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 雨が好きだった。幼い頃。
 ぱしゃぱしゃと水溜まりで跳ねるのも、うちのなかから無数に降り注ぐ雫を観察するのも。
 吊した軒先で寂しそうに濡れそぼるちいさなてるてる坊主を見るのも。明かりを消したあとに、しとしとと垂れる水音を聞いているのも。
 ぜんぶ好き、だった。

変わらないもの



「先に、いいっすか?」

 任務帰り。アスマと将棋を指すついでに、シャワーを借りることがある。返り血を浴びた、とか、汗や埃の不快感に堪えられないとき限定だけれど。
 うちよりもアスマの部屋のほうが近いから。一度帰ってまた引き返すのは面倒くせえから。べたべたしたままでいるのは気持ちわりぃから。ただ、それだけの理由。

 きゅっ。音を立ててカランを捻れば、とび散る飛沫は止んだのにかわらず続く水滴の音。雨、だろうか。
 風呂上がりの濡れた髪をがしがしと乱暴に拭いながら、シカマルは部屋へもどる。うっすら湿り気を帯びたままの足が、フローリングの上でぺたぺた、まぬけな音。脚の裏がちょうどいいくらいにつめたくて気持ちいい。
 この部屋で汗を流すのは初めてではないが、はじめての時とかわらずいつもドキドキする。毎回、何かしら発見があるから、秘密を覗き見たようでくすぐったい。
 アスマの使っている石鹸の香り、剃刀やシャンプーの並べかた。バスタオルからは洗いたての洗剤の香りに交じって、微かな煙の匂い。アスマはどんな顔して洗濯物を干すんだろう。くわえ煙草で鼻歌なんか口ずさみながらベランダに立つ姿が思い浮かんで、つい微笑みがもれた。
 
「降り出したみてえだぞ」
「また雨かよ」

 やっぱり、雨。
 空はいっそう暗くて、さっきまでのぼっていた月も見えない。

「そーみたいだなァ。泊まってくか」
「………」
「お前、なんて顔」
「嫌いなんだ」
「俺?」
「ちげえよ、雨」

 いつから嫌いになったのだろう。雨は昔からずっと、おなじ雨のままなのに。
 しとしとと垂れる水音は、子供の頃から少しも変わらないはずだ。水蒸気をふくんだ空気がひえて雲の粒ができる。まわりの水蒸気を取り込んで粒は徐々におおきくなる。やがて上昇気流では支えきれないくらい重たくなると落ちてくる。地表にぶつかり弾ける時、落下速度と粒の大きさに応じて、特有の音が発生する。
 それを楽しい音だと感じるのも寂しいと感じるのも、自分の側の問題なのだ。おなじ音。
 窓の外を満たす湿度が、じわじわと胸の内側まで濡らす。うっとおしい。
 不思議だけれど体内の水分量は切なさと結び付いている。湿度に比例して汗や汚れとは別の不快感が増殖する。夏のぬるい雨。
 乾ききる前の傷が膿みかけているような、じゅくじゅくとした独特の質感が身体を取巻いて。濡れて肌に張り付く布の重み。傘の隙間から足先を濡らす濁った水。思い浮かべただけで顔が歪むくらい。きらい、だ。

「なんでそんなに」
「理屈じゃねえんだよ」

 雨は変わらずに雨のまま。
 だとしたら、変わったのは自分だ。子供の頃はあんなに好きだったのに、何故好きだったのかすら思い出せない。

「わかったわかった。んな顔すんなって」

 アスマの渇いた指が、湿った髪を絡めとる。
 雷鳴。雨音が強くなる。このなかを帰るのは憂鬱だ。傘なんてきっと、この雨脚ではまったく役に立たない。家に帰りつく頃には、びしょぬれの俺の出来あがり。
 柱時計が時をつげる。かちかちと鳴り続けているはずの秒針の音は、雨に掻き消える。ちいさなものをたやすく覆いつくしてしまう雨。

「だから。そんなに嫌なら泊まっていけばいいだろ」

 泊まっていけばいい?ここに。一晩あんたと一緒に。

「な?」
「……ああ」
「風邪ひくぞ。とっとと頭乾かせ」

 ぽすん。一度だけ髪を撫でて放れていくおおきなてのひら。

 万物は流転する。そんなことは本当かどうかわからないし、どちらでもいい。けれど。
 すこし。ほんの少しだけ。
 今夜の雨は好き。

 首にかけたタオルでがしがしと頭を拭く。いい匂いの布に隠れて、口許をゆるめた。


 ここにいる理由をくれる、雨――



2009.08.29 mims
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