紅、紅、赤――
君の赤、僕の名残
風呂からあがったら、ちいさなちゃぶ台にはビールが二本並んでいた。ぬれた髪をがしがしと乱暴に拭いながら、シカマルはアスマの向かいに腰をおろす。
「いいんすか」
「内緒にしときゃあ、誰もわかんねえだろ」
「……まあ」
今夜は一緒に飲みてえ気分なんだよ。言いながらアスマは栓をぬく。ぷしゅ。気持ち良い音をたてて、しろい泡が吹きだした。
内緒にしておけば、誰にもわからない。未成年の飲酒をさした台詞だってことはわかっている。
かつん、合わせたグラスはマヌケな音。にやりと笑ったアスマにいちど肩を竦めて。ひえたビールに口をつけた。
「わりぃ大人だよなあ、あんたも」
「相手はちゃんと選んでんぞォ」
「そうかよ」
ひとくち飲めば、やたらに喉が渇いていたことに気が付いた。砂に水が染み込むようにぐいぐいと飲み干している。舌にのこる苦味は、決して好きなものではないのに、口内を通過して喉におちれば、それは途端に欲しくて堪らなかったものに変化する。
「いい飲みっぷりだなァ」
「あんたもな」
唇を歪めながら、互いに二杯目のビールをかちんと合わせる。
なぜだか負けたくない、と思った。対抗意識とは逆の感情。アスマに負けないくらいはやく、酔っ払ってしまいたい。酔っ払ってつぶれてしまえたらいい。ふたりの前には、ちょうど同じ本数だけ空き瓶が並んでいる。
俺は飲み慣れないガキだから、きっとあんたよりはやくに酔いが回るはずだ。同じペースで飲んでいれば俺のほうが有利。
「おいおい、大丈夫か?」
「全然、へーきっすよ」
まだ頭のなかはすっきりしている。身体中を血液が暴走しはじめた感覚はあるのに、視覚も聴覚もクリアで。
あんたが酒を嚥下する音が、耳元にはっきりと届く。そのむこうでは、ふたたび降りはじめたらしい雨音がしずかに続いている。
まだぬれたままの髪からしたたる雫。そのうごきを網膜は無意識で追いかける。ひらいた甚平の胸元を、伝いおちる一滴。
内緒にしておけば、誰にもわからない。さっきの台詞が、頭のなかをぐるぐると廻っていた。
飲む。目の前にはすでに空になった瓶がいくつも転がっていた。なのに、まだ、ふたりともやめる気はまったくないのだ。
差し出されるグラスに酒を注ぐ。じきにそれも飲み干されるだろう。そして、からっぽのグラスがまた、俺の前に。
「まだ行けるか?」
「はい」
「つえぇな、お前。俺のほうが負けそうだ」
「別に勝負じゃねえっすよ」
「そらそーだけど」
大人が子供に負けるなんて、格好わりぃだろうが。
「んじゃ、将棋はどうなんだ」
それとこれとは別。あんたの声を聞きながら、グラスを呷る。待っていたように次の酒が注がれた。
むしろ負けてしまいたいのに。お酒だって将棋だって、あんたに負けてしまいたいのに。
「明日が怖ェなあ」
アスマの台詞の意味を追いつづける。二日酔いが怖い、とも、まったく別の意味にも取れる言葉。
あんたはホントにずりぃよな、そう思いながら追いつづける。明日が怖い。内緒にしておけばわからない。明日が怖い、怖い。内緒にすればいいのだ、怖いなら。ホントに怖いのはなんだ?
飲みたかった。酔いたかった。正気を保てなくなってしまえばいいと思った。なのに、いくら飲んでも頭はさめていて。はなれたところから自分を見ている。
正気を失いたいのは何故なのか。気付かないふりをし続けている。ふたりとも。
「アスマ…」
「ん?」
声がふるえた。
いっそのこと、酔っているふりをしてしまえばいいんじゃないかと思っている俺は、もしかしたらもう酔っているんだろうか。
「アスマ、顔赤ぇ」
すいとのばした指先で頬に触れる。ばかみたいに手がふるえた。掠れて揺れる声に、ぶるぶると不安定な指。酔っ払いの演技は、上々だ。
「お前も、な」
あんたのかたい指先が耳たぶにふれた。かさついて、ごつごつしていて、でも、やさしい指。怯えるようにそっと、そっと、ふれた指先。
「耳まで赤ぇぞ」
じわりと染み込む体温。肩が揺れる。思わず目を閉じれば、耳たぶを挟んだまま擦り合わされる二本の指。なんだそれ、なんのつもりなんだ。思いながら、全身の感覚が耳に集まってくる。アスマの肌の感触をすこしも掬いもらさないようにと、神経がはりつめる。目を閉じて、息をとめて。
あんたの指が、いま、俺にふれている。
かち、かち、かち、響く秒針の音が、妙に大きく聞こえた。かち、かち、かち、かち、かち。こんなに長い間目を閉じていたらヘンに思われるだろうか。でも目をひらけない。あんたがいま、どんな顔をしてるのか。見るのが怖いから。
「眠たくなってきたかも」
頬にふれた掌からあんたの体温が消えて。中途半端にのばした腕は行き場をなくす。引っ込めたほうがいいかなあ、このまま眠たい子供のふりをしてがくりと脱力すれば不自然じゃねえかも、そうだ、そうしよう。本当はしっかり意識があるなんて、内緒にしときゃあわかんねえんだから。
耳たぶに神経を集中させたまま、全身から力を抜いた瞬間。つよく手首を掴まれて。驚いて目をひらく前に、やわらかいものが手首の内側にふれた。ちくり、鈍い痛み。
そっとひらいた目には、白い肌にのこる痣。赤い顔のアスマ。そしてたぶん、もっと赤い俺。
君の赤、僕の名残
俺も、酔っちまったかなあ。
2009.09.22 mims