ハニーパイとダージリン

「いつもの、でよろしいですか?」


 耳触りのよい低音の声が、まろやかに辺りを包み込む。
 そんな風に甘く囁かれると、無意識で頷きたくなるじゃない。

 ダメダメ。決意したばかりなのに。


「いえ、今日は…」


 私の言葉を待ちながら、彼はミネラルウォーターの入ったグラスを、トレイからそっと持ち上げる。奈良さんの指先はしなやかで、いつも見惚れる。
 テーブルに置くためにほんの少しだけ身を屈めた彼からは、胸を僅かにくすぐる程度のスパイシーな香水が漂う。

 鋭い目線をかすかに和らげて真っ直ぐに見据えられると、苦しい。

 姿勢の良い立ち姿にいつもの制服。
 もう、何度彼のこの姿を見ただろう。

 白いシャツ、黒いタイ。
 細い腰を強調し、つやっぽさを加味するようなカフェエプロン。

 何度見ても慣れなくて。毎回ドキドキするのに、毎日でも見たくて。

 通う度に大好きなハニーパイ、それよりもっと好きな貴方。

 でも、今日は、ね。


「ダージリン、お願いします」
「畏まりました」


 恭しく頭を下げて去って行く彼の背中にすら見惚れる。
 無言の後ろ姿に愛を込めて、心のなかだけで呟く。


 ホントはね、ハニーパイも食べたくて仕方ない。
 でも、しばらくは我慢。
 だってもうすぐ夏だから。



「お待たせ致しました」


 なめらかに近付く指先を注視していたら、不意に甘ったるい香りが鼻先を掠めた。


「え?今日はハニーパイ、頼んでないんですけど」
「俺からのささやかな気持ちっス」

 でも
 せっかくダイエットしようと 思ってた、のに。


 困惑していたら、にやりと口端を歪めたきれいな顔が耳元に近付いて。

 固いはずの決意は崩れ、呼吸が止まりそうになった…――




(なぁ、それ以上痩せんなよ)

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2008.07.04 mims
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