女王様は犬がお好き

 真夏の昼下がり。エアコンのゆるい風に、塗り終えたばかりのエナメルの匂いが混じる。
 てのひらをぴん、と反らして指先に息を吹きかけていたら、

「脚、塗ったるわ」

 そう言って今吉先輩は無造作にマニキュアの瓶を手に取った。

「いや、いいです自分で」
「さっきの、嘘なん?」
「え、」
「ペディキュアは、なかなか上手いこと塗られへんゆうてたやん」
「ホントです けど、」

 隣に並んで座っていた彼が、真正面に場所を移す。
 今吉先輩が私のためにしてくれることは、基本的にぜんぶ受け入れることに決めている。だけど、乾ききらない指先では いまの私が ろくな抵抗もできないことをすっかり計算にいれた彼の行動をすんなり受けとめられずに、三角座りのまま、こわごわと自分の両膝を抱きしめた。計算高い彼の手に、強引に脚を掬われないように。

「ええから脚、出してみ」
「……でも」
「案外ワシ上手いねんで」

 そう続ける彼の言葉を聞きながら、この人はかつて他人にペディキュアを塗ってあげたことがあるのだと、気付いてしまう。私に気付かせるつもりでそんな言い方をしたのだ、彼は、きっと。この人の言動は ほぼ100パーセントが狂いようのない計算にもとづいている。どんなに抗おうとしても、その抵抗すら彼の計算のうち。

「キレイに仕上げたるから安心し」

 やっぱり。彼は誰かにペディキュアを塗ってあげたことがあるんだ。
 自分以外の女性の脚にペディキュアを施す今吉先輩。その情景をリアルに思い浮かべてみたら、予想以上に破壊力が大きくて、心臓がぎゅうっと鳴いた。
 女性の前に跪いて脚先をそっと支え、女王様に仕える下僕のように頭を傾けたまま、手のなかの彼女の細部にだけ真剣なまなざしを注ぐ彼。なんて親密でひそやかな光景だろう。
 胸が、いたい。

「私は、無理、です」
「遠慮しなや」

 マニキュアを塗る行為なんて、そんなに簡単に上手くなるものでもない。私も最初は爪からはみ出すし、厚みを均等に出来ないうえに乾く前に触ってよれるしで、いまのスキルレベルへ到達するまでには ずいぶんの失敗を重ねた。
 ということは。
 今吉先輩は、すっかり慣れて上達するくらい何度もなんども、見知らぬ女性の脚にペディキュアを塗り続けた、ってことじゃないの。そんなの、想像したくない。

「遠慮とかではなく」
「ほんまに上手いで」
「……」

 想像したくもないのに、また「上手いで」なんて、否応なく過去を思い浮かべてしまうような台詞をさらっと吐くから、喉の奥がぐっと詰まった。そんな思わせぶりな言葉は、言わないでほしい。なんの計算なんですか。もう、やだ。そう思って俯いた瞬間

「たぶん」

 お決まりの言葉が聞こえて、顔をあげる。胡散臭い糸目が、ずいぶん近くで私を見下ろしていた。

「たぶん、って?」
「やったことないねんけど、キミよりは上手いで、っちゅーことや」
「なにそれ、」
「ワシ 器用やからなァ」

 そう言ってくちびるの端を歪めると、今吉先輩が私の前に跪く。女王様にかしずく下僕のように。渇いた笑いを漏らして、うつむき加減の前髪の隙間から、私へ届く細い瞳。
 ふだんは20センチほど上にある威圧的で端正なその顔が、いまは私よりも低い位置。四六時中高慢不遜な年上男を、こんな風に見下ろす機会なんて貴重だけど、貴重すぎて逆に冷静になれない。

「ホント、いいです」
「さっき、な。アレやろ」
「あれ…?」
「ワシが誰かにペディキュア塗ったったことあるんか思て慌てたやろ」
「……」

 なんで。なんでそんなに簡単に、私の心のなかを読むのだろう、この男は。悔しい。悔しいから垂れた頭をかるく蹴りあげてやろうかと思った。体勢的に爪先の角度をほんの数十度跳ねあげれば、鼻先にクリーンヒット間違いない。
 脳内ですばやくシュミレートしていたら、それよりも早く足首を掴まれた。

「キミのんが初体験や」
「…っ!」

 いま自分がしている体勢を思い浮かべてみるだけで恥ずかしいのに、今吉先輩が変な言葉を使うからますます恥ずかしい。
 たぶんこの人いま「初体験」という単語を意図的に使った。だって、くちびるがものすごく楽しげに歪んでいる。

 初体験、とは言っても。
 私がいまからされようとしているのは、ただ足の爪の表面にエナメル質の粘液体を塗りつけられるだけの行為で。そんなにいかがわしいことではない。ないはずだ。断じてない。
 何度も何度も頭のなかで唱えてみるけれど、いっこうに心の平穏が訪れない。心臓がばかみたいに跳ねている。今吉先輩の手のなかで、爪先がふるえた。

 今吉先輩の手で、足の爪に彩飾をほどこされる。白い画用紙に、カラフルな絵の具を塗りたくるのとかわりない、そんな健全で清らかな行為。
 のはず、なのに。
 どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。

「じっとしといてやー」
「や、だ」

 恥ずかしさに逃げようとすれば、もっと強く足首を握られる。ながい指が私の肌に食い込んで、触れられたところが脈を打つ。恥ずかしい。恥ずかしいのに、

「足の指まで、形キレイなんやなー」

 その言葉で、普段は人目に触れないところを注視されているのだと改めて自覚させられれば、余計に羞恥心がふくれあがる。

「小指の爪、ちっちゃ!」
「あんまりみないでください」
「見ーひんかったら塗られへんやろ」
「だから塗らなくて、いい って」
「あかんで」
「なぜ」
「やってワシもう、そーゆうモードに入ってしもたから」

 舐めるように足の指に注がれていた視線が、ふたたび這い上がる。今吉先輩と目があった。
 そうゆうモード、って。あなたが言うと、いかがわしくしか聞こえないんですけど。

「今吉…先輩、いたい」
「ああ、堪忍」

 痛いのは脚じゃなくて、もっと心の奥の方だったけれど。痛いと言えば、ほんの少し指の力がゆるんでホッとした瞬間。さらりと足の甲を撫でられて、あっ、と声が漏れた。

「にしても マニキュア塗った指てエロいなあ、思てたけど、」

 からからとマニキュアの瓶を振りながら、今吉先輩はまた、口許を歪める。
 なんなのそのいやらしい顔。健全な高校生男子がしていい表情じゃないよ。

「ペディキュアてさらにエロスやなー」
「……」
「さっきから いかがわしい妄想 膨らみっぱなしやで」

 思わへん? 問いかける彼の声に、あんたにかかれば何でもそっち方向に膨らむのか だいたいいかがわしい妄想ってなんなの あんたのその顔と声がこの世でいちばんいかがわしいわ このド変態野郎、って全力で叫びたいのを押し殺した。
 せっかくのペディキュアがよれよれになるのは嫌だから。

「綺麗にできあがったら踏んでや」
「ばか」



最後は犬から狼になんねんけど。たぶん


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2012.08.08
今吉っさん あかん ほんまあかん。ペディキュア塗ってほしい。
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