必要不可欠

 半袖のシャツの背中が汗でぺっとり張りついて気持ちわるい。それくらい、殺人的に暑い夏の日のこと。プールサイドで手持ちぶさたに立ち尽くす黒子の頭のなかは、感情のみえない表情とは裏腹にさわがしく泡だっていた。

「なんなんですか。あの、水着は」

 声に出して言ってみたら、余計に疑問が膨らむものらしい。他人にミスディレクションを発動させたいと、こんな強く思ったのは初めてだ。
 水着というより、水着に包まれているのかはみ出しているのかよくわからないあの身体はなんなんですか。あれがボクらと同じ一般的に人間とかホモサピエンスとか呼ばれている生命体と同種のカテゴリーに属する生き物のもつ曲線だとはとても思えないんですけど。なんなんですか彼女は。
 呟いたところで誰かが反応を示してくれるわけでもないのに、独り言が止まらない。たぶんボクの存在なんてこのおそろしいほど大量に繁殖する群衆の誰の目にも映っていないのだ。誰の目にも映したくないのは彼女だというのに。

 誰もいない(と思っていた)ところから響く声に驚いたのか、見知らぬ他人がビクッと肩を揺らして不審げなまなざしをむける。ボクに。
 そんな反応にはすっかり慣れっこだし、どうせなら声にも気付かずに見過ごしてほしかったのに、と思った瞬間。水の中からざぶり、彼女があらわれた。顔に満面の笑みを浮かべて。
 したたる滴が髪から首筋をつたって、白い肌をすべりおちる。水を含んで色の濃くなった水着が肌に吸い付いていた。

「なんなんですか、まったく」

 キミはなんでどこもかしこもそんな風にきれいにできているんだろう。そう思ったら、ためいきがでた。
 夏休みのプールは、異常な混みぐあいを見せている。好きでこんな場所に訪れる人たちの気が知れないと、黒子は一瞬前の自分のささやかな欲望を恨んだ。だって、プールと聞けばなんとなく涼しくなれそうな気がするじゃないか。だけど実際はこの混雑っぷり。人口密度の高さで余計に暑苦しい気がする。
 なのに彼女はやっぱり楽しくてたまらないように笑っているのだ。
「なんでそんなに笑顔なんですか?」と問えば、「水が好きだから」と、彼女が答えた。

「なぜ水が好きなんですか」
「守られている気がするの」
「水に、ですか」
「そう。前世の記憶みたいなぼんやりとしたやわらかい安心感があるというか」
「よく分かりませんが」
「水を得た魚、っていうの?」
「キミは魚ですか」

 ツッコミの言葉も聞かずに、彼女はまた水のなかへ潜った。追いかけて飛び込めば、しなやかに蹴り出される彼女の脚先から、ぽこぽことわき出る泡がボクのお腹を撫でている。
 たしかに、魚みたいだと思った。

 客観的分析は得意だ。割り切るのも。バスケにおいては。
 でも、それ以外のことになると途端に客観性を失う。特に彼女のこと。

「テツくん、」
「何ですか」
「水を好きな本当の理由、聞きたい?」

 水音の向こうから、彼女の声。

「水って、テツくんに似てるから」
「どういうことですか」

 淡白で無色透明でいつも冷静で透き通っているのに、ときどきどうしようもなく氾濫するところとか。手に負えない動きをしたかと思えば反対に静かでやさしく包まれるかんじとか。さりげなく近付いてすんなり寄り添ってるところとか。ね、テツくんみたいでしょう?

「自分では分かりません」
「そ?残念」
「でも、」
「でも?」
「キミの生活にはボクが不可欠ってことは分かりました」

 問い返して首を傾げる彼女に向かって、小さな低めの声でささやいてみせたら、くすぐったそうに肩を揺らす。それが可愛くて、わざともう一度ささやいてみた。

「必要不可欠、です」
「なにが」
「ボクが、キミにとって」
「な、なにそれ」
「あれ?そういう意味じゃなかったんですか?」
「そういう意味って、どういう意味?」

 相手が余裕をなくすと、なぜか逆に余裕を感じる。人間の余裕の総量は決まっていて、ひとつところにいる二人の間で帳尻が合うようになっているのかもしれない。
 そんなことを考えながら唇を片方だけ持ち上げてみせたら、瞳を見据えたまま彼女はじりじりと後ずさる。逃げようとするから追いかけたくなる。

「てっきり盛大な告白かと思いました」
「……!」
「違いましたか?」

 また、とぷんと潜って逃げてしまいそうな彼女の腕をつかまえれば、二人の間を隔てる水がじんわりと温度をあげる。

「ちが、」
「い、ませんよね。知ってます」

必要不可欠
だってキミのからだの大半は水でできているから。

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20130328
夏に書きかけて春まで放置していた黒子くんお蔵だし。なんて季節外れな。
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