気づいたときには、もう逃げられない。そういう風に、できている。
探していたのは君の体温「まさか」
こんな雨のなか、もしかして帰るつもりか?アスマの問いへの答えだ。
外はなにも見えなかった。大量の水が一気に流れ落ちる窓ガラスのむこうは、もう暗いのか明るいのかも分からない。
「だよな」
「んなバカじゃねえっすよ」
バケツをひっくり返したような、というのはたぶんこんな感じ。本当に誰かが天でバケツをひっくり返し続けているのだとしたら、ずいぶん骨が折れるだろうなと思いついて、シカマルは少し笑った。そんなことあるワケない。ガキのおとぎ話か。
「じゃあ、続きやるぞ」
「もう終わり見えてるんすけどね」
「ったく。可愛くねえガキ」
頭頂でひとつに束ねた髪をガシリと掴まれる。
「やめろよ、おっさん」
「やめねえ」
「バーカ」
ゆさゆさ。揺られながら、思う。揺れているのは俺の身体だろうか、心だろうか。この男の所作はすべて、あまりに無造作なので、正常な判断ができなくなる。
水の膜に覆われたこの部屋は、外界の光から遮断されて。簡素な室内灯が、真上から盤を照らすだけ。いまが何時なのかさえ、見当がつかない。
こんな雨の日が、好きだ。
ゆるやかに、閉じ込められているこの感じが、昔から好きだった。
「つべこべ言ってねえで、続き」
「へいへい」
「どうせもう、今夜は帰れねえんだから」
無造作すぎるその言葉には、意味なんてきっとないのに。
今夜は帰れない――
あんたはなんで、平気な顔してそんなことを言えるんだろう。その一言で、どうしようもなく、動揺していた。もしもこれがあんたの作戦なら、俺は完敗。
ぱちん。駒を進めて、外を見る。なにも見えない世界。
そのなかで、俺とあんたとふたりきり。
「終わったら、風呂はいるかァ」
それはなんだ、誘い文句なのか。提案、命令、それともただの独り言?
ぞんざいに言葉をもらす髭面をじっと睨む。次の手を考え込んでいるらしいあんたは、ちっともこっちを見ない。俺がこんなに見てるのに。
ぎゅ。
力をこめて髭の先をひっぱると、ばたん、重力にまかせて後ろに倒れる。背筋にちょっとだけ力をいれて、後頭部にかかる痛みを調節しながら、ごろり。横になった。
罠をしかけるときはいつも、二段構え。
最初に気を惹くもので釣っておいて誘い込む。獲物がかかればその後ろで無情に扉を閉めるのだ、逃げられないように。
それは自然界でもごくあたりまえの構図で。そもそも罠と言うのは、そういう風に出来ている。釣りでもネズミ捕りでも、それが鉄則。
そんな簡単なことは、忍の初歩の初歩で、下忍になる前のガキだって知っている。
もちろん、俺も。
それどころか、実戦では二重トラップなんてのも、ごく当然の戦術として身に着けているし。将棋で言うならば、もっともっと先を読んで何重にも罠を仕掛けられる。
なのに。
今夜は帰れない――
バカみたいに単純な罠に、呆気なくかかっていた。振り向いても、もう開いた扉なんてなかった。しかも、逃げだせないのではなく、逃げだしたくないのだ。
そんな風に思っていることを話せば、あんたは笑うだろうか。
「シカマル」
「なんすか」
もう俺の番なのか。どうせ次の次の次で終わるんだけど。考えごとをしていても、部屋でひびく音を拾い上げるくらいの意識は残していたはずなのに、駒の音が聞こえなかった。
「痛い」
「なにが」
「髭」
「髭に、知覚はありません」
「髭が生えている根っこの部分の皮膚の表面」
「めんどくせえな、その言い方」
なんかムカつくんすけど。言いながら起き上がれば、さっきの俺の手から駒はまったく動いていない。じゃあ、あんた今まで黙ってなに考えてたんだよ。
「痛い」
「はいはい、わかりました」
「いたい」
「どうすりゃいいんすか」
「一緒に入ってくれたら治るかも」
「は?」
有無を言わさず担がれて、進む先には風呂。
引っ張った髭が痛いから一緒に風呂に入れなんて、理屈もなにもあったもんじゃねえけど。黙って考え込んでいたのがソレなんだとしたら、あんたの捻り出した無茶苦茶な理屈が嬉しくて堪らない。そんなふうに思っている俺は、あんたよりももっと大馬鹿で。
やっぱり、あんたから逃げられないんだ。
探していたのは君の体温はじめていっしょに風呂入る理由が、そんなんでいいのか…俺- - - - - - - - -
2009.09.29