やった。同じ本を探してさまよう指がピッタリ同じタイミングでぶつかる確率は、パンをくわえた理想の美少女と曲がり角で偶然ばったりぶつかる並の少女マンガ的出会いイベントやで。
 そして今日返して貰うのが出会いのきっかけになったまさにその本なのである。

「久しぶりやな」
「この前会ったばかりですよ氷帝で」
「せやった…か」
「眼帯、取れたんですね」

 他愛ない会話をしながら歩く。てのひらの当たりそうなぎりぎり近くで 並んで。

「…堪忍」
「なんで謝るんですか」
「眼帯好きやろ」
「それはそれです。どこも悪くないのに眼帯強要するとか私何者ですか」

 てのひらの熱が伝わる。触れそうで触れない距離はこんなにもどかしいものだっただろうか。

「メバチコ完治、おめでとうございます」
「おおきに やっと治ってん。ほんまあの朝は起きたなかったわ」
「忍足さんは朝、強いんですか」
「そない弱いほうちゃうけどなあ」

 自分はどないなん?と聞いたら隣でふんわり笑う気配がした。解いた髪でみえない横顔は、意図的に隠されているようにも思える。

「弱すぎて、桃城くんにモーニングコールしてもらってます」
「…桃城 に」
「朝練に遅刻したら洒落になりませんので」

 なんやそれ。
 うらやましすぎて凹んだ。

「ところでこの前の失敗談、結局なんだったんですか」
「…う」
「絶対笑いませんから」

 思い出したないあの一件を無理やり言わされて、さらに凹んだ。ダブルパンチ。

「早よ忘れてや」
「他人の耳から聞くよりはいいかなと思ったんですけど」
「確かにせやな、あいつらどない脚色しよるか分からへんし」

「でも…」と口ごもりながら彼女は堪えきれないように ぷっ、と吹き出した。

「なんやの」
「裏返しって…ウケる」
「笑わへん言うたやん」
「いや、可愛くて」
「それ褒め言葉やあらへんで」

「あまりに忍足さんらしくないから、つい。すみません」謝る彼女の手を勢いで掴むと、行き先も告げず駆け出した。





 いきなり手を取られたかと思えば、なぜかまたスイーツを挟んで忍足さんと向き合っている。

「口止め料のつもりですか」
「人聞き悪いなぁ」

 なにを思ったか、自分のケーキをひとかけ乗せたスプーンを忍足さんは差し出した。

「誰にも言いませんよ」
「ちゃうて。美味いからやん」
「いいです」
「騙された思て一口だけ、な?」
「騙されたと思いながら食べるものが美味しいわけないでしょ」
「ほら、あーん」
「え…」
「ええから口あけえ」

 忍足さんのスプーンがずんずん目の前に迫ってくる。なんでこんなに恥ずかしいことになっているんだろう。これでは、まるでバカップルじゃないか。

「無理です自分で」
「…あーん」
「う わ、あ!む…美味しい」
「やろ?絶対自分すきやと思てん」

 美味しい。
 けど、

「ついてるで」

 さりげなくくちびるの端のクリームを拭う忍足さんの指先が熱くて。それを当たり前みたいに舐めとる仕草はムダにつやっぽくて。

 体まるごと、心臓になってしまったような気がした。



宇宙の入り口でたたずむ魚

最近、原因不明の不整脈だらけです。
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