細胞まで侵される

 神様は案外いたずら好きらしい、と言っていたのは誰だったろう。などと、どうでもいいことに意識の大半を割かずにはとても冷静でいられない程度には乱れまくりの精神状態を必死でなだめつつ、菅原がぱちん、と部屋の明かりを消したのはもう午前二時前のことだった。

「じゃあね、菅原くんおやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 努めて素っ気ない態度をとりつつも、今自分の置かれたまるで夢のような状況を上手く飲み込めていない男。菅原孝支。
 好きな女が無防備に自分の部屋にいるなんて、しかも二人きりなんて、夢のようだ。夢のよう、というよりも寧ろこれは夢なのではないか。都合の良すぎる白日夢なのでは、と思って、頬を思い切り摘まんでみた。ちゃんと痛かった。つまりこれは夢ではない。紛れもない現実、であるらしい。
 いつも自分が寝ているベッドは何がどうしてこうなったのかまったく理解できないまま彼女によって占領され、押し出し方式ではみ出してしまった俺はといえば硬いフローリングの上に毛布一枚で寝そべっている。
 寝心地が悪い以前に、どうにも落ち着かない。眠れる訳がない。だって、彼女がすぐそこに。すぐ手の届くところにいるのだ。手を出そうと思えばすぐに届く距離に彼女が、いる。
 手を、出せる。
 手を、
 そろりと片手を毛布から差し出した瞬間、ぎし、と彼女の寝ているベッドが軋んだ。いっしょに自分の胸も軋んだ。ような気がした。まるで浅はかな下心を見抜かれたようだ、と思った。

「菅原くん」
「ん?」

 真っ暗で静かな部屋に彼女の声が響く。研ぎ澄まされた聴覚は過敏反応して、かすかに相槌の声が上擦った。
 ただの友人として、俺は彼女の傍にいる。
 今夜彼女がここに来たのは、いくつかの偶然がたまたま重なった末にたどり着いた奇跡みたいな、一生に一度起こるか起こらないかの確率で起きてしまった“神様のいたずら”的産物にすぎないのであって、ややこしい言い方をしたけれどつまりは“ただの偶然”。
 嬉しくてたまらないのに嬉しさの先に続く行為は我慢せざるを得ないから苦しい。嬉しくて苦しい類の非常にもどかしい“神様のいたずら”故に、喜べばいいのか哀しむべきなのかそれがもうよくわからなくなっているのだけれども、一つだけはっきり言えるのは、俺達が手を出したり出されたりする関係へと一足飛びに進んでしまうには、まだまだハードルが高すぎる、ということ。だって俺達は、まだ、ただの友人だ。
 一夜の過ち?
 据え膳食わぬは男の恥?
 そんな一般論はどうでもいい。踏むべき段階を無視しすぎるのは、少なくとも俺にとっては不本意だ。彼女とのことは大事に、大事にしたいと思っているのだから。一夜の過ちなんかで済ませてしまう気はまったくないのだから。
 だけど、ほんの少し。あと数十センチだけ手を伸ばせば彼女に届く距離だと意識すればするほど触れたくなる。数十センチ。彼女の微かな息遣いも、寝返りのたびに擦れる布の音も、否応なしに欲望を膨らませる。触れたい。俺も健全な男子だったんだなあ、と思う。
 触れたい、本能的に触れたい。触れることに正当な手順や段階や理由なんて、本来必要ないんじゃないかと悪魔の囁きが聞こえてくる。ただ、触れたい。それだけ。
 それだけ。
 なのは、俺だけで。彼女の方はまったく警戒すらしていない声で俺を呼ぶのだけれど。

「もう、寝た?」
「寝てないから返事してるんだけど」
「だよねごめん」
「なに、眠れない?」
「そうじゃないけど」
「なに」

 ああ、なんで俺はこんな素っ気ないしゃべり方をしているんだろう。本当はもっと優しくしたいのに。優しく優しく甘やかして、本当はこの腕のなかに抱きしめて眠りたいのに。甘やかして、あやして、腕のなかに閉じ込めて、そして。
 でも、ベッドと床の間にそびえる見えない境界線は思いの外高いのだ。越えられそうで越えられない。越えられなくはないけれど、越えればそこでジ・エンド。
 たとえば今優しい言葉をかけて、彼女が可愛い返答なんてしてみせたりしたら、俺はそれだけで舞い上がる。舞い上がって、調子に乗って、なし崩し的にとんでもないことを仕掛けてしまうかもしれないから。そうなったら俺達の距離は果てしなく離れてしまうしかないから。それだけは断じて嫌だから。だから、今日は。今日だけは冷たくするのも、許して。余裕のない俺を、どうか許して。
 心の中で弁解をしていたら、

「このお布団、菅原くんの匂いするね」

 彼女がとんでもないことを口にするものだから。

「服も、いい匂い」
「っ!?」

 ギリギリで抑えつけていた理性が、いっぺんに吹き飛んでしまいそうになった。
 だって彼女が、俺がひそかに想いを寄せている彼女が、すぐそこにいるのだ。くる日もくる日も焦がれて、焦がれて、いつかきっと想いを告げようと思い詰めていた彼女が、ここにいる。俺の服を着て、俺のベッドの上にいる。俺のすぐそばで、まるでつけ入ってくれと言わんばかりのスキだらけの言葉を紡いでいる。

「菅原くんの匂いに包まれてたら、まるで」
「……」

 これ以上ヘンなことを言ってくれるな、と必死で念じている菅原の気持ちなど知る由もなく彼女はやわらかい声で先を続ける。いつ聞いてもかわいい声だけど、暗闇の中で聞くとより一層かわいい。

「まるで、菅原くんに抱きしめられてるみたいだよね」

 ボンッ!いま確実に俺の脳細胞はいくつか死滅した。
 疑問形でそんなことを言われて、俺はどう答えればいいのだろう。どう答えるのが正解なの。「そうだね」って?それとも、いっそのこと実際に抱きしめてしまうほうがいいだろうか。彼女もそれを望んでいるのだろうか。
 まさか、ね。

「ほんと いい匂い」

 うっとりと続く彼女の言葉を聞きながら、先程明るいライトの下で見た姿が、脳裡を何度も何度もよぎっては精神をぐらつかせる。
 彼女が着ていた自分の部屋着を、あんなに神々しく思ったのは初めてだった。何の変哲もないただのパーカーが史上最高の衣服に見えた。
 ダボダボの肩がいまにもずり落ちそうで、「菅原くんって見た目より案外大きいんだね」とすっかり指先まで覆ってしまった袖を引っ張る姿がまるで天使みたいだった。萌え袖ってきっとアレ。
 彼女にあんな悪魔的にかわいすぎる格好をさせたの誰だよ。きっと犯人は、俺のことゆるゆると殺す気に違いない。俺そのうち殺されるんだ。彼女の可愛さに殺される。犯人誰だ 出てこい。って あ、俺か。
 首謀者=俺。つまり自殺行為。

「………」
「菅原、くん?」

 そんな可愛い声を出されても、ますます余裕をなくしてしまった俺が言葉なんて返せる訳がないじゃないか。そのスキに、つけ入る自信すらないのなら、黙って我慢するしかないじゃないか。
 こうなってしまったら、もう寝たふりをするくらいしか俺には思い付けない。
 触れたい。触れられない。だから俺は寝る。
 寝ているから、返事はできません。

「おーい」
「……」
「寝ちゃったの、かな…」

 え、え!?なにその声。なんでこんなに可愛いの まじ意味分かんねぇんだけど 可愛すぎでしょ。もしかしてアレ?俺のこと本気で殺す気なの、なあ、そうなの?ああ、そうなんだ。彼女はどこかしら別の惑星の特務機関から秘密裡に派遣されてきた特殊暗殺部隊の一員だったりするのかもしれない。なんで俺が狙われるのかは全然わからないし、狙う価値ないと思うけど。
 いや、もしかすると俺には自分でもまだ気がついていない恐るべき特殊能力が生まれつき備わっていて、そのうち地球を救うヒーローになったりする予定だったりすることもある、わけないし今俺はただ寝たふりをしているだけだった。真っ暗ななか目を閉じたまま白日夢を見るなんていう馬鹿馬鹿しい特殊技能発揮している場合じゃなくて寝ろ。さっさと寝てしまえ俺。
 菅原孝支は寝ています。

「………」
「菅原くん」
「…………」

 菅原孝支はぐっすり眠っています。
 だから何も聞こえません。反応もできません。

「孝支、くん」

 !?
 な、名前呼びキター。まさかの名前呼び、ここで出してくるのなんで。
 そんな風に消えそうな声で、初めての名前呼びなんてされたら、寝たふりをしている場合じゃなくなるじゃないか。なんなのそれ。いったい君は俺をどうしたいの。俺にどうされたいの。どうにかされたいの?
 どうにかしても、いいの?
 どうにか、するよ?

「なに。俺もう寝てたんだけど」
「ごめん」

 ごめん、って言わなくちゃならないのは俺の方なんだよごめんね。でもいま優しくする余裕なくて、今にも君をどうにかしてしまいそうで、ちょっとでも優しくしたりしたら俺はそのままずるずると君に狡いことをしてしまいそうだから。そんなことをしたら、君に嫌われてしまいそうだから。

「で?」
「あの、ね」
「なんなの。寝てるところをわざわざ起こすんだから用事あるんでしょ、さっさと言えば」

 だから、こんなきつい言葉を吐くのも許して。明日になったらいっぱい謝るから。暗闇でやわらかい声を聞かされてちょっと血迷ってるだけだから。きっと明るくなれば大丈夫だから。もう少し、自分をコントロールできるようになるはず、だから。朝まで、もう少しだけ許して。

「ちょっと、寒い。よね?」

 うん。寒い。寒いし、何より冷たい言葉を吐きながら本音では君のことを抱きしめて温めてあげている妄想をそれはもう克明に、細部までリアルに想像している自分が一番寒い。やわらかい肌の感触とか、君の髪の匂いとか、リアルに妄想してドキドキしている自分が一番寒い。自覚はある。

「なにそれ、俺の布団までとる気?」
「じゃなくて。えーっと」

 寒いのは俺。自覚はあるんだ。
 だから、
 温めてあげたいのはヤマヤマだけど、温めてあげるだけではとても済みそうにないからこれ以上ヘンなことを言わないでくれるかな。頼むから。頼む。お願いします。

「寒い、ので、一緒に寝てもらえませんか」
「っ!?!!!」

 ああ、もうだめだ。
 死ぬ。俺そろそろ死ぬよ まじで死ぬよ!?それ以上可愛いところ見せられたら死ぬから止めて。いややっぱり止めないでくださいもっと見たいです死んでもいいです。
 ウソ。
 死んだらキミに会えなくなるから死ねない。絶対死ねない。二度と死ねない、ってまだ死んだことないけどとにかく死ねない。むしろいますぐ明かりをつけて君がどんな顔をしているのか見たい。じっくり観察したい。けどじっくり近くで君の顔を見たりしたらきっと心臓もたない。ってことは俺やっぱり死ぬの?いやいやいやいやいや。

「早く、」

 なに、早くって。え、早くベッドに入ってきてってことだよね、文脈的に他の選択肢ないよね。あったとしても俺が全力で潰すし。ということは、俺もう我慢しなくてもいいの?俺の今夜の葛藤は、もしかして最初から全然必要なかった、とか。リアル妄想は現実になるべきものだった、とか。そうか。そういうことか。だったらもっと早く言ってよ。菅原孝支のひとりドタバタ悲喜劇場はこれでもう終焉。
 ここからは君の望み通り。
 どうにか、する。
 どうにでもしてやる。
 俺、もう覚悟したからね。いまさら「私そんなつもりじゃなかった」とか言っても遅いよ。一切聞いてあげない。
 だから君も、
 覚悟して。

「仕方ないなァ」

 どくどくと跳ねる心臓を必死で抑えつけながら、今できる精一杯の強がりを吐いて。
 菅原はそっと手を伸ばした暗がりのなか、彼女のやわらかい肌を探りあてた。

細胞まで侵される
(後悔はさせないよ)
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2013.11.14
好きな子の隣でどうしたらよいのか分からなくなってぐるぐる煩悶している菅原くんかわいいよ菅原くん。
余裕をなくすくらい幸せなことってないよね
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