その境界線はくっきりと高くそびえているのに、簡単に突破してしまえそうだった。なし崩し的に。なのにいざとなれば、そう上手くはいかないものなんだ。
不器用な僕等は こきこきと首を鳴らす。乾いた小枝が折れるのに似た音。我ながら親父くさい仕草だ。
夕暮れの里はいつもきれいなオレンジ色に染まるから、この世の果てに手が届きそうな気がする。
手をのばす。手首の内側にはちいさな鬱血。虫のさし痕のようなかすかな印に、何日もばかみたいに翻弄されるなんてどうかしている。
赤紫だったそれは、日を追うごとにすこしずつ変色して、いまでは黄色味がかっている。きたない。どうかしていると自分を蔑みながら、何度もなんどもそれを見た。薄れて消えてしまうまで、忘れないように何度も。
あの夜、あんたの唇が触れた場所。熱いのに鳥肌がたつ感触。
空はほんとうにきれいなオレンジ。空と丘の境目は、ぼやけて見えない。伸ばした指の先もよく見えない。でもぼやけたままいつまでも見えなければいいと、シカマルは思うのだった。
「シカマル」
あんたの声が聞こえたとき。違いについて、かんがえていた。ほんとうはかんがえる必要もないことだと知っていたけど、かんがえずにいられなかった。
違い、について。
現実と理想の、違い。
恋愛とそれ以外の情(友情とか師弟愛とか家族愛とか)との、違い。
どっちもきっと、たいして変わらないと思うんだ。この世のなにか、と、なにかの違いは、すべて、言葉にしてみたら簡単。
現実のなかにはびこる不穏分子を消してしまえば、理想は現実になる。
恋愛になるのを阻んでいるなんらかの抵抗をとりのぞけば、友情は恋愛になる。たとえば既婚者であるとか、恋人がいるとか、血縁があるとか、階級がちがうとか、生物学的なバリアだとか。つまりは同性どうしであること、とか。そんな抵抗さえとりのぞけるなら、はじめから感情のベクトルは双方向をむいているんだから、関係が恋に発展するのなんてあっという間だと思う。
ほんと、あっという間。
なんだけど。
理論的には。
「お疲れっす」
「おう、お疲れ」
理論と実践はちがうらしい。どうすればいいのかがわかっても、どうしたらいいのかはわからない。夕暮れの空と陸の境目のように、ぼやけて、わからない。分からないままのほうが幸せなんだとどこかで思っている。
恋愛と一般的な情の違い。それは理想と現実の違いとどうちがうんだろう。違いと違いのちがい、とか、かんがえていたら、なにもかもどうでもイイ気がしてきた。なんか、めんどくせえ。
そうやって面倒臭いことをかんがえながら、あんたを待っていた。
「今日も、来んのか」
「さあ」
「どうせ暇なんだろ」
暇じゃなくても、眠る間を削ってでも、行きたいと思っていることにアスマは気づいていて。アスマは今日みたいな日に俺といたがるのだと、俺も気づいていて。
互いに知らぬふりをしている。
もう、ずっと前から。
アスマの忍服には、今日も生臭い匂いが染み付いている。
帰る途中でいつも足を止めるのは同じ場所だった。大きな木が枝をひろげて立っているそこで、幹に背を預けて、じっと夕陽が落ちるまで。いつからかそうだった。
いつからだったのかと、かんがえても思い出せないけれど。
「今日は暑いなァ」
「そうっすね」
あんたはずっと、同じ方向を見ている。なにかを、追いかけ続けている。その先にはなにがあるんだろう。この世の果てには、きっと何もない世界が広がっているだけなのに。
オレンジが沈む。
その先には、なにもない。
何もないことが分かっていて、ただじっと見つめている。待っている。そんな横顔。
来てもこなくてもいいという顔で。歓迎されてもいないけれど、拒絶もされない。それを喜んでいいのか、悲しむべきなのか、シカマルにはわからないのだ。
◆
ふたりが親しく肩を並べて歩く姿は、さして珍しいものではない。厳密には身長差があるから、肩は並んでいないのだけれど。
なぜかあの師弟を見ると、近寄りたくなるのだ。なにをたしかめたいのか、あの子がいつも諦めた顔で焦がれているもの。俺とおなじ狡い大人が、どうしようもなく欲しがっているもの。それがわかれば、自分のなかでも別の答えが出る気がした。
答えを出したいなにかが、自分にもあるなんて。
この世のことに執着するのはやめたつもりだったのにね、と、カカシはため息をついた。
銀の糸が、やわらかい風にゆれる。声をかけるより早く、ふたりはカカシに気づいた。
「よお、カカシ」
「お疲れ。相変わらず仲良いねぇ」
んなことねえっすよ、と、顔を反らすシカマルは、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。そのあとに、照れたように笑うのだ。いつも。
幸せでたまらない顔を、必死で隠すように。
「エロい話でもしてたの?」
「お前と一緒にすんな」
「無言っすよ」
「むっつりスケベってヤツなんだ、ふたりとも」
口元ゆるめて無言なんて、やーらしい。
単純に乗ってくるとは思わなかったけれど、シカマルは案外するりと口をすべらせた。
◆
「違い、ねぇ」
そんなことも分からずに悩んでいるのかと、呆れたようにカカシは言う。バカに出来るのならば、彼のなかにはその答えがあるんだろうか。シカマルは、ふたたび問う。
「カカシ先生にはわかるんすか」
「まあね。一般的な情と恋愛の違いがなにか、というのなら、簡単」
「……なんの話してんだ、お前ら」
「なんなんすか」
「そこに性欲があるかないか、でしょ」
あんたはそればっかりなんすか、と、反射的に口に出しかけて飲み込んだ。カカシの顔が思ったよりも真面目だったせいもあるけれど、本当はそのコトバにガツンと頭を殴られたような気分だったのだ。
性欲。かんがえてはいけないと目を逸らしていたものを、無理やり目の前に突きつけられたような気がした。
「おいおい、お前なァ」
「伊達にイチャパラ愛読書にしてないからねぇ」
その言葉は淡々としていて、やっぱり、ふざけているようには見えなかった。
性的な欲求。
むず痒く腹の底を、掻きむしられるような感覚。
対象を前にしたときに、それを感じるか否か。そんな単純なモンなのか、違いって。
「お前が難しく考えすぎているだけじゃないの?」
「………」
(欲しい、んでしょ?) 目を細めた顔が俺を覗きこむから、もうダメだと思う。
「お前もホント物好きだよねぇ」
「うるせえっす」
「お前が聞いてきたくせに」
この人には敵わない。
たしかに欲しいんだから。欲しくてたまらない、その通りなんだから。
アスマのなかに溶けてしまいたい、ひとつになりたい、と思うのなら。それはもう、そういうこと。
抵抗なんて、とりのぞく必要もなくて。唇のふれたところから溶けそうな記憶、それがすべてだ。
じゃあねと立ち去るカカシを見送り、アスマに手を引かれる。
消えそうな手首の鬱血跡が、鈍く痛んだ。
不器用な僕等は不可分を構成することしか出来なくてなのに臆病で、立ち尽くすふたり2009.09.25 mims