照り付ける太陽に目が眩む。煩いほどに泣きわめく蝉の声。じりじりと鼓膜にしみる響きが、夏の暑さを増していく。
シカマルのこめかみを一筋、汗が伝った。
「暑い」
「……」
「シカマルくん、暑いんですけど」
「……」
「あーつーい。聞こえてますかァ?」
「言うな、余計に暑くなる」
「そう言うお前はいつも涼しそうだけどな。悔しいくらいさめた面しやがって」
全然くやしくなさそうなアスマの声は低い。
にやけた表情。じりじりと煩い蝉時雨。
「んな訳ねえだろ、汗」
ほら。こめかみを伝うぬるい水滴を指差して、シカマルはわずかに眉を顰める。
蝉の声を聞けば、つい考えてしまうことがある。
やつらが生きているのはいまだけだ。こうして鳴いているいまだけ。たった一週間のみじかい一生。
そのなかで彼らは鳴き喚き、愛を乞い、生殖活動をして、死ぬ。なんてシンプルな生なんだろう。
「だな。でもその汗もつめたそうに見えんだよ」
「ばーか」
たしかに、アスマの髭面はかなり見た目にも暑苦しい。ぽたり、髭の先端から滴る透明なしずく。
きっとしょっぱいんだろうそれを、舐めてみたいなんて思っている自分が不思議だけど。その暑苦しさもたまらなく愛おしい、と思った。
暑いあついと繰り返しながら、引っ切りなしに煙を吐き出す横顔。鼻の頭にはうっすらと汗の玉が浮いている。頬にも、額にも。
「拭けよ。見てるこっちが暑いっつうの」
ハンドタオルを差し出しながら、俺がこっそりドキドキしていることに、この鈍いオトナはきっと気付かないんだ。でも、鈍くていい。気付かないでくれ。
「わりぃな、いつも」
「そう思ってんのなら自分で持ってこいよな、あんた汗かきなんだから」
しっとりと水分を含ませて戻ってきたタオルで、無造作にこめかみを拭う。
アスマの匂い。かすかにヤニ臭いアスマの汗の匂い。これを嗅いだらいつも胸の奥がずくずくする。
そっと吸い込んで、気付かれないように味わって、ポケットにしまい込む。
鼻の奥ではまだ、かすかに感じるニオイ。
「つい、忘れちまうんだよなァ」
「ったく、しょうがねえな。アスマは」
ホントはいつまでも忘れていればいい。わりぃなと言いながら、俺のタオルで汗を拭えばいい。そうすれば俺は、あんたがいなくてもあんたの匂いを味わえるから。あんたのことを思い浮かべて、あんたの腕に包まれている気分を味わえるから。
その匂いがうすれて、消えてしまうまでは――
セックスに理由や大義名分が必要なのは人間だけだ。たぶん。動物にも昆虫にも発情期があって、それ以外のときのやつらは欲望なんて知らぬそぶりで淡々と生きている。
むしろ、彼らの交わりはもともと欲とは無縁で、ただそういうものだからそうしているだけ。
時期を問わず年中欲望にまみれているのが人間だとするならば、ヒトだけが本来の生殖行為のあるべき姿を無視している生物ってことなんだろうか。
だから「愛してる」とか「言葉以上に肌は雄弁だから」、「生意気な奴ほど征服欲がわく」、「快楽を味わう為」。そんな風にいちいち理由が必要になるんだ。
身体をつなげている最中にも、どちらが優位だとか泣かせてやるとか煽られるとか、どうでもイイことばかり考えていたりする。黙って味わえばいいのに。
言語能力を有する人間だけがセックスを楽しめる、崇高な動物だ。などと吐く人間もいるけれど、言葉で考えることに意味はない。浅はかで愚かだ。
貶めたい、汚したい、壊されたい、壊したい。心のなかで渦巻くモヤモヤとしたものに言葉を与えて、それで快楽が増える気になる。そんなの全て錯覚なのに。
俺がいま、アスマの汗の匂いを記憶のなかで反芻し、堪能しているのも、そのさきにある行為と重ねているからで。理由はいくらでもあげられるけど、ただの後付けのこじつけでしかなくて。
ほんとうは単純にアスマにくっついて匂いを嗅ぎたいだけなんだ。蝉が愛を乞うのとおなじようにシンプル。
俺のDNAにはきっと髭男の汗の匂いを味わいたくなる遺伝情報が書き込まれている。どっちのか、と強いて言うならたぶん母ちゃんの。だからきっと母ちゃんはあの親父と。髭面のあの親父と一緒になったのに違いない。って、なに考えてんだろ…俺。キモチわりぃ。ばかみたい。
ばかみたいだけど。
アスマを求める気持ちには理由なんてなにもなくて。気が付いたら求めていた。求めたら繋がりたくなった。それだけ。
最初からそれだけだった。
汗の匂いの成分にはフェロモンってやつが含まれていて、それに性的に反応してしまうのは人間として当たり前の反応のはずで(相手が男か女かはひとまず保留)。
ポケットの中で湿り気をおびている布。そのかすかなふくらみが嬉しいなんて、やっぱりばかみたいだ。
きっとあんたと別れた後で、俺はまたそれを取り出して。そっと匂いを嗅いで。あんたの事を思い出す。
胸が苦しくなるのを分かっていてそうする。決まってる。
目を閉じて、その行為だけに、その匂いだけに、何度もなんども飽きることなく浸るんだ。
「ばかみてえ」
口にしてみたらすとん、とほんの少しだけ楽になった。
考えれば考えるほど、バカみたいなことばかりだ。この世は。いったいなんで、あんたなんだろう。
「なにがバカ?」
「なんでもねえよ」
「ヘンなやつだなあ。暑さで頭イカれたか」
「アスマもな」
もう一度ニオイを嗅げば、なにか分かるんじゃないか、と思った。
シカマルはポケットから無造作にタオルを取り出して、鼻先に押し当てる。
汗臭い。噎せそうに男クサイ。泣きたいくらいに。
太陽と煙草とすこし酸っぱいもの、かすかなアンモニア臭。そんなすべてが微妙なバランスで混じりあったアスマの匂い。
なんでだろう。なにもわからないけど、やっぱりこのニオイがどうしようもなくすきなんだ。嗅覚でとらえた刺激が、胸の奥をゆさぶる。ぐらぐらと。
「何やってんだ?」
「別に。ちょっとした調査っつうか、確認作業?」
「やっぱヘンなやつ」
「…あんたのせいだろ」
「なんだ、ソレ」
ふ。アスマの吐き出した息で、見えないくらいほのかに空気がゆれた。口元はやわらかく弛んでいる。
遠くでは相変わらず、蝉の大合唱。陽射しの眩しさが、目にいたい。
いつまでもこうして、アスマの傍にいたい――
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2009.10.03
夏、インテのイベント配布ペーパーより。