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 シカマルは不自然な姿勢でぺたりと座り込んだまま、バカバカしいことを考えていた。

(掴み損ねたんだ、俺は)

 脛に触れる畳はつめたく冷えて皮膚をじわじわと虐めている。剥き出しの肩に陽がさして、なまっちろい二の腕が厭味なくらいよく見えた。肉のついていない骨張った肘。
 明るくてつめたい部屋で、ひえた空気に撫でられて背中も頬も爪先もどこもかしこも冷たい。頭の中も胸の奥も冷たいのに、ただ、がりがりの太ももだけは温かい。
 アンタがそこにいるから。俺の膝のうえに髭面の横顔が、ある。

 宙を舞った指先が、こわごわと視線の先で動いている。これは俺の意志じゃない。こんなこと普通は望まない。癖のある短い黒髪の先、あと一センチのところでぴたり、動きを止める。女みたいな細いてのひらは、寒さのせいじゃなく震えていた。
 太陽が眩しい。

 たぶん掴み損ねたのだ。普通の人間が当たり前に生きていれば当然手にしているべき何かを、うっかり俺は掴み損ねた。
 いつ、どこで、何を。
 さっぱり分からない。
 一度通り過ぎてしまえば、二度と手にすることはかなわないモノなのか、このまま何となく生きていればまた掴むチャンスのあるモノなのか、それすら分からない。
 ただ、掴み損ねたそれは、予想よりずっと重要なものだったらしいということだけは分かっていた。というか、いま分かった。

「今更分かっても遅ェけど」

 例えば。
 巷に溢れるゲームみたいに、攻略本的なツールがあれば、正しく気付いて手にすることが出来ただろうか。そうすれば今より少しはマトモに生きられただろうか。
 現状が気に入らないから最初からやり直します。はい、リセット。そんな具合に簡単に記録をクリア出来ればいいのに。
 でも、待てよ。こんなめんどくせぇ人生をまた一からやり直すのも堪んねえよな。
 ナイナイ。
 現実味のまったくないことを考えては、アホ臭いと頭を振る。
 人生が失敗だったか成功だったかがわかるのは、たぶんそれが終わるときで。明日かもしれない、何十年も先かもしれないその日まで結果を待つよりも先に、俺たちは生きていかなくちゃならない。くだらない事を考えているよりも、いまはまず目の前のこの状況が問題だ。

「ったく、何なんだよこれは」

 目の前のこの状況。
 泥酔したオッサンが、俺の腰にしがみついたまま鼾をかいている。なんだかんだと丸め込まれてがっついた獣みたいに襲われて。抵抗出来ない俺をすっかりその気にさせといて、アンタはぱたりと眠りに落ちた。
 半分剥ぎ取られた服が、申し訳程度に手首と膝辺りに引っ掛かっている。つまり、春のまだ寒い室内で半裸放置状態。

「寒いっつうの…」

 いろんな意味で、な。口のなかでもごもごと呟いて、シカマルは深いため息を吐く。
 たしかに俺はなにかを掴み損ねている。だからいま、こんな羽目に陥っているのだ。

 例えば。
 これがゲームだったら。夢から覚めるみたいに、気が付けばすっかり場面展開していて、アンタと俺、主人公二人の感情もそれに呼応するように都合よく変わっていれば。誰かの引いたシナリオ通りの、幸せなエンディングとやらが待っているのだろうか。

 分かっている。丸め込まれてしまったのは俺自身の意志で、抵抗しようと思えばいくらでも出来たのに。そうしなかったのは、自分。
 好きだと言われて嬉しかった。欲しいと言われて与えたくなった。かさついた指で触れられたらぞわぞわした、もっと触れられたいと思った。どくどく心臓が音を立てていて、いま世界中で一番しあわせな人間はきっと俺だ、と思う。
 酒臭い息が唇にかかれば、俺まで酔った気分になった。もっとアンタに酔いたくなった。「シカマル」と低い声で呼ばれて、怖くなった。それをずっとずっと待っていた自分に気が付くのが怖かった。なのに、気付いてしまった。
 昼間から酒を飲んでいる、飲まざるを得ないアンタのその理由に、ただ近づきたかった。
 たぶん、これが恋だ、と思った。

 真っ暗な瞳に吸い込まれて、欲望と渇望を引っ張りだされる。いままさに禁断と触れ合っているのだと思えば、不思議な感覚が、ぞくり、ぞくり、背筋をはい上がる。逃げられなかった。逃げたくなかった。
 だって、それが欲しかったから。なにかを掴み損ねたせいで、俺の一番欲しいモノはアンタになった。
 掴み損ねたなにか。

 ヒント一、それは常識的な人生を送る上で重要なモノです。
 ヒント二、それはたぶん目には見えないモノです。
 ヒント三、それはなくても生活できるモノです。

 不毛。
 絵に描いたような未来の幸せなど何処にもないことは、はじまった瞬間から分かっている。確率が限りなく低いことを理由に切り捨てるのは簡単だけど、格好悪いことだと思った。格好悪いことはしたくなかった。そうやって無理矢理にでも理由をつけないと始められないことなのだ、これは。

 太陽がのぼっている。
 眩しい。
 アンタの髭に光が当たって眩しい。眩しくて涙が滲む。
 眩しすぎるものを見ると涙が出るのはただの生理現象で、網膜がうける刺激の閾値がどうこうだとか、涙腺の構造がうんぬんだとか、物理的に説明できる問題だとわかっているけれど。それでも涙というのはなぜか特別のもののような気がして、つい心が立ち止まってしまう。
 眩しい、眩しかった。眩しくて眩しくて苦しかった。

「ただの髭のオッサンのくせに」

 ひゅう、と胸の風穴をつめたいものが吹き過ぎる。その空洞を、掴み損ねたなにかが埋めてくれるんだろうか。ぴしりとパズルのピースがはまるように。
 壊れた涙腺、乞われた祈り、請われた愛。こわれた。

「バーカ」

 呟いて髭をぎゅうっと引っ張れば寝ぼけ眼が片方だけひらいて、そこに俺が映る。一瞬だけ。

「どうした……シカマル」
「どうもしねぇよ」
「……ん」

 アンタはまた眼を閉じる。眠りにおちていく。平気だ。自分を騙すのは得意だった、昔から。飯を喰うのも寝るのも面倒臭くて忘れたふりをした。やりたいことも欲しいものもない、擦れた子供のふりをした。そしていつの間にか、全部ゆっくり、それが俺に染み付いた。本当にみえるようになった。
 欲しいものを持たない、可愛くない子供。

「アスマ……」
「………ん?」
「疲れてんなら布団で寝れば」

 思ってもいないことを言う、俺は可愛くないガキのままだ。そばにいるのを躊躇して、ガキらしく寄り添うこともできなくて。腹のなかをよぎるこの感覚は、たぶんかすかな焦燥感。諦めにも似た、焦れる気持ち。

「俺は平気だから」

 そう言って、髪に触れた。太ももに当たる額宛てが痛いふりをして、乱暴に髪に潜らせた指で結び目をとく。ただアンタに触れたいだけだった。掴み損ねたモノがなにかなんてどうでもよかった。
 アンタに触れたい。アンタが欲しい。この面倒な感情から逃げられないのなら、いっそ喜んで受け入れてやろうと強がって、自分に呆れた。呆れてこっそり笑ってみた。
 胸に溜まっていた苦い空気が弾けて、少しだけ楽になった。風穴がちいさくなった気がした。まるで、世界があっさりとカタチをかえたような気分。


「いやだ」
「…は?」
「ここがいい。お前の膝のうえが」
「……ったく、ガキみてえなこと言わないでくださいよ。アスマ先生」

 アスマ先生。
 久しぶりに先生と呼んだ。平気なふりをして、先生と呼んだ。大人と子供の境界線を自分で引いた俺の声は、笑えるくらい間抜けに聞こえた。
 明るい昼間に、明るい声を出したそのくちびるを、不意になぞった太い指は、酒と煙草の匂いがした。
 





 微笑む嘘吐き
 平気だって嘘をどうか、どうか見抜かないで。
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2010.03.28
2010春インテ ペーパーより
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