僕はまだ目を閉じたままでいる

 秋でもないのになんとなくセンチメンタルな気分になるのはなぜだろう。足が、重い。
 初夏の陽射しが乱暴に照り付ける放課後の青学テニスコート。「まだまだヘバってんじゃないよ!」という竜崎先生の声を聞きながら、桃城はラケットをにぎりしめた。数日間の球拾いの日々を経て、やっと持たせて貰えるようになったラケットだ。てのひらは素直に喜んでいた。けど、足が、心が、重いのだ。

「昨日伝えた通り関東の組み合わせが決まったが、いきなり氷帝戦だ!」

 竜崎先生の言葉をバックに、コートのなかではレギュラーメンバーたちがストローク練習を続けている。対する俺はコートの外でさびしく素振り。差がついているのに、ますます差をつけられてゆく気がする。自分の着ている平部員ジャージを見下ろして、桃城はため息をついた。重い。
 滅入っているときには、悪い方にばかり考えてしまうものだ。とくに、桃城はどちらかに傾きやすいタイプだった。藻掻けば藻掻くほどずぶずぶと深みにはまっていく。こういうことは自分でなんとかするしかないのに。
 一からやり直すと決めたばかりじゃないか。「俺はいまの自分に出来ることをただやるだけ」と言い聞かせながら勢いよくラケットを振る。ガットを抜ける風の音が、ひゅうと胸の穴をなでた。どこか迷子のような気持ちだった。

 コートではレギュラーたちが球を打ち合う小気味よい音が続いている。あちこちに飛び散るボールを素早く拾い集めている彼女と、一瞬だけ目が合った。自分でも気付かないうちに目で追っていたらしい。それも、ちょっとよこしまな気持ちで。
 髪の生え際に浮いた汗が、玉のようにじんわり膨らんで形よい輪郭をすべり落ち、細い首筋を伝う。きれいだ。拾った球をカゴに放った手が無造作に汗を拭う。ひとつひとつの仕草から目がはなせない。
 こんなときに何を血迷ってるんだろう、本気でバカか俺。セルフツッコミを入れながら力任せにラケットを振ったら、口パクで「ファイト」と言われて、いたたまれない気分になる。
 目を泳がせたらストロークの合間に乾先輩がこちらを見ていた。なんのデータを取っているのか分からないが、胡散臭いあのノートにペンを走らせている。

「昨年我々が都大会決勝で負けたチームだ!」

 ちょうどまた鋭い竜崎先生の声が響いたので、桃城はペチンと自分の頬を叩いて気合いを入れ直した。
 大きな声では言えないが、ついつい彼女を目で追いかけてしまうのには、れっきとした理由があるのだ。多分それは俺だけではなく、他の部員たちも同じだと思う。いやだけど。ものすごくいやだけど。
 だって、知らなかったのだ。男女は体育の授業が別々に行われるから。制服はシルエットがぼんやりしていて、むしろ短いスカートから突き出した脚のほうに目が行くから。だから、知らなかった。
 あいつ、いつの間にあんなに成長しやがったんだろう。1年の頃には確かもっと、こう、コンパクトでフツーの大きさだったのに。フツーがどのくらいかと聞かれたら答えられないけど、とりあえず全くノーチェックだったのに。
 彼女をチラ見したら悩ましくふっくらした胸元が飛び込んできて、慌てて目をそらす。束ねたながい髪が俯いた加減で肩から谷間へと流れていた。
 正規マネージャーとしてジャージ姿でコートに現れるようになって、やっとあの美脚が隠れたのでホッと一息。かと思えば、今度は半袖の体操服ごしに犯罪レベルの魅力的上半身のラインが、くっきり…――
 うっかり胸元に視線が吸い寄せられてしまうのは、男の悲しい性というものだ。
 なんなんだよあれは。もっとブカブカの体操服に買いかえろっつの、なんなら俺のヤツ貸してやろうか、それか平部員ジャージの上着無理やり着せるぞオラ!暑いとか文句言っても絶対脱がしてやんねえから覚悟しろこんにゃろ!なんて心の中で自分勝手な呟きをこぼす。
 ぴったりとした布越しに伝わるそのシルエットは、大きめだけど決して大きすぎず、なんというか、妙にグッとくるようなきれいなカタチなのだ。しかも、おそろしく柔らかい(これは多分、俺しか知らない)。
 いやいやいや煩悩消えろ。もっと集中しろ、俺。
 相反する感情に引き裂かれている桃城の顔が、非常に面白いことになっているのに本人は気づいていないらしい。彼女と桃城を交互に見ながら、乾は眼鏡の奥で瞳を光らせていた。彼女と桃城のカップル疑惑は、まだ完全には晴れていない。


「奴ら都大会で不動峰に敗れたものの正レギュラーは三人しか出てなかったらしい!」

 ストローク練習をするレギュラーたちを見ながら、竜崎先生の声は続く。俺には半分関係ない声、ってのがせつないけど。
 何を思ったか球拾いを続行しつつ桃城のほうへ近づいてきた彼女が、無造作に肩をポンと叩いて「大丈夫?」と聞いた。さあっと風が吹き抜けるみたいな声だった。

「な、なんでっ」
「いや、桃城くん顔赤いよ」
「……」
「熱があるかも、もしくは、熱射病の可能性55%」

 乾先輩の口まねで言って、ひんやりした手がおでこに触れるから、ぜんぜん大丈夫じゃない。頭がぼーっとする。口元を緩めればいいのか引き締めるべきなのか脳が判断しかねて、くちびるがもごもごと勝手に動く。
「変な顔」と真顔で言われたのすらうれしいなんて。
 もしも今だれかに俺の頭のなかを覗かれたら大変だ、「だからレギュラー外されんだよバカ」って海堂に冷たい視線を浴びせられる予感100%。

「大、丈夫に決まってんだろ!」

 もう一度両頬をペシン、と叩いて無意味に「オォォオオ!」と叫んだら海堂に「うるせえぞ」と怒鳴られた。お前の方がうるさい。
 彼女はそれを見て楽しそうに笑ってた。俺が大丈夫じゃないのは彼女のせいだ。全部、ぜんぶ彼女のせい。


「氷帝の奴ら、関東からは間違いなくベストメンバーで来るぞ」

 ストロークの手は止めず、呼吸を乱しながら大石先輩が言う。みんな真剣な顔をしていた。
 だいたい都大会には正レギュラーを出さないっていう氷帝のナメた態度に腹が立つ。データを渡さないためなのか、力を温存するためなのかは知らないが。考えても仕方がないのに、そういう奴らはやっぱり俺が直接潰してやりてえ、と思った。

「奴らは200人もの部員数を誇ってるだけに選手の層が厚い!負けた奴は即入れ替えが氷帝監督の方針」

 直接対戦できたなら、って。この力を全部奴らにぶつけられたなら、って。俺も氷帝と、やりたかった。

「とにかく大事な試合だ!氷帝戦に全てをぶつけるんだっ!」
「よりによって氷帝と当たんなくたって…俺あそこキライ」

 息を切らしながら、不満げに英二先輩が呟けば、越前が生意気なセリフをサラっと返す。

「どーせ当たるんだし、とっとと倒せていーんじゃない」

 相変わらず越前は強気だ。
 そんな格好良いセリフ、本当は俺が言いたかったぜ。つっ立ったまま黙り込むしかない自分がもどかしい。
 あんまり歯痒くてかすかに眉根を寄せていたら、背中にポン、とボールが飛んできた。振り返ったら「サボリ禁止」と彼女が口パクで言って笑った。

「あっはっは、言うねえリョーマ」

 竜崎先生は越前のセリフに豪快に笑ったあと、しんみり「たのんだよ」と呟いて、やわらかく微笑む。すこし俯いた越前はポリ…と頭を掻く。

「よーし、越前のリクエストじゃ。ストローク練習もう1セット追加!」
「…なっ!?バカヤロー」

 竜崎先生の明るい声に、レギュラーたちが悲痛な叫びをあげる。

「仁王ちゃんもこの生意気坊主に何か言ってやってよー」
「残念。仁王センパイはそんなことしませんよ菊丸先輩」
「よし。菊丸はもう2セットやるか」
「勘弁してにゃー!」

 英二先輩や竜崎先生のやり取りに彼女がまた、楽しそうに笑っている。
 何だこのもやもやした感じ。桃城は自分の気持ちがいま沈んでいる原因を考える。レギュラーを外れたから、とかじゃない。それだけで凹んでるんじゃない気がする。
 多分、俺は。
 彼女の良さについて分かっているのが自分だけだったら良かったのに、自分だけで良かったのに…――そう、思ってるんだ。
 彼女をマネージャーに誘ったのは自分なのに、彼女の良さに皆が気づいていくのが寂しくて。だったらいっそのことただのクラスメイトとか、部員とマネージャーの関係を一気に飛び越えてしまいたいと思う。
 乾先輩に「やはり付き合っているのか…」とからかわれるたび、にやにやして顔面が元に戻りそうになくなる。部活で遅くなって彼女を家まで送る時間が、いつの間にかなにより大切な時間になっている。
 飛び越えたい。そのくせいまの自分ではそんな資格がない気がして、ぎりぎりで踏み止まる。踏み込むのがこわい。これ以上を求めてこれ以下になるのがこわいのだ。
 いちばん傍にいる為には、いちばん我慢しなくちゃならないなんて皮肉な話だよなあ。
 言い聞かせていたら、またひとつ彼女からボールが飛んできた。逆光のレンズの向こうで、乾先輩がかすかに笑った気がした。

「桃城くん、休憩まであと5分」
「分かってるって」

 いまここに彼女がいて、俺のことを見ててくれて良かった、と思った。多分彼女はいまの俺のいたたまれなさも悔しさも、なにもかも分かっている。ラケットを振りながら笑顔を返せば、同じように笑顔がかえってきた。

「よろしい」
「今日も帰り、送るから」
「いいよ」
「送らせろ」

 返事を聞かずに背を向ける。

 生きていれば、時として予想だにしないことがおこる。昨日までどうでもよかったものが突然鮮やかにみえる。勝てると思ってたものに負ける。購買の焼きそばパンが値上げする。割った卵に黄身が2個入っている。
 偶然か奇跡かわからないけれど未来はそういう不測のカケラの集まりで。俺にもそれは訪れた。それは彼女だった。それが今だった。
 決めた。俺は文武両道あらため、恋武両道を目指してやろうって。桃城は心のなかでひとりごちる。
 いろいろ皮肉すぎて、もどかしくて消化できなくて。ぶわわ、と込み上げるものを上手く吐き出せずにもやもやするから、力いっぱい息を吸い込んで。腹の底から思いきり「青学ぅーっファイ!」と叫ぶ。皆の「オー!」がグラウンドにこだました。





『お疲れさん。最近どないなん、青学レギュラーは』
『すっかりやる気ですよ』
『桃城も頑張っとんのかいな』

 忍足さんからメールが届いたのは、関東大会前のある日。さりげなく聞かれた質問に、ほんの一瞬だけためらった。

『事前の敵情リサーチにはお答えしかねます』
『ごく個人的興味やんか』

 忍足さんと桃城くんの間にはやはり因縁のようなものが過去にあるのだろうか。あまりに隠すのもかえっておかしい気がした。

『桃城くん、すきなんですか』
『どっちか言うたら嫌いや』
『なんだそれ』
『ある意味ライバルみたいなもんやさかいな。嫌いやから気になるし知りたい言うんもあるやろ?』

 そういえば、例のストリートテニス場でも二人はやけに火花を散らしていた。理由はしらない。

『彼も含め、皆絶好調です。楽しみにしてて下さい』
『お、ええやん。ますますやる気でてくるわ!』

 桃城くんは今回非レギュラーなので関東大会で忍足さんと対戦する可能性は限りなく低い、のだけれど。これは、私の口から伝わるべきことじゃないと思った。伝えてはいけない、と思った。それに、嘘はついていないのだから。

『忍足さんも、頑張って下さいね』
『おおきに。ほなおやすみ』

 おやすみなさいと返信する手がすこしだけ震えた。



僕はまだ目を閉じたままでいる

『P.S. メバチコ出来てもた…』
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