骨のつみき

 朝練を終えた忍足が部室に戻ると、『メバチコって何ですか』という短いメールが来ていた。彼女からだ。
 たった10文字の羅列でとたんに機嫌がよくなる自分はけっこう滑稽だけど嫌いじゃない。忍足は口元をゆるめつつ返信する。

『ものもらいのことや』

 相変わらずシンプルなメール。
 いつかこれがもっと色っぽいモンに進化することなんてあるんやろか。まあこのまんまでも充分楽しいんやけどな、と顔を綻ばせたら、すかさず岳人に見透かされて、アクロバットで携帯を奪われた。

「返せや」
「侑士、あの子に相当だな!」
「相当てなんやねん」
「お、ね、つ」
「うるさいわ」
「くそくそ!羨ましいぜ!」

 跡部といい岳人といい、コートの外で技使うんやめぇっちゅうねん。ほんま節操あらへんなあ、と批判しながら自分もまさにいま心を閉ざそうとしとるんやけど。
 その目論みは次の岳人のひとことで呆気なく阻止された。無理や。

「お!またメールだぜー。彼女から」

 彼女からのメール。見られて困る内容はありえへんのに、それにしてはやけに岳人の表情が楽しげに歪んどる。そない意味深な反応をされたら、ますます内容が気になるやん。
 だいたい新着メールを持ち主より先に見るて、どういう神経やねんふざけんな。と心のなかで悪態をつけば、岳人は体も声も弾ませて言った。

「ちょっと待て!俺これ、跡部に報告してくるっ」と、人の携帯を持ったまま走り出した岳人を、あわてて追いかける。
 ちょっと待て ちゃうで、お前が待てっちゅうねん。いったい何が書いてあってん。

「おい、岳人」
「ほらよ」

 放り投げられた携帯をキャッチすれば、ひらいたままの受信トレイには彼女からのメール。

『今日の放課後、所用で氷帝学園に出向くことになりましたのでよろしく』

 ああ、なるほどこれは跡部に報告せなアカンわ。とか暢気に納得しとる場合やなくて、彼女ここに来るん?ほんまに?

「侑士、顔きもいぜ」
「ほっとけや」
「眼帯姿で更に残念だな!」

 喜んだのもつかの間、今日の俺、メバチコ出来てるんやったと思い出したらちょっと切なくなった。
 なんやこの運命のいたずら。
 なんで俺、こんな日にメバチコなってんねん。





 彼女がテニス部のマネージャーになってから、部活終了後には彼女を送って二人で一緒に帰るのがなんとなくお約束になっていた。そんな桃城のチャリの後部席に、今日は越前が乗っている。

「なんか久しぶりっスよね」
「……あ?」
「こうして桃先輩と2ケツで帰るの久しぶり、って言ったんスよ」
「ああ、…だな」

 そう言われてみれば越前の方が彼女よりわずかに重い。立った姿勢で肩にかかる重量も、てのひらの感触も、彼女とは全然違っていた。

「桃先輩、なんか歯切れ悪い」

 彼女のことスか。と言いながら背中で器用に越前が姿勢を変えた。たぶんいま、後ろ向きで座っている。背中合わせでないと喋れないような話を切り出すつもりなのか、と思って桃城はすこし身構える。

「氷帝、行ってるんっスよね」
「そうらしいな」
「で、気になるんだ」
「ったく、ばあさんも一人で行きゃあいいのによ」
「……」
「部長といいばあさんといい何かっちゃあ彼女を連れだしやがって」
「お気に入りだから。仕方ないんじゃないっスか」
「まあなー」
「で、それだけ?」

 いきなり突かれたくない部分へ直球で切り込んでくるのは、越前の長所であり、おそろしい短所でもある。侮れない後輩。

「当たり前だろ」
「ふーん」

 気のない返事は、本当に気のないものではなく「今言いたくなければ無理しなくていいっスよ。何かあるのは知ってるけど」という性質の悪いものだ。越前は本当に興味がないことにはとことん無反応。わずかでも反応があるのは「今」を容赦されただけなのだ。つまり、バレている。
 やっぱり、こいつに嘘はつけねえなと思った。そもそも彼女をマネージャーに勧誘する前から越前にはいろいろ相談を持ちかけているのだから、今さら隠すも何もないのだが、かと言って全部をさらけ出すのも違う。恥ずかしい。

「おい越前…氷帝だけには負けんじゃねーぞ!」
「ういっス」

 走りながら会話を続ける。顔を見合わせずに済んでいるのが、桃城にとっていま最大の救いである。

「跡部ってヤツいたろ?」
「ああ……あの偉そうなサル山の大将ね」

 無言で頷けば「ウスと一緒のやつ」と、越前が思い出すように呟く。夕暮れの風が、やわらかく頬をなでた。

「実力は確かだ。昨年の青学の部長を倒している全国区プレイヤー」
「へぇ…」
「まあ、その分うちの手塚部長も当時2年で副部長として氷帝の部長を倒して一矢報いたんだけどな」

 去年の大会を思いだしながら言葉を続ければ、いつも以上に感情のこもらない越前の声が聞こえた。

「ねえ桃先輩っ」

 けっして相槌ではないその声に、首だけで振り返る。ちらっと見えた横顔は、声以上に無表情だ。

「すっかり乾先輩のポジションすね」

 淡々と吐き出された越前のそのセリフが、何よりも深く桃城の胸に刺さった。見られないように前を向いたまま ぎり、とくちびるを噛む。
 越前の言いたいことが分かってしまった。その短い言葉の裏でこいつが本当は何を伝えたいのか、意図が分かりすぎて悔しい。
 無表情はときにどんな仕草よりも雄弁だ、と桃城は思った。





 彼女が氷帝へ来る、と言っても別に俺らの練習を見に来るワケではない。わかっているのに忍足はどうしても浮足立つのを止められなかった。

「侑士、いい加減怒るのやめようぜ」
「知らんわ」

 着替えを済ませてコートに向かいながら、今朝の一件に岳人から詫びが入る。実際怒ってはいたが、本当はもうすぐ彼女の姿を見れるかもしれない期待で緩みそうな口元を、岳人に当たることでごまかしていたのが半分。

「なあ、侑士…」

 岳人を置いてずんずん先へ進む。こいつがもう一遍謝ってくれたら別に許したってもええわ、と思っていたらやけに切迫した様子で岳人が肩を掴んだ。

「なんやねん、しつこいやっちゃな」
「侑士、あのさ」

 声をひそめて顔を近づけられ、仕方なしに見つめれば岳人はやけに真剣な表情をしている。

「どないしてん」

 予想外の真摯な目にすこしたじろぎながら、こいつも今回は本気で反省してんなあと思っていたら、岳人は周りをきょろきょろと見回して。
 真剣な眼差しのまま耳打ちした。


「侑士、シャツ裏返し」


 なんやそれ。

「彼女に会えそうで浮かれるのは分かるぜ!」なんてフォローにならないフォローを入れられて、忍足はちょっと死にたい気持ちになった。





 青学とは雰囲気も校舎の作りも違うな、と思いながら私は氷帝学園の構内をさ迷っていた。細々としたところにやたらお金がかかっていそうな華美な装飾が物珍しい。
 竜崎先生の付き添い業務は思ったより早く終了し、先生がその後の別件を終えるまでの時間つぶしだ。
 せっかく来たのだから、出来れば氷帝テニス部の練習を見ておきたいとコートを探していたら、構内にひときわ高い声援のあがる一角があった。
 氷帝テニス部には私設ファンクラブがあるって本当なのか!と思いつつ女生徒の歓声をたどってみる。案の定 テニスコートが見えてきた。
 ものすごいギャラリーの数にためらっていたら、物陰から小さく自分の名が聞こえて左右を見回した。


「やっぱり自分やん」
「忍足さん!」

 思わず名前を呼べば、人差し指を唇に立てて「しーっ」と囁かれる。忍足ファンの子たちに気付かれないための配慮だろうか。
 あわてて口を塞ぎ、手招きに応じたら、上手い具合にギャラリーの死角になるベストスポットへ案内された。

「いらっしゃい」
「お邪魔してます」
「会えたらええなぁ思て待っててん」

 片目は眼帯で隠れているが、まごうことなき忍足さんだ。疎外感たっぷりの見知らぬ場所で、見知った顔をみつけてホッとした。

「片目で距離感つかまれへんから今日は半分休憩してんねん」
「ものもらい、じゃなくてメバチコ」
「せや。こんな格好で堪忍な」

 眼帯を指差す忍足さんに全力で頭を振った。実をいえば堪忍どころか感嘆というか、眼帯はとても好みである。私はどうも瞳に付加されるオプションに弱いらしい。無造作に両目をさらされるよりも胡散臭さが増して、見えない底を探りたくなる。

「観察のしがいがあります」
「気ィ遣てくれてありがとうさん」
「いえ、本心ですけど」

 とくに美形男子が眼帯を身につけるとイケメン度数が確実に3割はアップする、と思うのだ。

「眼帯、すきなん」
「だいすきです!伊達眼鏡以上に」
「ほんまおもろい子やなぁ」

 片目イケメンの忍足さんは、嬉しそうに笑った。私よりも、眼帯したうえに伊達眼鏡をかけているダブルフィルターの忍足さんの方がよほど面白いと思う。

 コート周りからは相変わらず黄色い声がひびいている。

「ずいぶん賑やかですね」
「いつもあんなモンやけどな。青学はちゃうの?」
「手塚部長の方針で、基本的に見学者が騒ぐのを良しとしない風潮がありますから」
「うちは派手好きの跡部やからなあ」
「なるほど。納得」
「けど今日は特別かもしらんな」

 忍足さんは、コートへちらっと視線を流してすぐに戻した。レベルの高い打ち合いが続いている。

「正レギュラーの滝に、宍戸がワンセットマッチ挑んどんねん」
「レギュラー復帰を賭けて ですか」
「せや。無駄やと思うけどなァ」
「宍戸さんって、」
「あの長髪の方や」

 どう見ても宍戸さんが優勢なのにレギュラー奪還できない、ってどういうことだろう。

「なぜ、無駄なんですか」
「まあ見ててみぃ」

 試合の行方を見守れば、ゲームカウント1―6で宍戸さんの勝ち。けれど、そのあと榊監督により告げられたのは全く別の人物を正レギュラーに昇格させる、という非情な言葉だった。

「準レギュラーの日吉が繰り上げか」
「宍戸さん、勝ったのに」
「うちの監督はそない甘ないねん」

 部外者の私が納得いかないのだから宍戸さん本人はなおさらだろう。悔しそうな彼と、後輩らしき子が二人で食い下がっている。
 それにしても、他校のこんな裏事情的な場面を私が見ていてもいいのだろうか。

「忍足さん、私外します」
「気にせんでもええよ」
「でも…」

 戸惑う私の目の前で、事態はさらに緊迫してゆく。監督に土下座していた宍戸さんが、いきなり持ち出したハサミで自分の長い髪を切ったのだ。ファサ、っと落ちるきれいな髪を呆然とながめた。

「宍戸、やりよったな。自慢の髪や言うてたのに」
「忍足さん私やっぱり帰、」
「帰ろう思たらあそこ通らなアカンのやで。ここにおり」
「う…」
「それに、もうすぐ終いや」

 そう言って忍足さんの指した方向を見たら、近づいてくる跡部さんの姿。

「跡部がなんとかしよるから、安心しとき」

 宍戸さんは出来立ての粗い短髪でふたたび監督に向き合っている。様子を窺っていたら、紆余曲折を経てほんとうに忍足さんの言葉通りになった。
「勝手にしろ」と許容の言葉を残して立ち去る監督の背に安堵した瞬間、くしゃみがでた。

「…あ」
「あーあ」
「アーン?」

 跡部さんに気づかれた。

「来てたのか メス猫」
「すみません部外者がのぞき見て」
「構わねーよ」
「くしゅん」

 さりげなく肩にかけられた跡部さんのジャージからは、ものすごくいい匂い。

「俺のん貸したろ思たのに」
「寒いワケではないです 忍足さん」



骨のつみき

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