瓶詰エリュシオン

この人には私の知らない顔があるのだなあ、と真顔の菅原くんを見ながら思った。

「ちょっと落ち着こうスガ、」

怖いくらい真剣な顔。
試合の時に見るよりもずっとずっと真っ直ぐな目をして、その目に射抜かれるだけで私は動けなくなるというのに。フリーズ状態にさらに輪をかけるように、彼の両手は私をしっかりと拘束している。

しっかりと私を拘束しているその指先が、かすかに震えていることに気付いてしまったらますます私は動けなくなる。
ほんと、もう、意味分かんないし。なんなのこれ。

「スガ…」
「はぐらかさないで」
「や、そうじゃなくて」

感情をまともに乗せた指先が私の両肩に食い込んでいる。かすかに震えているくせに、びくともしない指。
それを痛いなあと思うよりも先に、切羽詰まった菅原くんの表情が胸に痛い。ぎゅうぎゅう絞られるみたいに、痛い。ふるえる指先のせいで、私の心もふるえる。

「どうしたの急に」
「急にじゃないよ」

こんな顔を見せられるのは初めてで。
こんな菅原くんは知らない。

四六時中一緒にいる訳でもなく、ずっと一緒に育った訳でもないのだから、考えてみれば「知らない部分がある」ってのは当たり前のことだ。当たり前だけど、この人には自分の知らない面がある。

「え?」
「お前のせいだかんな」

知らない、と気がついた瞬間に少し怖くなった。怖いのと同じくらい、期待でぞくぞくしている自分に驚いた。

「…っ、スガ」
「痛い?」

痛くはない。痛くはなかった。痛くはないので首を左右に振った。
物理的に痛くはないけれど、胸が苦しい。
指先の食い込む肩ではなくて、それとは全然別の場所が痛い。胸が痛い。

どうしてこんなことになっているんだろう。どうして菅原くんはこんな顔をしているんだろう。きっかけは、なに。
お前のせい、ってなに?

さっきまでの自分の言動を振り返ろうにも、全然そんな余裕がない。目の前のことでいっぱいいっぱいで、パニック寸前。

菅原くんが目の前にいる。
だいすきな菅原くんが、私のすぐ傍に。
僅か10センチの距離にいる。
目の前で、見たこともないような表情を見せている。
見たこともないくらい真剣で、神経質で、繊細な顔を見せている。

ドン、と押し付けられて背中の軋みが、脊椎の真ん中を欲望の形で這い上がる。
いつになく乱暴な手は肩を押さえつけたまま、私を壁際に追い詰める。
菅原くんの手に操られるまま、ぺったりと壁に張り付いた私には逃げ場がない。もう、逃げられない。
乱暴なのに、決して私を傷つけない両手が、私を追い詰める。
乱暴なのに、限りなく優しい両手が。私を、ぐいぐい追い詰める。

こんな菅原くんを、私は知らない。

「いい加減逃げるのやめたら」
「逃げたことなんて」
「ないことないでしょ」

笑っているのに笑っていない口元は、薄い産毛に囲まれていて、菅原くんにも髭なんて生えてるんだなあって思っていたら、いつもよりずっと低い声が私の名前を呼んだ。
私の名前って、こんなに甘かったんだ、と思った。

「どっちにしろ、逃がさないけどね」
「逃がさ…ない……?」
「そ。逃がさない」
「……」

狡い私はね、「逃がさない」って言われて本当は喜んでいるんだよ。だって最初から、逃げる気なんてなかったのだから。逃げたいなんて思ったことないから。

本当はずっと、ずっと前から、
こうして君に捕まえて欲しかった。

なめらかに隆起した喉仏が、形をかえる。
もう一度、呼び捨てで呼ばれた名前に欲が滲んでいる。聞き慣れた自分の名前が、びっくりするくらい色っぽく聞こえた。

「でも、ね」
「なに」

形ばかり抗いながら視線をあげれば、隆起した喉仏がゴクリ、音を立てる。
いま、私が抗うのをやめたら、どうなってしまうんだろう。
なんで抗っているんだろう。
 
ざわつく胸を一旦納めようと俯けば、いつもは華奢にしか見えない彼の胸板が案外頼り甲斐のあるものだと気付いてしまう。目をそらせば、骨ばった手首が瞳に飛び込んできて、どうしたら良いのかわからなくなる。

見たくないのに目に入ってしまうざわめきの種達が次々に胸へ収まって、抑え付けている感情を解こうとゆるゆるわたしをほどきはじめる。

「こんなこと、したら」
「ん?」
「後々、気まずくなったり、」
「気まずくなると思うの?」

余裕綽々にみえる笑みを浮かべながら、菅原くんが首を傾げる。
きっと彼は、私の本心に気付いている。

「気まずく、は……ならないかも」
「ならないよね」
「でも、ね。引き返せなくなると困るし」
「困るの?」

菅原くんがまた首を傾げる。
淡い色の前髪が、さらりと揺れた。

「困……らないけど」
「困らないべ」

結局、なにを言ってもむだなのだ。上手く言いくるめられてしまうだけ。
諦めて頷いた瞬間、耳元に声が降る。

「じゃあ、こっち見て」
「え、」
「ちゃんと俺の方、見て」

肩を押さえたまま、親指で顎を掬われる。
視線が重なったのと同時に、菅原くんの両目がほどけるように和らいで、鼻の頭がぶつかる。

「ん…それでいい」

なにがなんだか分からないうちに唇が合わさって。それでいい、ってなにがいいのか考えることもできなくなって。

当たり前のようにキスをされながら、あんなに辛いものばかり好んで食べているくせに、菅原くんの唇は甘いんだなあ、って。そんなことばかり頭に浮かぶ。
やわらかい、くちびる。

「…ね」
「ん?」
「もう一回、いい?」

一気に甘さを増した彼の言葉に、見詰め合ったままそっと頷いた。



瓶詰エリュシオン
身動きのとれないしあわせ

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2015.01.21

去年の元旦に書いたらしいけれどupせず放置されたままだったものを発掘したので、ほぼ手を入れずにあげてみた。なにが伝えたかったのか、もはや一年前の自分がよくわからない。
雰囲気です。ただの雰囲気。

エリュシオン【Elysium】
理想郷、至福
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