こうして膝を突き合わせていたところで、現状が好転すると思えるほど楽観主義者ではない。シカマルが何度目かのため息を飲み込んだ瞬間、視界がぶれた。
ズズン。
鈍い地響きとともに部屋が揺れる。暗号部の窓外には、いつもと違う光景が広がっている。
立ちのぼる黒煙から伝わる熱、焦げ臭い匂い。悠長に座っていられないことがすぐ近くで起きているのは確かだ。
「行くぞ!」
まだ困惑した様子のサクラを伴って飛び出したそこは、見慣れた里とはあまりに異質な世界だった。
逃げ惑う人波を追いかけるように続く爆音。防ぐ術を持たぬ人々を庇いながら、先を急ぐ。
自分が何処へ向かおうとしているのかわからなくなる。最初の爆心地以外の至るところが戦火に包まれていた。
これが木の葉なのかと目を疑いたくなるけれど、立ち止まっている暇はない。
後方から巨大な甲殻類らしきものが迫っている。シカマルは無言でサクラと視線を交わし、ひとり東へと逸れた。
――ホンモノハイナイ。
浮かび上がった答えは、それ自体がまるで暗号のような言葉だった。
実体がないということなのだとしたら、この惨状はなんなんだ。頬を掠める何かの破片を避けながら先へ進む。
何が起きているのか、分からないまま、直感が警鐘を鳴らす。この無秩序で途方もない惨劇の影には、必ずあいつらが絡んでいる。
何故。なんの為に。どこまで奪えば気が済むんだ。
いくら問い掛けても答えなど見えないのに、一歩進むごとにリフレインする疑問。もう、失うのはたくさんだ。
頬に手の甲にと飛散する建造物の欠片、目の前を被う砂埃。
悪い夢ならさっさと覚めてくれ。シカマルは唇を噛み締めた。
常になく引き攣った表情のイルカが前方から駆けてくる。
「シカマル!」
声音に滲む鋭さが、これは現実なのだと物語る。だとしたら、加害者はあいつらしか有り得ない。
「…暁っすか」
「ああ。向こうは危険だ、お前も退け」
眉を顰めた必死の形相。この人のこんな顔を初めて見た。そう思った瞬間に記憶が蘇る。いつになくキツい声、いびつに歪んだ顔。
あの日のアスマ、を。
「……」
「ぼーっとするな!あっちはカカシさんに任せていればいい」
暁相手に常識は通じない。誰よりもわかっていた。身に染みて。だったらいまの自分に出来るのは、過去を振り返ることじゃなくて。
ホンモノハイナイ。
その意味を一刻も早く突き止めること。そして、まだ守れるものを守ること。これ以上何も失わなくてすむように。
「ウス」
「しっかりしろよ」
倒れた同胞を抱え起こしながら、厳しい顔付を見せるイルカに、ひとつ頷いて火の手の最も濃い方向へと急いだ。
◆
ずしり、肩にかかる重み。力の抜けた人間というのは、やけに重たいものだ。そんなどうでもいい事が頭をよぎる。
「すまん、うみの」
「喋らないで下さい」
当然のことをしているまで、だ。場合が場合なら、立場が逆だったかもしれないのだからとイルカは男に笑みを向ける。病院はもうすぐそこ。
「もう、大丈夫です」
「まだあそこに」
「ええ。俺はもう一度戻ります」
「頼む」
大丈夫なんかじゃないことは、周囲の惨状を見れば明らかだ。ひしめく呻き、四方から聞こえてくる爆音。医療忍者は忙しく立ち働き、幼い子の泣き声が辺りを満たす。
本当はこの建物ですら、いつ爆撃の対象になるか分からない。そう思えば、背筋がぞくりと震えた。彷彿とさせられるのは、両親を失ったあの日。
――しっかりしろよ。
シカマルに言ったばかりの言葉が、自分のなかで何度も木霊している。俺に出来ることは、救える命を救えるだけ救うこと。それが、彼に救われた命の正しい使い道なのだから。
――ま。ここはオレに任せて。
いつになく軽い口調で自分を遠ざけたカカシは、言葉とは裏腹に尋常ではないチャクラを練り上げていた。彼は強い。間近に感じる機会は多くなかったが、飄々とした態度の裏に隠した覚悟に気付かぬほど鈍感なイルカではない。
そんなカカシを、信用していない訳ではないけれど。あの人はどこか、自分自身の存在を軽視しているところがある。それが心配だった。
先程の場所に戻れば、倒れていたはずのもうひとりの男は姿を消している。背負った男よりは軽症に見えたから、自力で移動したのか。それとも誰かに運ばれたのか。まだ近くに潜んでいるかもしれない。
周囲を警戒しつつイルカが半壊した建物に足を踏み入れかけた瞬間、一際大きな破裂音が響き、閃光に目を焼かれた。
視界を奪われれば、他の感覚が研ぎ澄まされる。背後に人の気配が近付く。音もなく。
じりじりと距離を詰めてくる。息を殺したまま。
それが手に取るようによくわかる。
「……イルカ、先生?」
「!」
「なんでまだこんなトコに」
そこにいるのが誰なのか、振り返る必要はなかった。火薬の匂いに混じる特有の香りを、イルカの鼻は拾いあげているから。
カカシの、匂い。
「あんたこそ」
あの局面をどうやって乗り切ったんだ、とか。無事で良かった、とか。ただ、ありがとうございます、とか。言いたい言葉は山のようにあるはずなのに、口をついて出たのはまるで非難するみたいな素っ気ない台詞。
「つれないですねえ」
せっかくまた会えたのに。
こんな時に何をふざけたこと言ってるんだと、霞んだ視界のなか目を凝らす。
輪郭のぼやけた世界に、その人は立っていた。はっきりしない像でも、ぼろぼろに傷ついているのが分かる姿で。
「カカシさん、大丈夫…っと!」
ぐらり。傾いた上体を条件反射で支えながら、心拍数が上がる。受け止めたカカシのカラダは思ったよりも軽くて、さっきの男とは違うその感触にホッとする。まだ意志を持って身体を支える力は残っているのだ、と。
「大丈夫」
「そんな訳ないでしょっ!嘘をつくな」
「耳、痛いよ。イルカせんせー」
へらりと笑う顔に唖然とする。やっぱりカカシは、自身のことを乱暴に浪費し過ぎる。どうなっても良いもののように。
こんな風にぼろ雑巾のようにくたびれているくせに、無理して笑って。己をぞんざいに扱うにもほどがあるだろう。そういう所が心配なんだ。下手すればアカデミーの生徒よりも手のかかる大人なのだから、とイルカは苦虫を噛み潰す。
里にとってあんたがどんな存在なのか、一番わかっていないのはあんた自身なんじゃないか。
またひとつ、遠くで爆音が響いた。
「そろそろ、行かなくちゃ」
まだ、やらなきゃならないことが残ってるんです。
再び不器用に笑うカカシを、止めることは出来ない。
「ご武運を」
「と思うんなら、ちょっとだけ」
カカシが何を望んでいるのか、言葉なんてなくともイルカにはすべてわかっていた。
「ったく、あんたって人は」
「それが一番効果的なんです」
だって、イルカもカカシと寸分違わぬことを望んでいたのだから。
いつになく強引に、カカシを抱き締めて。肌から染み込む熱を記憶に刻みつける。これが最後だなんて言わせない。
ふ。目蓋に触れてはなれていった唇。
「じゃ、続きはまたあとでね」
「必ず」
自分から強請ることなど、一度もなかったのに。戦火のなかへふらりと消えていくカカシの背中を、いままでで一番恋しく思う。
距離はすこしずつひろがって、眩んでいたはずの目は光に慣れていく。遠くなる背中、くっきりと浮かび上がる輪郭。
必ず。
これが終わったら、嫌というほどに。
遠くでシカマルの呼ぶ声がした――
- - - - - - - - - -
2009.08.11