朝から臨死体験
クラスメイトの菅原くんと目が合うたびに、毎度狂いなく襲われる感覚の名前を、私はまだ知らない。
「――…っ」
目があった瞬間、足元がゆらゆら揺れる錯覚に陥ってふわふわする。なかなか外れない彼の視線に身体の真ん中がじんわりむず痒くなって、くすぐったくて、なのに私も視線を外せない。たった一言すら声が出ない。不思議だ。
そのうち息が苦しくて苦しくて堪らなくなって、目を反らしたいのにどうしても反らせなくて、相反する欲求の狭間でぐらぐら揺さぶられて泣きたいような叫びたいような気分になる。たった数秒が、果てしなく長い時間に感じる。
反らしたい、反らせない、もっと見ていたい、目を離したくない、でも反らしたい、苦しい。
ばらばらの方向をむいた反応が身体のなかでぐちゃぐちゃに混ざりあって力任せに縒り合わさって不協和音を奏でているような、でも決して不快ではないその感じを、いったい何と呼べばいいのか、私にはわからない。まだ。
目が合って数秒後、離せない私の視線をさりげなく薄めるように菅原くんの目がほんのすこしだけ細くなって、ふわり、絡まったものが空中にほどける。
ほどけて消える瞬間に菅原くんの表情は、ほかのどこでも見たことがないような何とも言えない形をつくる。ばらばらの感情がまじりあって困惑しているような、泣き出す寸前のようにも笑い出す寸前のようにも見える、そんな複雑な表情。あの表情の意味も、私は知らない。わからない。
「なーに見つめ合ってんの」
「え、何のこと」
「アンタ」
「私?」
「菅原と」
「………」
「いったい何秒ほど二人は見つめ合うつもりなんですか」
「気のせい、じゃない?」
隣席の女友達の言葉を適当にはぐらかしながら、考える。
あれは、なに。
自分の中で起きているこの現象と、彼のあの表情はいったいなに。
「そんな訳ないでしょ、気のせいとか絶対あり得ん」と言い募る彼女に向って、無言で首を傾げる。傾げながらさっきの菅原くんの表情を反芻してみた。やっぱり分からない。不可解。
不可解っぷりが上手く顔に出たのか、彼女の勢いが少しだけ和らいだのはヨシとして、分からないものは分からないのだ。私は菅原くんが分からない。菅原くんに対面した時の自分の反応が分からない。
わからないことをそのままにしておくと思わぬストレスがたまるものだし、余り心地良くないので、実はさっきからずっとそのことについて考えている。こういう場合は無理やりでも答えを見つけた方がいい、というのが私の持論なのである。という訳で、菅原くん、だ。
私は菅原くんのことを考えている。
「なんだか妙にぼーっとしてるし」
「秋、だからねえ」
「意味わかんない」
「私にも分からないのですよ」
「あ、そ」
隣席の女友達は、そこで興味を失ったのか 諦めてくれたのか教卓へ視線を戻した。現国の授業中。朝の教室を静かに貫く武田先生の声は、ちょっと眠たげに空気中へ混ざる。どこの誰だか知らない作者が書いた文章の解釈について、やさしい声でだらだらと冗長な説明が続いている。さっぱり分からない。自分のことすら分からないのに、見ず知らずの他人による文章の行間なんて私に読めるわけがないと思う。
きっちり言葉にされても分からないことばかりなのに、言葉にならない文章の背後に隠されている心情を類推して述べよ、ってどんな横暴な問いだろう。作者だって、このお話の登場人物だって、本当はそんな簡単に万人に理解してほしくないんじゃないかな。大きなお世話、というか、どうせ分からない事を考えるのならまずは、目の前の菅原くんが先でしょう。
うん。菅原くんのほうが断然優先度が高い。少なくとも私にとっては。ある意味死活問題だからね。日を追うごとにだんだん目が合ったときの息苦しさが増していて、そのうち呼吸が止まるんじゃないかなってレベルだから。
菅原くん。
菅原孝支。すがわらこーし。男子バレー部副主将、同じクラスの色素薄い系男子。髪も肌も目も色が淡い。存在感が薄いのとはすこし違うけれど、淡くてふうわりと周りの空気に溶けてそのうち見えなくなってしまうんじゃないかな、と思うことがある。透明人間みたいに。
そう、透明感!透明人間じゃなくて透明感。彼には透明感があるのだ。ちっとも汚れていない人、に見える。色素が薄いと、なんとなく全般的に欲望が薄そうに見えるものだけれど、きっと彼の場合は感情も透き通っていて、濁りがない。澄んでいる。ガツガツしている菅原くんなんていくら頑張っても想像もできない。典型的な草食系。
あくまでもビジュアルから予想される属性だけれども、そう外れてもいない気がする。
なのに、あの、絡まった視線が外れる直前の一瞬だけ、彼にいつにない色が灯る。ぽわっと、いつもより色が濃くなる。透き通るような無温の瞳がかすかに熱を持つ。
あの一瞬の表情。あれが見たくて、わざと自分は彼と目を合わせてみるのかもしれない。
彼と目を合わせる、そのたび私は独特の感覚に襲われる。
独特の感覚。
名前を付けられないけれど、独特の何か。
それがなんなのか、検証するためにはまず仮説を立ててみなくちゃ始まらないと思った。仮説に基づいて比較観察して、観察された結果ををもとに仮説を分析して検証。
仮説1。たとえば、誰を相手にしても同じことが起こるのなら、これは間違いなくお医者さまにかかるべき病気だ。対人恐怖症とかそれに類するメンタル系の病っぽいなにか。まあ、さっき隣席の彼女との間では目を合わせても何の反応も起こらなかった訳だから仮説1の可能性は限りなく低いと思われるけれど、比較実験データはひとつでも多いほうがいい。はず。と思って振り返ったら、ちょうど澤村くんと目が合った。バッチリ。
後ろの席の澤村大地くん。男子バレー部主将。菅原くんとは因縁浅からぬ一男子。
「なんだよ」
「いや、別に」
「なんで俺見んの」
「ちょっと実験中というか」
うん。相変わらず実直で温和な顔。澤村くん見てると、なんというか、ホッとするよね。
「は、実験?いま現国中なんだけど」
「うん。それは分かってる」
「実験って何の実験なワケ」
「それは言えない」
「秘密、か」
「そんな大層なものじゃないけどね」
息苦しくもならないし、ちゃんと普通に喋れるし、むしろ結構楽しい。簡単に目も反らせる、合わせてもなんら波立たない。平常心ってきっとこれ。
という訳で、結論を出すにはまだ早いけれど、いまのところ私のあの反応は対菅原くん限定のもののようです。ひとまず、検証第一段階オワリ。
続きはまたあとでゆっくりやることにしますか。目標は、午前中で計10人。現在の消化率3/10だからあと7人。それくらいデータとったら、果たして菅原くんだけが特別なのか否か、少しくらいわかるでしょう。仮説1の不成立が実証される、はず。
と思っていたら、「こわっ」澤村くんの低い声が聞こえてきて思考が止まった。
「え?」
怖いってなに?私何か怖いことやったっけ。もしかして今の思考が駄々漏れだったとかいう、ことは、ない…よね。まさか。
「なに怖いって」
「いや、お前そろそろ前向け」
「まあ、澤村くんに協力してもらう実験についてはさきほど無事に終了しましたからそのうち前は向くつもりですけど」
「は、俺なんかお前に協力したっけ。記憶にないんだけど」
「そこは分からなくていい」
「なんだそれ」
「他人には触れてはならない暗黒部分の一つや二つあるものなのだよ」
「つうか!いいから前向けって」
「え、なんで?もっと仲良くしようよ」
微かに眉間にシワを寄せた澤村くんが、ちら、と前方に視線を注いですぐに目を伏せた。相当怯えた表情に見える。
「仲良くしねぇ」
「それショックなんだけど」
「おい」
「あまりのショックで澤村くんの言葉が理解できなくなりました助けて下さい」
「ふざけんな」
「ふざけてないし」
「授・業・中」
その台詞を聞いて気がついた。さっきの澤村くんの反応、もしかしたら武田先生に睨まれたのかもしれないね。たしかに授業中だし。先生はバレー部の顧問でもあるわけだし、色々と授業以外の心情的しがらみがあるのかも。
澤村くんとの会話、予想以上に楽しかったから今のところはこれくらいで勘弁して差し上げましょう。
「澤村くんって意外な真面目キャラ」
「前」
「……」
「まじ前向いて恐いから」
それにしてもこの怯え方はなんだろう、ちょっと異常というか、武田先生って部活になるとメチャメチャ厳しいのだろうか。意外。
「恐いってなにが」
「そこは聞くな」
「聞くなと言われると逆に気になってしまうのが人間ってもので、」
「頼む」
しぶしぶ「はーい」と答えながら澤村くんのほうへ捻っていた半身をもとへ戻す途中、ほんの一瞬だけおそろしく鋭く尖った菅原くんの視線を感じたような気がしたけれど、たぶん気のせい。だってそんなの、存在も感情も透き通っていて濁りない草食系の彼には一番似合わない表情だからね。
そう、
きっと菅原くんは天使。
朝から臨死体験(スガ恐い まじコワい。超俺のこと睨んでた 泣きボクロから殺人ビーム出す勢いで睨んでた 死ぬかと思った 死ぬかと思った by澤村大地)- - - - - - - - - -
2013.11.04
菅原くんは、まだ喋らない
シリーズ化しようと思ってたけど挫折。