ひとくちぶんの青春

 夕暮れの薄闇の中、しっかり記憶に刻まれてしまった足音が近づいてくる。もう少し、あと少し。
 あと数歩で、彼がここに現れる。
 彼=菅原さん。
 いつからか、私は菅原さんの足音を判別できるようになっていた。自分でもちょっと怖いし気持ちわるいのだけれど菅原さんの足音だけ、判別できる。まるでペットが飼い主の匂いを嗅ぎ分けるみたいに。歩き方の些細なクセすら覚えてしまうなんて、どれだけ私はあの人のことに集中しているのだろう。どれだけ、あの人のことを。
 あの人。
 いっそのこと私はあの人の飼い猫になりたい、菅原さんになら本気で飼われてもいいなあ。そんなバカな考えが浮かんだ瞬間に、想像していたまさにその当人の声が聞こえてきたものだから、膝から力が抜けてしゃがみこんでしまいそうになるのを、くしゃくしゃになった紙袋のふちをギュッと握りしめることでなんとか耐えた。
 部活帰りの菅原さんが一人になる別れ道。
 私は今、そこで彼を待っている。
 じゃーな、と最後の一人に別れを告げる声。菅原さんの声だ。やわらかくて癖のない、ふんわり包み込むような声。あの声で私にも毎日「じゃあまたな」って言ってくれたなら、そんな日が来たなら、私は、私は、、私はいったいどうなってしまうんだろう。と考えにふけっているうちに、彼は目の前を通り過ぎていた。本末転倒。ちょっと待ってください。

「スガさんスガさん!」
「ん?」

 振り返った菅原さんの顔が、私を見つけた瞬間にやわらかくほころぶ。ほころんだ表情を見ていたら心臓が出てきてしまいそうで、胸の前でもう一度ぎゅうっと紙袋を抱きなおした。辛うじて中身の肉まんが潰れない程度に。
 いつだったか、他校の超イケメンプレーヤーを見ていた女の子が「あの人と目が合ったら3秒で気絶する」って言っていたのを、そんなわけあるか!って思いながら聞いていた自分はなんて愚かだったんだろう。だって私いま気絶しそうだ。菅原さんの笑顔の瞳に自分が映っていると思うだけで気絶しそう。気絶しそうだけれど、ここで待っていた目的は果たさなくてはならない。

「今年初物の肉まん差し上げるのでいっこだけお願い聞いてください」
「なにそれ賄賂?」
「ちが、わなくないかもしれないけど 違います多分」
「どっちなの」

 もう一段階ほころんだ表情を見せて、菅原さんが一 歩、こちらへ近づいた。ズームアップした爽やかな笑顔が、薄暗い路地にぼんやりと浮かび上がる。
 反射的に一歩退いたら、背中が塀にぶつかった。ここが往来だということすら忘れるくらい神々しい笑顔に言葉が消えそうになるけれど、だめ。頑張れ自分。

「どっちでもいいじゃないですか。というか、お願い聞いてくれるんですかくれないんですか」
「えー…」
「うー」

 有無を言わせぬ勢いで差し出した紙袋を菅原さんが受け取ってくれたのを確認して、私は全身の力を抜いた。正確には、力が抜けた。まだ目的の半分しか達成していないというのに、脱力感でふにゃふにゃだ。

「ところで、いつから待ってたの」
「30分くらい前、かな」

 私がそう答えた途端、いつもの優しい表情がすうっと薄れていく。薄れてじんわりと厳しさが滲む。真面目な顔の菅原さん。そんな顔も好きだなあ、と思ったらぷつん、胸の奥がひとつ爆ぜた。

「30分?」
「はい」
「30分も」
「…はい」

 かすかに怒りに似たトーンの混ざった菅原さんの声は、多分私を責めている。買ってから30分も経過した肉まんは、肉まんとして許せない。ってことだろうか。
 厳しい顔の菅原さんも相変わらずカッコいいけれど、これはもしかしてちょっと怒ってるのかもしれない。冷めきったヒエヒエ肉まん渡されると思ってるかもしれない。そんな小さなことでは怒ったりしない人だと思っていたのは私だけで、菅原流 “肉まんとはこう在るべし論” みたいなものを持っている人なのかもしれない、菅原さんは。
 そこまで考えたら、どうしても弁解をしなければいけないと思った。いますぐに。

「あ、あの!でもちゃんと冷めないように季節はずれのカイロをふんだんに使用して、ほかほか温度キープには余念がないんで、まだあったかいと思」
「そう言うことじゃなくて」
「え。冷めた肉まんなんて肉まんとは呼べない!って言いたい訳じゃ」
「ないよ」
「じゃあ」

 なんですか?と問えば、もう一歩こちらへ近づいた菅原さんがじっと私を見下ろす。至近距離で真上から見下ろされると、それだけで私はいっぱいになる。菅原さんってやっぱり背が高いなあ、男の人なんだなあ、きれいな顔だなあ、さっきまで部活をしていたせいでほんのり汗の匂いがする、菅原さんの汗の匂い、菅原さんの匂い、とか考えていたらそれだけでもういっぱいいっぱいで。後ろへ退こうにも、私の背後にはもうスペースがない。
 せめて気持ちだけでもじりじりと背中を塀に押し付けていたら、コツン、菅原さんのげんこつが頭に降ってきた。髪の毛に触れる、硬い感触。
 痛い、と思ったのと同時に、今度はふわふわと髪をなでられる。
 たとえば菅原さんの飼い猫だったら、毎日こんな風になでられるのだろうか。触れられた部分から溶けそうな優しい手で。

「こんな時間に女の子が一人で外いたら危ないべ」
「へ?」
「心配、してるんだけど」

 その言葉を聞いて、すでにいっぱいになっていた私の心臓が、肋骨の隙間で暴れている。跳ねて、暴れて、言うことをきいてくれない。

 菅原さんが私を心配してくれた。
 菅原さんが私を心配してくれた。
 菅原さんが私を心配してくれた。

 心の中で反芻するたびに、ますます心臓は跳ね回る。身体から飛び出しそうになって慌てて口元を押さえたら、菅原さんが屈みこんで顔を覗き込むからどんな表情をすればいいのか分からない。

「なに嬉しそうな顔してるの」
「いや、あの」
「俺、怒ってるんだけど」

 私はいまどんな顔をしているんだろうとか考える以前に、マイCPUは許容量オーバー。菅原さんの真剣な顔が目の前にある。菅原さんが目の前にいる。
 さっきまでの自分が肉まんを賄賂に何をお願いしようとしていたのか、すっかり分からなくなっている。思い出そうとしても思い出せないし、なんかもう、これだけで充分だ。
 菅原さんが私を心配してくれた。
 菅原さんが私のことを怒ってくれた。
 これだけで。いまは。充分。だから、逃げる!ただちに逃げないと私の心臓はもうもたないから逃げる。逃げろ私。

「あ、ありがとうございました」
「ちょい待ち」
「え、」

 するりと菅原さんの脇をすり抜けようとしたら、動けなくなった。右手首に鈍い傷みを感じて見下ろしたら、彼の手がしっかり私に繋がれている。ああ、これでは動けない。

「すいません…!えーっと…んん?」
「俺を困惑させたまま帰るつもり?」

 むしろ困惑しているのは私の方なのだけれども、手首を掴まれたままでは動きようがないし。ちっとも働かない脳は状況の正しい判断を放棄している。これはいったいどういう状況なのでしょうか。誰か説明してください。

「肉まんを賄賂にキミがなにをお願いしようとしてたのか、俺まだひとことも聞いてないんだけど」
「わ、すれました」
「ほんとに?」
「ほんと、です」
「ふーん」
「もう、いいんです。充分です」
「充分ってなにが」
「うまく言えないけど充分幸せというかなんというかこれ以上を望んだらバチがあたりそうなので」
「よく分かんないけど」

 待っててくれてありがとな、そう言って差し出された ‘半分こ’ の肉まんはちっとも味がしなかった。
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2013.11.08

「で、なんで待ってたの」
「………」
「なんで?」

スガさんに会いたかったからです、って答えるまで許してくれない確信犯な菅原先輩。どうですか。
ちゃんと答えたら「よくできました」って頭撫でてくれるとか。どうですか。
私はすごく好きです
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