昼下がりのカフェテラス、目の前のふたりに漂う空気は穏やかに落ち着いている。
切れ長の瞳を淡くゆるませて娘を見つめる青年は、会話のひとこと挙動のひとつ取っても申し分なくて。
その分、わが子のふわふわとした様子が際立つように思えるのは、親としての視点が厳し過ぎるからだろうか。
「とにかく、奈良さんに迷惑かけないようにしなさい」
「仕事のこと?だったらちゃんと頑張ってるよ」
シカマルみたいに何もかも完璧には出来ないけど。
至極真面目な表情で言葉を続ける娘に、漏れるのはため息。
あんた、家を出たからってすこしも成長してないみたいね。
この分じゃきっと、奈良さんにも既に随分ご迷惑かけてるに違いないわ。
「仕事の事じゃなくて」
「じゃあ、日常のこと?だったら尚更迷惑なんてかけてないよ」
ね?と、問い掛ける娘に返ってくるのは、ああ…。というなんとも曖昧な返事。
「林檎。今日私たちがこうして会ってるのは、何の為だったかしら?」
「なにって、"一緒に暮らすのを機会に入籍します"の報告 だけど」
「だったら、迷惑かけないようにの意味も分かるはずでしょう?」
分からなくても自分でそれくらい考えなさい。
笑顔のままでキツく言い切ると、目の前のコーヒーをゆっくりと飲み干した。
-scene23 昼下がりに-
林檎をそのまま、一回り小さくしたような女性。
風貌や声はそっくりなのに、その態度や溢れる物腰は随分と林檎よりも落ち着いていて。
林檎の的外れな言動に驚くでも謝罪するでもなく、それが当然のように振舞う姿に、ほんのすこし圧倒された(うちの母ちゃんもそうだけど、流石母親って感じだ)。
「とにかく、お父さんの事は私に任せておけばいいから」
さっさと入籍の準備を進めなさい。
「でも、」
「でも、じゃありません。20歳を過ぎた娘にも、一人暮らしならオートロック付管理人常駐のマンションじゃなきゃダメって主張するような父親なのよ? 」
どれだけ過保護なのか、おわかりでしょう?奈良さん。
突然振られた話に、お母さんと視線を合わせる。
微笑みのなかに、厳しさを湛えた双眸。彼女が反対ではない、ということは、ひとまず俺は認められたということだろうか。
「ご家族の事情や関係は、俺には分かり兼ねますが」
「でも、そうなのよ」
「そうっすか」
「ええ。だから、さっさと一緒に住んでしまえば良いわ」
あとのことは、責任持つから。
じゃあ、私はこれで。と、席を立つ彼女にあわせてふたりで立ち上がる。
深く頭を下げ見送りながら、本当にそれで良いのだろうかとの想いが、シカマルの頭のなかをぐるぐると回っていた。
◆
林檎の母親との対面を無事(と言っていいのかは疑問だが)すませて、ふたり残されたテラス席にすとんと腰を下ろす。
真夏の日差しの中、透明なグラスでは氷が涼しげな音を立てている。
表面にびっしりとついた水滴を気にしながらグラスを持ち上げて、ひとくち液体を口に含むと、ごくりと咽喉を鳴らして飲み下した。
「ほんとにイイのか?」
「なにが」
「親父さんのことだよ」
「お母さんがああ言ってるから、いいんじゃないかな」
シカマルは早く一緒に住みたくないの?
そうじゃねぇだろう?男としては、筋を通したいっつうか。
俺がそんな風に感じてるのなら、彼女の父親なら尚更そう思うに違いないのに。
「昨日オーナーさんに電話してみたらファミリータイプの方、空いてるって」
引っ越すの、いつにしようか?
どこまでも未来へ走る彼女の思考は嬉しいのに、感じる微かな不安。
「お前の試験より前には、済ませといた方が良いだろうし」
「入籍の日も決めなくちゃね」
「ああ」
ストローの先で、グラスの中の琥珀の液体を玩びながら、林檎は幸せそうな笑顔。
そんな顔を見せられると、吹き抜けるぬるい風すらも、心地よく思える。
きっと彼女にとっては、入籍なんてカタチはどうでも良くて。
一緒に住む口実として、面倒だからさっさと…ってのが本音なんだろう。
それを、こんな風に急いでしまったのはあくまでも俺の独占欲の現れ(こんな林檎を野放しにしてたら心臓もたねぇから)な訳で。
やっぱり
彼女の父親に何の報告もしないまま籍を入れることに、シカマルは抵抗を拭えなかった。
「もうすぐ9月だし、シカマルの誕生日はどう?」
「夫の誕生日?普通逆じゃねぇの?」
自らの口を通して漏れた"夫"の言葉に、ほんのすこしだけ照れているのにも林檎は気付いていないらしい。
「せっかく誕生月なんだから、忘れないためにお誕生日を入籍日にしておこうよ」
「普通の日だったら、忘れるわけ?」
「………忘れる、かも」
口籠るその姿が、なんとも言えず可愛くて。
「まあ、俺も覚えてる自信ねぇけどな」
何気なく会話を続けながら、それがたとえいつになっても、きっと俺が忘れることはないんだろうとぼんやり思った。
◆
昼前の事務所には、休み時間を待ちわびたそわそわと落ち着かない空気が流れ始めている。
経費の支出伺を提出しに庶務へ向かい、席へ戻ろうとしたところで、後ろからシズネの声が響いた。
「不知火くん。ついでにお願いがあるんだけど、」
「なに?面倒なことは遠慮すんぞ」
「これ、奈良くんに渡してきてくれないかな?」
シズネに渡されたのは、見覚えのあるA4サイズの封筒。数枚の書類の厚みは、記憶に新しい。
これって多分、アレか。
つうことは、シカマルの奴…もう?
「渡すだけでいいのな?」
「ええ。奈良くんには伝えてあるから」
「で、中身は?」
「不知火くんにも以前、出して貰ったでしょう?」
2〜3年前だったかな。と、続くシズネの声が、自分の確信を裏付ける。
あいつも、あんなにいつも落ち着いた表情見せてんのに、内心では焦ってんのか?と思えば、ついつい持って生まれた悪戯心が疼く。
「なるほど」
「"確認後、ゆっくり提出すれば良いから"って伝えて」
不知火くんみたいに遅くなるのは困るけどね。
チクリと吐かれた厭味には気付かないふり。
たしか、あの時はかなり遅れて提出をして、猿飛だったらそんなことなかったのにって散々に怒られたんだっけ。
「…了解」
ニヤリ、唇を少しだけ歪めて笑うと、書類を持った片手をひらひらと翻しながら、猿飛たちのいる打ち合わせルームに向かった。
◆
打ち合わせルームには、男3人の声が響く。
林檎は、所用で自社に戻っていて留守だった(昼休みの内には戻るはずだが)。
図面を広げて各部の納まりを再検討しながら、シカマルが時計をちらりと見ると、12時と少し前。
「ちょっと早ぇけど、休憩にするか」
「もう昼っすか」
「あー…今日は天姫ちゃんに会えねぇのかー」
「ああ。悪ぃがキバ、昼休みの内にここ出て先方に向かってくれよ?」
「了解っす。」
今日の昼飯は、コンビニだなー。
愚痴っぽくキバがこぼすのを聞きながら、手を動かす。
パタリ、音をたてて製本図面を閉じ、散乱した書類や図面の山を整えていたら、開いたままの扉がノックされた。
「シカマル、庶務のシズネさんから書類預かってきたぜ」
「あ、どうも」
座ったまま視線を上げると、ドアにもたれて封筒をゆらゆらと揺らしているゲンマさんの姿。
その表情は、やけに楽しげだ。
口端を上げた顔を崩さぬまま近付いてきたゲンマさんからそれを受け取ると、封筒の中を確認しないで、手元に置いた。
自分でシズネさんに依頼したのだから、中身は分かっている。
入籍関連の会社届け出書類一式。
そんなことをここでわざわざ公表する必要もねぇし、またヘンな風に騒がれるのはかなわない。
黙々と片付けを続行していると、ぽん、肩に手が置かれて。
ニヤニヤした表情のままのゲンマさんが、耳元に顔を近付けた。
「シカマル、入籍したのかよ」
「……!!」
やられた……。
って、耳元に顔を近付ける意味なんてねぇほど声デケェし。
別に隠すつもりはなかったけど、こんな風にバラされんのはマジで勘弁して欲しい。
「マジかよ、シカマル!?」
「プロポーズしたばっかでもう入籍かぁ?」
キバとアスマの声に、顔が熱くなる。
「してねぇよ」
「でも、その書類を取り寄せたっつうことは、その内すんだろ?」
キッと睨み上げたゲンマさんは、涼しい顔をして打ち合わせルームを出て行くところで。
ここに林檎が居なくて良かったと、心から思った。
◆
別に俺だって、誰彼構わず爆弾落として楽しんでる訳じゃねえし。
あの部屋にいたのが、バレても問題ないメンツだから言ったまでだ。
本当は、あそこに林檎ちゃんが居たら、もっと面白ぇことになってたんだろうけど。
そう思いながら席に戻る途中、何とも絶妙のタイミングで事務所の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
「おかえり、林檎ちゃん」
「不知火さん。……何だかご機嫌ですね?」
そう見える?と言葉を続けながら、林檎ちゃんの頭を2、3度撫でる。
「ところで、」
「え?」
(いつから"奈良さん"って呼べばいい?)
(もう、聞かれたんですか?)
すれ違いざまに彼女の耳元で囁いて振り返ると、案の定打ち合わせルームで真っ赤な顔のシカマル。
ったく、あいつは。分かり易いっつうか。からかい甲斐があるっつうか。
「いつまでも仲良くな」
「はい」
さして照れた様子もない林檎ちゃんと、シカマルの姿は対照的だ。
ある意味、いいコンビなのかもな(あくまでも俺のからかいの対象としてってことだけど)。
デスクへ向かい掛けたゲンマの脚は、思考を介す前に反転していた。
「それにしても、すげぇ荷物だな。持ってやるよ」
「いえ、大丈夫ですよ」
遠慮する彼女の手からバッグを奪い取ると、並んで打ち合わせルームへ戻る。
ホントはこのまま放っておいてやろうかとも思ったけど、シカマルのあんな顔を見せられては黙って引き下がるのが勿体無い。
俺もつくづく、意地の悪い性格してるよな。
「林檎ちゃんのお帰りだぜ」
「ただいま戻りました」
相変わらず俺を睨み付けるシカマルの顔は、染まったままで。
「奈良さん、具合でも悪いんですか?」
「……」
「お昼、一緒に外で食べるの止めておきます?」
「いや、平気だから」
「でも…顔、あか……っ」
慌てて彼女の口を掌で押さえるシカマルに、ますます笑いが込み上げる。
「平気だっつってんだろ!!」
「林檎ちゃん、そっとしといてやれよ」
そうですか。と頷く彼女を見ながら、シカマルはそっと頭を抱えている。
「さっきシズネさんから入籍絡みの書類を渡されて、皆にバレちまったんだよなぁ…シカマル」
「そうそう。それで、コイツはちょっと照れてるだけだから気にすんな」
猿飛の声に微笑んだ彼女は、さらりと言葉を続けた。
「そう言えば、私も社でこんな書類を預かってきました」
差し出されたのは、同じく入籍絡みの書類。
きっと林檎ちゃんは、入籍が早いとかそんなこと全然思ってねぇんだろうな。
横目で見たシカマルは、予想通りにさっきよりももっと赤面していて。
「あの、不知火さん。さっきの話なんですけど」
「ん、なに?」
「皆さんも…入籍しても、私のこと今まで通りに呼んで下さいね?」
照れもせず、当然のことのようにさり気なく言う姿は、ある意味毅然としていて。
俺の目から見ても、綺麗だった。
「ほら、さっさと飯行くぞ」
「あ…はい」
無理やり林檎ちゃんの腕を引いて、部屋を出て行こうとするシカマルの姿に、残された3人で笑いをかみ殺す。
そうやって、余裕無くす所が俺らにしてみりゃ堪んねえほど美味しいんだけどな。
シカマルの焦った様子は、更に悪い癖を引き出して。
(それにしても、交際2ヶ月でもう入籍かよ?)
既に部屋を出たふたりの耳に届くように、わざと大きな独り言を漏らした。
◆
込み上げる可笑しさを抑えられないままに自席へ戻る。
「ゲンマ なに、ニヤニヤしてんの?」
「ああ。ちょっとな」
デスクの上を片付けながら、眼鏡越しの鋭い視線が飛ばすアオバに向かって くく、と笑う。
すとん、と隣に腰を下ろし、そっと顔を近付ける。
椅子のキャスターがちいさく軋む音すら、可笑しさを煽る気がして。
「気持ち悪いな」
「実は、な……」
「さっさと言いなよ、話したくて堪らないって顔して」
淡々と突っ込むアオバに向かって、もう一度ニヤリと笑って見せた。
「……つう訳」
一通りの事の経緯を伝えると、アオバは眼鏡を押し上げながら頷く。
「なるほど。彼女かなりの天然だから、シカマルも焦ってるんだろうね」
「そうだな」
「でも、いい加減にしときなよ?ゲンマ」
「善処します」
「どうだか…」
呆れたようにため息を漏らすアオバに、肩を竦めて見せる。
長い付き合いだから、俺の性格知ってんだろ?と、視線で問いかけたら、返って来るのは渇いた笑い。
「結婚したからって、仕事上何も変わるとは思っていないからこそ、彼女は照れたりしないんだろうけど」
シカマルは、普通の感覚の持ち主だからなぁ……。
アオバの憐れむような呟きが、事務所の中で静かに響いていた。
◆
引っ越しに向けて、すこしずつ荷物をダンボールに詰める。
仕事を終えて帰った部屋は、シカマルが一緒じゃないと、しんと静まり返っていて。
こんな風にひとりの時間を過ごすのも、あともう少しなんだな、と思いながら部屋の中を見渡した。
ベランダへ出て、珍しく煙草に火を点ける。
駐車場を挟んで向かいの棟、ちょうど同じ階の真正面の部屋がふたりの新居だ。
見上げた空には、穏やかな月。
肺に溜まった煙をゆっくりと吐き出して、持ち出したアッシュトレイにそっと煙草の先端を押し付ける。
と、部屋のなかで携帯の呼び出し音が響いた。
「もしもし、どうしたの天姫?」
「どうしたのじゃないって。キバに聞いたよ?」
「あ。シカマルとのこと?言わなくてごめんね」
「同棲するんでしょう?どっちに住むの?新しくマンション借りるとか?」
いつから?きっかけは?林檎のお父さん、許してくれたの?
矢継ぎ早に繰り出される親友の言葉に、一瞬息を飲んだ。
「あ、あの…天姫?そんなに一気に質問しないでよ」
「ごめん。びっくりしちゃって」
「同棲と言うか、入籍して新しい家を借りるつもりなの。うちだと狭いし彼は実家だしね」
一緒に居るのがすごく自然に思えるから。
言葉を続けながら、ここには居ないシカマルの顔が頭に浮かんで、自然に笑顔になる。
「お父さんにはこれから報告するつもり」
「大丈夫なの?」
「入籍しないで一緒に住むのも変でしょう?お母さんにはもう伝えてあるし」
「林檎のお父さん、手強いんじゃない?単なる過保護じゃないから」
「手強いと思うけど、お母さんがまだ言わない方がいいって言うし」
シカマルなら、何とかしてくれるんじゃないかな?
「奈良さんならきっと、きっちり決めてくれると思うけど」
「それでね、天姫と犬塚さんにお願いがあるんだけど。婚姻届の証人になってくれない?」
「私たちが?猿飛さん夫妻とかじゃなくていいの?」
「うん、シカマルも犬塚さんと天姫にお願いしたいって」
「もちろん、そんなお願いなら断る理由なんてないよ」
「よろしくね」
「…じゃあ、もうすぐ林檎は、奈良林檎になっちゃうのね」
羨ましいな。
続く彼女の言葉に、口元が緩んだ。
分かっていることなのに、改めて彼の姓とひと続きで呼ばれる自分の名は、何故か妙に気恥ずかしくて愛おしい。
天姫だって、そのうち犬塚姓を名乗る日が来るんだろうに。
「天姫だって、もうすぐでしょう?犬塚天姫さん、って呼ばれるの」
「っ!私のことは良いから。それよりね、」
奈良さんと林檎の入籍祝いの食事会をしようと思ってるんだけど。
今週末って、時間あいてる?と尋ねる親友に、肯定の返事をしながら、さっき呼ばれたばかりの「奈良」の響きを、改めて噛み締めていた。