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 どうして?と問うことに、意味はない。分かっていてそうしてしまうのは、理由を付けることが自分を楽にすると思ったから。
 別れたはずの男が、手の届く場所に座っている。当然のような顔で、横たわる自分を見下ろしているのだ。
 色褪せた部屋が、ヒト一人分のスペースだけ俄かに彩度をあげている。その不可解な状況は、どうにも居心地が悪くて。悪寒とは別の意味で、じわりと冷や汗が浮いた。

 いくら風邪をひいて胡乱な頭でも、今の状況に違和感を感じる程度の常識は残っている。だって、どう考えてもおかしいだろ。赤の他人が、人の家に忍び込んでるなんて。

「大丈夫ですか?」

 おそろしくやさしい声が、耳の奥をかすめる。それを聞くまで、どこかでコレは夢なんじゃないかと思っていた。でも、脳細胞をダイレクトに刺激する響きが、無遠慮に記憶を引きずり出す。
 あんたの声だ。かつてはやわらかく睦言を紡いだ、紛れも無いカカシの声。実在を認識すれば、ますます頭は混乱する。発熱したうつろな脳でも神経パルスは正常に作用するということか。

「…大丈夫、な訳ないでしょう」

 こっちは風邪をひいて寝込んでるんですから。ゴホッ。咳を吐き出せば、一緒に怒りに似た感情が込み上げる。

 理解の出来ない現実は、不愉快に心を乱すものらしい。こういう時は、ただじっと寝ていたいと思うのに。なぜあんたはそんなに嬉しそうな顔をしてそこにいるんだ。なんのために。
 どうして?と問うまでに、辿った思考も至極正常。理由がわかれば、不自然な困惑も落ち着き所がみつかるかもしれないから。病のときくらいは、なににも邪魔されずにおとなしく身体を休めたいと思うのが人間ってモンじゃないか。


 外界からの強すぎる刺激は、頭痛を加速度的に進行させる。音も光も、その屈折で網膜に浮かび上がる像も。閉じたままだったはずのカーテンは、カカシの手で開かれたんだろう。病人には不似合いな、明る過ぎる陽射し。ずきん、こめかみを鈍痛が襲う。
 窓越しの白っぽい光を浴びた彼は、銀糸のような髪を無駄に輝かせて。綺麗だ、と素直に感じるけれど。その美しさが余計に、苛立ちを煽った。

「…どうして」

 漏れた呟きを掬い上げるような、ひやりと冷たい掌。熱の吸い取られていく感覚は、そこに感情を交えなければ心地いい。
 額に触れる肌の感触を、細胞はまだ忘れていないのか。そんな記憶、すっぽり抜け落ちてしまえばいいのに。意志に反して、接触面の内側では体液がふつふつと騒ぎはじめる。

「眩しかったですか」

 知りたいのは、どうしてカーテンを開けたのかとか、そういうことじゃなくて。あんたが今、そこにいる理由。
 だけど、熱に浮かされた脳は、反論の言葉を溶かすから。紡げない台詞の代わりに、ため息をひとつ。

「久しぶりに、ね。明るいなかで見たかったんですよ」

 眇めた瞳が俺を捉えては、ゆるやかな弧を描く。形良い唇は、語尾を写して、薄くひらいている。額宛ても口布も外したその姿を見たのは、いつ以来だろうか。目尻を下げて笑む顔は、見方によって困ったようにも慈しむようにも見える。

 たしかに、久しぶりに見た。そういえば俺、この顔がとても――


 たったいま思い出したふりをしているけれど、忘れたことはなかった。世の中を器用に泳ぎ、なんでも容易くこなしていると見られる彼が、本当は不器用で笑うことすら満足に出来ない男だってことを。
 それはきっと、無邪気に笑えるような過去を持たないからで。里の誉れとされる、端麗なこの男の抱える闇。絞り出すような微笑みを見るたびに、何度心を揺さぶられただろう。その荷を背負えたらと。
 笑っていると表現するのが不似合いな、くしゃりと崩れた顔。それに弱かった。いや、いまも変わらず弱いらしい。ぎゅうっと握り潰された心臓が、こっそり悲鳴をあげているから。

 出会いがあれば、別れがある。ヒトに生と死が等しく訪れるのと同じくらい、当然のこと。だけど知識として理解することと受け入れることとの間には、どうしようもなく深い溝があるものだ。
 いまの俺はまさに、深いふかい溝に足を突っ込んで藻掻いている。もう関係ないと分かっているのに、どこかで納得していない。そんな顔を見せられれば、別れた事実にはそぐわない感情を嫌でも意識するじゃないか。あんたのことを、まだ―…

 一度抱いた感情を簡単に消すことが出来ない俺もまた、不器用で。額から離れていく掌に、心を吸い寄せられる。別れのいきさつなど、どうでもいいと思えるほどに。

「っ、カカ……」

 呼び慣れたはずの名前は、声帯を通り抜けるのにひどく引っかかる。かすれた音が、鼓膜に絡みつけば、つられるように脈拍が暴れた。
 会わない間、あんなに何度も頭のなかで反芻した三文字。声に出さなければ簡単に紡げるその言葉は、繰り返し過ぎたせいで擦り切れてしまったんだろうか。
 咽喉の奥に焼き付いた空気が、飲み下せない塊のように痞えている。扁桃腺をやられているのとは無関係だと知りつつ、ゴホゴホとわざとらしい咳を繰り返した。

「酷い声ですね」

 風邪のせいと取り違えてくれたのか。ホッとする一方で、異なる色の双眸が余りに優しいことに気付いてしまった。ただ病人をいたわるにしては、物言いたげな視線。単純な俺は、それだけで勘違いしそうになるというのに。

「ど…して、此処に?」

 虫の良い推測が脳裏を過ぎるのは、きっと熱に蝕まれているせいだ。不器用なくせに洞察力は侮れないこの男の目は、どこまで俺の思考を掴んでいるんだろう。

「休んでるって、聞いたから」
「いや…そうじゃなくて」

 会話の意味合いを誤認するような彼ではない。もともと直情的で隠し事が下手なのに、さらに熱まである俺が、彼をごまかす演技を出来ているとも思えない。だとしたら、わざと外して答えているのだと思った。

「…鍵、まだ持ってたんで」

 軽く頭を振る。また、故意に見当はずれな言葉。

「合鍵?イルカ先生って案外大胆なんだ」
「はあ?」
「だって、プロポーズでしょ」
「ばっ…違いますよ!あんたがいつも窓から入って来るから」
「別にそんなの、たいして苦労もしてませんよ」
「俺が気になるんだ、目立つだろうが!あんたには常識ってモンがないんですか?」


 不意に過去のビジョンが脳内へ滑り込む。あんたの的はずれな言動に、あの頃も振り回されていたけど、あれはあれで楽しかったな。

 鍵、まだ持ってたんですね。

「変えられてなくて良かった」

 別れたからだとか、いちいちそんなことで鍵を変えるタイプじゃないと知ってるくせに。怒らせたいのか、気を惹きたいのか。そんな風にもったいぶられると、期待が膨らむだけだ。

「何故…」
「さあ。自分でも分からないんですけどね」

 ほら、やっぱり。俺の問いたいことは全部分かってるんじゃないか。だったら、問いの奥にある感情にも気付かれているんだろうか。夢ではないと分かった瞬間の昂揚も。笑顔ひとつで苦しくて堪らないことも。

 あんたがここにいて、嬉しい――


「気が付いたらここに来てました」

 勝手に入っちゃってすみません。言葉を続ける彼に、文句など言えるはずがない。だって、いま俺が抱いてる感情にも、理由なんて見当たらないんだから。それを一番不思議に思っているのは俺自身。
 そう。ただ、会いたかっただけ。

「イルカ先生…」

 瞳を合わせたまま、名を呼ばれたら、脈動が振り切れて目眩がした。
 この世は、理由をつけられないことで溢れている。馬鹿みたいに跳ねている心臓も、いま感じている嬉しさも。

 何故、カカシさんを好きなのかと問われれば、答えに詰まる。だってこんな大きな子供みたいなヒト、手がかかって仕方がないじゃないか。そのくせセックスになると、こちらが泣いて懇願するまで攻め立てる術に長けてている。そのアンバランスさに、どうしようもなく捕まったのかも。でも、それですら仮説にすぎない。
 ただ、好きで。ただ、会いたくて。ただ、嬉しい。

 人間の純粋な感情には、そもそも理由なんてなくて。たとえあるとしても、後付けだったり理由の必要な濁ったものだったりする。ならば、理由も分からずここに来ていたというカカシにも、純粋な感情が残っているということだろうか。

「まだ、寝ててください」
「……」
「こんな時は何も考えずに眠るのが一番」

 眠れないのは、あんたのせいだろう?声に出さず批難の台詞を紡ぐ半面、言い知れぬ安らぎに包まれる。
 ゆっくりと目を閉じながら、脳裡をかすめる確信は、やけに明瞭で。ただの直感なのに、ふたりの間の揺るがぬ未来に思えた。


 きっと目覚めた時、カカシはまだそこにいるだろう。
 そして、俺たちはまた続いていくのだ。


 汗ばんだ額をそっと拭う指先。そのやさしい感触を味わう余裕もなく、するすると微睡みに吸い込まれる。
 心地よい陽光を纏い、微笑む彼の隣で。




だって世界一よわい

理由のないことが、時には最大の理由になる。

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2009.05.26 mims
イルカ先生、はぴば☆
親愛なるPちゃんへ捧げます。
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