鉛みたいな心臓の在処
白い首筋を汗が伝う。光を反射して嘘みたいにきれいだと思った。
乱れた呼吸をととのえるため、黒子くんが細く息を吐く。ちいさく尖らせたくちびるから漏れる空気がみえる。みえた。みえたから、思いきり息を吸い込んだ。こうして吸い込めば、黒子くんの肺をとおった気体が私のなかにはいりこむ気がして。それで、少しでも彼に近づける気がして。
コートのなかで、黒子くんがふわりと移動する。見失いかけた視線のさきで、淡い色の髪がゆれる。ほんの一瞬、黒子くんの手に触れたボールが勢いを増して火神くんのてのひらに吸い込まれる。魔法みたいだった。
「なんか、すごいね」
「……ん」
「黒子くんって何者?」
隣で問いかける女友達に、答えることもできず息を飲む。こうして試合を見に来るたびに思う。彼は、なんて、遠いんだろう。いつも同じ教室で机を並べているとは思えない。幼いころからずっと近くにいたなんて思えない。びっくりするくらい遠くて、まるで、知らない人みたいにみえる。
「さすが幻のシックスマンだよねー」
「彼女とかいるのかな、」
はなれた所から聞こえてくる可愛らしい女の子の声に、ますます黒子くんが遠く感じた。だからまた、黙って息を吸い込んだ。熱気のこもったぬるい空気が私のなかに入りこむ。
「で。どうなの?」
黒子くんの真剣な顔に見入っていたら、唐突に友達の声。彼から視線を外さずに、口をひらく。
「なにが?」
「黒子くんに彼女がいるのかいないのか、そこんとこについて 5文字以内で答えよ」
「…知らない」
左右の様子を窺っていた眼差しが一点に定まった瞬間、黒子くんはみたこともないくらい真摯な顔になる。あの目に映りたい、と思った。
「あんた幼なじみなんでしょ」
「たぶん」
「だったら、」
「でも、あそこでプレイしている彼を私はよく知らないから」
知らない、人。だから。
ごめん。
心のなかで呟いてみたら、心臓が鉛みたいに重たくなった。黒子くんが遠くて、私はさびしいんだと思った。女の子たちに騒がれている彼には、近づけない気がした。
「別に興味ないけどね、私は」
「じゃあ聞かないで」
「興味はないけど気になるの」
「なんで」
「あんたがそんな顔してるから」
どんな顔をしているんだろう。私は。いま。
思ったのと同時に、デジタル表示が00:00を刻む。会場にブザーが鳴り響き、コートで沸く彼らの声と空間を埋め尽くしそうな歓声が重なって聞こえる。
隣の彼女に きゅ、っと頬っぺたを摘ままれて眉をしかめたら、目尻から滴が流れた。泣きそうな顔をしていたんだ、私。なんでだろう。
「バカな子」
そう言って、彼女は困ったように笑った。
◆
家に帰ってベッドにもぐり込んでどれくらい経ったころだろう。インターホンが鳴った。きょうは親の帰りが遅くて、家にはひとりきり。面倒だし居留守をつかってやろうと布団を頭まで持ち上げる。
きっと宅配便とか新聞の勧誘とかのたいして重要ではない来客だろう。宗教勧誘ならなおさらいらない。
二度目のインターホンも無視したまま寝返りを打ったら、
「なんで先に帰ったんですか」
すぐそばで声が聞こえて飛び起きた。
「っ!黒子、くん?」
「はい」
「はいじゃなくて、なんで?」
「玄関の鍵、あいてました」
さいきんは不審者とか泥棒とか物騒なので、一人のときはもっと気を付けてください。なんて真顔で淡々と続けてるけど、いまのこの状況だと「不審者=黒子くん」だから。気配もなく近づくのやめてほしい。心臓にわるい。
控えめに睨む私を無視して、彼がもう一度問いかける。
「なんで先に帰ってるんですか」
「黒子くんは、祝勝会とかミーティングとかあるんじゃないかと思ったから」
「具合でも悪いのかと思いました」
これ、差し入れです。そう言って彼が手渡したカップを受けとる。ありがとう、と条件反射で一口含んだタイミングで、彼は顔をちかづけて私をのぞきこむ。
「な、に」
「いえ。僕の飲みかけですいません」
飲みかけ。
なぜ、彼がそんなことをわざわざ言うのか、最初はわからなかった。
飲みかけ。
ってことは、さっきまで黒子くんがこれを飲んでいた、ということで。いま私のくちびるに触れているこのストローが、間違いなく彼のくちびるに触れていた、ということで。
それを分かりやすく簡潔な単語で表現するならば――間 接 キ ス ?
間接、キス。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私の手からバニラシェイクがすべり落ちた。床にぶつかって飛びはねる寸前で、黒子くんが器用に受け止める。反射神経はバスケ以外でもきちんと発揮されるものなのだなあ、とのんきに考える一方で、くちびるには熱が集まってくる。
「大丈夫ですか」
「だ、いじょーぶ」
「顔、赤いですけど」
はからずも黒子くんと間接キスをしてしまったらしい。それだけで胸がぎゅうぎゅう締め付けられていまにも破裂しそうなのに、心配げな黒子くんが額にすんなりと触れるから、ますます顔が熱くなる。
なぜだろう。コートでは遠くて、あんなに遠くて。手も届きそうにないくらい遠い。なのに簡単に彼は境界を踏み越える。私が必死で張った、傷付かないための防御壁は、彼にかかればまるで透明になる。
「ずっとキミに聞きたかったことがあるんですけど」
「なに」
「理由があるんですか?」
「なんに」
要領を得ない問いに首を傾げたら、黒子くんの透明な視線に縫いとめられた。その眼があまりにまっすぐで真剣だから、胸のまん中がざわざわと騒いでいる。布団を握りしめた指先がふるえた。
理由、って。なんの理由?
「名前で呼ばなくなったことに理由はあるんですか」
「……」
「中学のころからですよね」
そう。あのころから私は彼を姓で呼ぶようになった。意図的にそうした。
だってその頃から、黒子くんがぐんぐん遠くなって行ったから。テツって呼べなくなった。そんな呼び方をしてはいけない人になった。
「キミのあの呼び方、けっこう気に入ってたんですけど」
「ごめん」
「謝らないでください」
「……」
「謝るくらいなら、また名前で呼べ。ってことなんですけど」
吸い込まれそうな目が、私からはなれない。早く呼べ、と無言で訴えてくる。
さっき、コートの中にいたときと同じくらい真摯な瞳。あの眼にいま、私が映っている。それを意識したら、ますます胸が跳ねた。
「なんで?」
「ボクが呼んでほしいからです」
「どうして」
「理由なんて一つしかありません」
「だから、」
「呼べたら教えてあげます」
テツ。声に出さずに呼んでみたら、胸のなかでその音が形を持った。
テツ。もう一度心のなかで繰り返したら、さっきできた塊がぼわり、と膨らんだ。
テツ、テツ、てつ。膨らんで膨らんで、胸が破裂するんじゃないかと思うくらい、大きくなって苦しくて。その苦しさを絞り出すように音にした。
「て…つ……」
「もう一度お願いします」
「……テ ツ、」
やっと掠れたひびきを絞り出せば、彼は音もなく背後から背中を抱きしめている。いつの間に、どうやって?なんで?
不意打ちすぎて、きっと私の寿命は現在進行形で縮んでいる。
鉛みたいな心臓の在処(もう 幼なじみは終わりにしませんか) - - - - - - -
2012.07.03
意外に大胆なとこあるのに敬語はくずさない黒子くん もえる