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カルマの



 膝の内側に、見覚えのない鬱血痕をみつけた。

 青紫色のまだ新しい痣が、白い皮膚のうえで滲んでいる。押さえると鈍い痛みを感じるのに、いままで全く気付かなかった。いつ、ついたんだろうか。
 明るい風呂場でみすぼらしい自分の身体を見下ろして、シカマルはため息をこぼす。

 こういう、ふと我に返る瞬間はあまり好きではない。憂鬱が滑り込む隙を与えてしまうから。
 いつの間にか残った痣も、いま置かれている自分の状況も、消えたりはしない。自分と呼ばれる存在を形作っている目や耳やその他の器官も、頭のなかにあるデータも、胸でうずまいている想いもなにもかも、すでに降り懸かってしまった逃げられない運命なのだと諦めるしかない。そんな憂鬱さに、体中が支配されそうになる。だから、我に返りたくないのだ。
 自らすすんで憂鬱になるのはバカバカしいから、我に返るのはきらい。

 蛍光灯の眩しさに目を細める。そうすれば少しだけ現実が遠ざかるような気がしたけれど、眇めた瞳にはよりくっきりと肌の表面が映って。結局は自分で焦点を絞っただけらしい。
 すこし目を細めたところで、そこにあるものから意識を閉ざすなんて無理。それを思い知らされただけだった。馬鹿な足掻き。
 白々しい明るさのなかで、憂鬱がじわじわと染み込む。
 こうなってしまえば、そのなかに自分を浸すしかない。

 見ようによっては女の肌にも見えないことはない脚。突き出した膝の骨のとなり、寄りそう青痣にきつくふれてみた。

「…ッ!」

 痛い。
 痛覚は生きている。
 しらないうちに付いた傷痕は気付かないうちは存在しないのと同じだけれど、気が付いてしまえばただの事実になる。
 奈良シカマルは今日もしくは今日以前のいつか、そんなに遠くない日に、どこかでどうにかして膝の内側に痣を作った。それもまた、すでに降り懸かってしまった運命のうちのひとつだ。
 そうやって人は気付かぬうちに、知らないところに落ちている。

「落ちるつもりなんてなかったのに」

 唇からこぼれた独り言は湿度のたかい空間に反響して、耳から体内に戻ってくる。いつも吐き出したのと同じだけのものが戻ってくるのだ。いつもよりよくひびくその声は、まるで自分の声じゃないみたいだった。
 もしかしたら膝の内側に痣を作っている華奢な身体の男も、アスマのことが好きでアスマの全部が欲しくて苦しんでいる馬鹿な男も、憂鬱に身体中を支配されつつ浴槽に沈みそうな男も、自分じゃなくて別の誰かなんじゃないかと思った。
 ぜんぶ別の誰かの身に降りかかったことで、べつの誰かの憂鬱なんじゃないか、と。

「なんでこんなことになってんだろ」

 声に出してみる。
 エコーのかかったその音はやっぱり自分の声じゃないみたいだ。湯気のむこうにのばしてみた手の平も自分のものじゃないみたいに霞んでいて。ゆらゆらと揺れるお湯の膜の向こう側に見える太腿もいつもよりずっと細い。ただの屈折率の関係だ、空気中と水中では率がちがうから、その境界でモノが歪んで見えるんだ、と冷静な判断を下す脳の隅っこで、やっぱりどっかの女の足みてえと笑う自分。
 くつくつと喉にかかるシカマルの笑い声。なんで笑ってんだろう、なにもおかしなことなんてないのに。
 それでもとめられずに続く笑い声は、すこしさびしげに掠れる。

「いつまで風呂入ってんだ、のぼせて溶けちまうぞ」
「んな訳ねえだろ」

 ドアの向こうからアスマの声。
 のぼせていた。
 このままどんどん頭に血がのぼって、意識が朦朧として、自分のココロが自分のものでなくなってしまえばいいのに。お湯の中に心がじわじわと滲みだして、憂鬱も苦しさも溶けて消えてしまえばいい。

「とっととあがれよ、」
「何あけてんだよ」
「いや、お前が倒れてんじゃねえかと思ってな」

 無遠慮に開かれた扉の隙間から、ひえた空気が入り込む。
 湯気が逃げて、視界がひらける。

「もう上がるから」

 あっち行けよ。アスマに背を向けたまま立ち上がれば、眩暈がした。目の前が真っ暗になって、自分で自分の身体を支えきれなくて。やっぱりさっきまでの憂鬱は、俺のじゃなくほかの誰かのものなんじゃないか、と思った瞬間に広い胸に倒れ込む。アスマの胸。
 消えていく意識の隅っこで、俺じゃない俺が呟く。立ちくらみなんてやっぱりどっかの女みてえ。


 自分の欲望にどこまでも忠実であろうとすることは、リスクと隣り合わせだ。やりたいと思ったことを追求しすぎると、問題がおこる。だからといって、なにもかもを我慢することはできないけれど。
 たとえば俺がすべてを諦めて我慢するとして、その完璧なまでの禁欲主義の先にはなにがあるんだろう。ストイックであることが、ふたりの間ではなにか意味を持つ日がくるんだろうか。

「どうするつもりなんすか」
「なに?」
「…いや、べつに」

 このままこんな時間を重ねて、この先どうするつもりなのか、と思った。ずっとそれを考えていた。一緒にいる時もひとりの時も考えている。
 その不毛な疑問は、アスマの肌が自分に触れて、離れていく瞬間に、いちばん大きく成長する。
 だけど、決して聞いてはいけない質問。なんで口にしてんだ、俺。

「いま何時かな」
「さあ、昼くらいか」

 取りつくろうように捻り出した台詞は、なんの変哲もないコトバで。誤魔化せたのかどうかは分からない。イイ天気だな、今日は一日どうすんだ?とか、の方がまだマシだったかもしれない。
 隣でアスマは、煙を吐き出していた。何も気にしない素振りで。

「昼飯、あるモンで適当に作るか」

 俺の切羽詰まった台詞は、もう昼だけど昼飯どうすんだ?って、そういう意味にとられてしまったんだろうか。誤魔化したかったのは事実だけれど、それはそれでちょっと情けない気がする。

「誰が」
「俺とお前」
「腹減ってねえし」
「俺は減ってる」
「あ、そ…」
「ああ!よく動いたからなァ」

 にこにこと笑う顔にため息がもれた。
 誤魔化すも何も、そんなことは鼻から考えていないということだとしたら、なんて馬鹿な男なんだろう。だけどその馬鹿に良いように転がされ、甘やかされ、踊らされている自分はもっと馬鹿だ。
 自業自得だとか因果応報とは言うけれど。いま自分が行っていることで何らかの結果がもたらされるのなら、俺だけじゃなくあんたにとってもそうで。運命の連鎖は断ち切られることなく続いていくはずで。なのに苦しんでいるのは自分だけのような気がする。

「わりぃな」
「なにが?」

 バカみたいににこにこ笑っていたかと思えば、いきなり謝って見せたりして。申し訳なさそうに眉を顰めてみせたりして。

「膝の内側」
「……ああ」
「一昨日、つけた」
「おととい?」
「俺が、強く握ったせいだ」
 あんまりお前がかわいいから。

 自分でも気付いていなかったそれに、あんたが気付いていた。落ち着いて考えれば、自分でつけたものに自分で気付くのは当然のことなんだけど。
 でも、俺に降りかかったものに、俺より先にアスマが気付いていた。

 それだけで、なにもかもどうでも良くなったんだ。



2009.09.08 mims
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