危険と教わったので安全です

部活を終えた帰り道。冷えた手のひらに息を吹きかけながら及川が我が家を見上げると、無人のはずの自室から明かりが漏れていた。

「また、か…」

うっかり明かりをつけっ放しのまま家を出てしまった、とかではない。理由は分かっている、彼女だ。彼女が俺の部屋に来ている。
本人が不在だろうが何だろうが、勝手に彼女をウチに上げてしまう母親は、自分の息子の成長をちゃんと分かっているのだろうか。俺たちがいつまでも幼い子供のままではないことを分かっているのだろうか。間違いが起きるかもしれない、とは少しも思わないのだろうか。
たとえば間違いが起きたとして、それを間違いのままで済ませる気は毛頭ないし、むしろ一生責任をとる気満々。それくらいの覚悟をして 今はエゴを抑える日々なのだけれども。たぶん俺の気持ちは半分も彼女には伝わっていない。
そんな彼女は多分、今頃俺の部屋で俺のベッドに横たわって、すっかり寛いだ表情で大好きな本を読んでいるはず。
子供の頃と同じ調子で俺の部屋へ唐突に現れては、なんの警戒もせずに深夜まで居座る彼女はきっと俺の性別が男だということを全く意識していないのだ。
仮にも及川徹が思春期真っ只中の健康な高校生男子だということや、その年頃の男子のおもに異性にまつわる性的好奇心がどんなに激しくて逞しいものなのかを理解しているならば、あんな無防備な姿を晒すことなんて出来ないだろうに。
ベッドの上に寝そべって、短いスカートの裾からは惜し気もなく白い脚をのぞかせて。

つまり、及川徹は幼馴染の彼女に異性としてまったく意識されていないのでした。チーン。

それでも帰宅してすぐに彼女の声を聞けるのは悪くないなあ、と思ってしまう程度には彼女の行為も彼女の存在も好ましく感じている。いや、今ちょっと嘘をつきました。だいぶ嘘をつきました。張らなくてもいい虚勢を張ってしまいました。本当はかなり彼女のことが好きです。大好きです。
及川徹はもう随分長い間、幼馴染の彼女に片想いをしています。

「おかえり徹」
「また来てたの?」

我が物顔で俺のベッドを占領している彼女を見下ろせば、悪びれたところなど微塵も見せずに「徹が私に会いたがってるんじゃないかと思って」などとテキトーなことを言う。
言いながら少しもこちらを見ないのはどういうことなの。会いたがっている者に対する態度では全然ないところがちょっと腹立たしいけれど、まあ会いたがってるというのは図星。でも悔しいので、断固認めるつもりはない。

「そんな訳ないでしょ」
「またまたー、強がらなくていいよ」

楽しげな声で喋りながらも、彼女は相変わらず一度も本から目を離さない。本になりたいよ俺も。本になりたい。
そんな彼女の涼しい横顔を、俺はそっとみつめる。いつも穴が空くんじゃないかってくらい見つめている。本に向き合っている彼女には、絶対に気付かれないのを分かっているから。
思う存分視線を注ぐ。制服を着替えるのも忘れて、及川は見つめる。


「ん、イタっ」

いつも通りこっそり彼女を観察していたら、不意に彼女が小さな声を発した。
慌てて眼を逸らしながら訳を問えば、無言のまま彼女は自分の目蓋に手を当てる。目が痛いらしい。
見つめていたのがバレて「穴があきそうでイタいよ徹。ついでに徹もだいぶイタい」とかなんとか言われたらどうしようかと一瞬焦ったけれど、全然別の理由だったことに及川はひそかにホッとした。

「最近やたら目が乾くんだよね」
「ドライアイじゃないの。お前本読んでると極端に瞬きの回数減るから」
「徹、私のこといつもいつもそんなに良く見てるの」
「ば!そんなんじゃないし」

そんなんじゃないことないけど。図星だけど。悔しいから断固認めたりしないけど。
こういうときの彼女は案外するどい。

「徹、」
「ん?」

するどいなあ、俺の気持ちバレたかなとドキドキしながら平静を装っていたら、

「いれて」

唐突に飛び出した彼女の言葉が、余りにも脈絡がなかったものだから。

「な な、なにをいれて?」

動揺した俺の声は、見事なくらい裏返った。一瞬でヘリウムガスをしこたま吸い込んだような声が出た。でもいまこの文脈で「入れて」ってどういう流れなの。
ただでさえ、彼女が今いるのは俺のベッドの上だ。俺のベッドに寝転んで読書するのが何よりも好きだという彼女のために、割とマメにシーツやカバーを取り替えていることに彼女は気付いているだろうか。気付いていなくてもいいけどね。俺って健気。
ということはちょっと脇に置いといて、「入れて」って何を?なにこれ夢なの?俺いま白昼夢でも見てるの?

「お願い、徹」
「だから何を」

重ねてお願いされれば、心臓が暴れ出す。いつもより甘えた声に聞こえてしまうのは、俺の耳が都合良すぎるのだろうか。
それにしても、ちょっといきなりすぎるんじゃないの。俺まだ心の準備とかそういうもの全然出来てないんだけど。それとは対照的に身体の準備のほうだったらすぐにでも出来そうなことは別として。
入れて、の主語はなに。

「それ」
「どれ?」
「眼薬」

ああ、そう。事情が分かった瞬間、全身から力がぬけた。ザ・脱力。
眼薬ね、眼薬。ドライアイつらいよね。早くどうにかしたいよね、潤い欲しいよね。でも何で俺が?と思いながら、テーブルにこれ見よがしに置かれている眼薬へ手を伸ばした。

「なんで」
「私、下手くそだから」
「………」
「それに、徹そういうの上手そう」
「なんで!?」
「だってセッターって相手の望んでるところにピンポイントでボール上げるポジションでしょ。小さな的を狙うの上手そうじゃない」

だから早く入れて、と言葉を続ける彼女を見つめてふたたび暴れはじめた心臓を必死で抑えながら及川は頭をかかえる。
甘えた声で女の子に「入れて」と言われるのがこんなに心臓に悪いなんて知らなかった。
だいたい眼薬の後に続く動詞というのは「さす」じゃないの「入れる」ってなんなの及川さんへの挑発ですか。
妄想をあおる言葉を選んでいるように思えるのはわざとなのか、それとも無意識だろうか。どちらにしろタチが悪い。悪すぎる。

「ねえ、徹」

いつの間にか仰向けになって、眼薬をさしてもらう準備万端らしい彼女が可愛い声でねだる。
すっかり事情を把握した俺は気持ちを落ち着けるためにそっと深呼吸をして、ベッドのそばに近づいた。
他人に眼薬をさしてあげた経験はないけれど、と思いながらベッドサイドに跪く。下心なんてないよ、距離を縮めないと眼薬させないからね。
自分でさすときを思い出しながら及川は彼女へ手をのばした。瞼にかかる前髪を掻き分けたら、子供みたいなキメの細かいおでこが現れてまたドキッとする。

「動かないで」
「うん」

頬に片手を添えて、彼女の顔を上から覗きこむ。眼薬を逆さまにセットしたら彼女は両眼を閉じていた。睫毛が長い。まるでキスをねだる表情みたいに見えて、眼薬の存在を忘れそうになる。
半開きの唇に吸い寄せられそうだと思った瞬間、思わず力の入ってしまったらしい容器から眼薬が飛び出してひやりと指を濡らした。
いやいやいや、去れ俺の煩悩。
漏れた液体の冷たさにやっと現実へ引き戻されて、及川はふたたび深呼吸をする。

「まだ?」

あまりに無防備な彼女の姿は、俺の精神力を試そうとしているとしか思えない。
思えないけれど、きっと間違いなく彼女にはそんなつもりなんてないのだ。

「どっち」
「どっちもお願い」
「目、開けてくれないとさせないんだけど」
「分かってる。でも怖くて」

さらにぎゅうっと瞑られてしまった彼女の瞼に指をかける。俺にこじ開けろ、ってこと?
彼女はどこまで俺の精神力を試す気なんだろう。
じわり、右目を指でこじ開けると透き通った茶色い瞳にはわずかに不安が滲んでいた。

「じゃ、いくよ」
「優しくお願いします」

言いながら呼吸を止めたらしい彼女の指が、及川の服の裾をぎゅっと掴む。そんな反応がまた心臓をさわがせる。無意識であおるのもほどほどにしてほしい。
ぽとん。

「……っ、あ」

眼薬が落ちた途端、びくりと小さく肩をゆらした彼女の喉から掠れた吐息が漏れる。

「ご、ごめん。いきなりすぎた?」

しばらくじっと瞑っていた目を開けた彼女は「良いから、こっちも」と左目を瞬きする。
潤んだ瞳にまたひとつ心臓を暴れさせながらも、及川は神妙な顔を作って左目の上に容器を移動させた。
片方の瞳がさきほどと同じように不安気にゆれている。
一方の及川はと言えば、ひそやかな興奮で手のふるえを堪えるのに精一杯だ。すべてを自分に委ねたみたいな、無垢に見上げる彼女の顔が至近距離。これで勢い任せの行動にでない俺にもっと感謝してよね、と心のなかで独り言をいってみる。

「い、いくね」
「ん」
 
ぽとん。
無事に二投目も命中し、薄く開かれた彼女の唇からまたも及川を悩ませるような声が漏れる。

「ん。きもちいい……」

その、声。
ちょっとそれワザとでしょ。ワザとじゃなければ何なの。警戒されてないにも程がある。

「そ、それは良かった。力になれて嬉しいよ」
「上手だね、徹」

意味深に聞こえかねない彼女の言葉に、意味がないことなんて分かっているけど。ぱちん、弾かれたように彼女から離れた及川は体の向きを変えると上がった呼吸を整えた。

(やばい。くる、これなに。クる)


「あの、さ」
「ん?」
「これからもたくさん読書しなよ」

早速読書の続きに戻ろうとうつ伏せになりかけていた彼女は首を傾げた。

「うん?」

気持ちを落ち着けた及川もようやく、着たままだった制服のブレザーを脱ぎにかかる。
くい、っと緩めたネクタイを見ながら彼女が眩しげに目を細めたのは気のせい。

「お前が不器用でよかった」
「よくわからないけど、徹が嬉しそうで私も嬉しい」
「仕方ないからこれから毎回お前に眼薬さす役目を引き受けてやってもいいよ」
「ありがとう」
「でもさ、」


危険と教わったので安全です

(俺も男だってこと、そろそろ理解してよね)。続きの言葉を飲み込んで深いため息をつけば、彼女がすべてを見通したようにふんわりと笑った。

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2015.01.25

ドライアイの幼馴染に眼薬をさしてあげながらどきどきする話
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