――カコーン…

 規則的に聞こえる獅子威しの音は涼やかだ。微かに部屋に漂う御香は、竹の薫りだろうか。
 爽やかな音と香で、真夏の外とは別世界。先程まで感じていた、じりじり照り付ける灼熱の世界はまるで嘘のように思える。

「あんま、緊張すんなよ」
「ん…」

 隣に座るシカマルは、すっかり寛いだ様子で空間に馴染んでいる。
 私は、と言えば、慣れない環境と初めてお会いする相手への緊張のせいで、否応なく固まっていて。
 こんな風に張り詰めてしまうのは、きっと悪い印象を与えたくない気持ちが強いからなのだろう。

「肩の力、抜けって」
 んな、畏まるような相手じゃねぇから。

 ぽんぽんっと頭を撫でられて、少しだけ気が緩んだけれど。頷きながらシカマルを見上げた笑顔は、まだ強張っていて。
 やがて現れるであろうシカマルのご両親へ、どんな風に接すれば良いかと、真っ白になりそうな頭で必死に考えていた。




-scene22 真夏の逢瀬-






「林檎…」
「ん?」

 テーブルの下。そっと握られた掌は、外の陽射しを思わせるように熱い。
 涼しい顔付きとは対照的なその温度に、何故だろう、逆にぞくりとして背筋が伸びる。

「普通にしてれば充分だから」
 無理して良く見せようなんて思うな。

 言葉に併せて、ぎゅっと指が絡む。

 下座に座る私たちの正面には、風格のある床の間。
 さりげなく飾られた掛け軸は、滑らかで軽い筆のタッチだが、きっと高価なものなんだろう。
 手前に配された生花と併せ、いかにも夏らしい季節感が現れている。

 もう一度絡めた指に力を込めて、シカマルを見つめたら

「失礼いたします」

 品のある女将の声とともに、脇の襖が静かに開かれた。


「随分早えんだなァ」

 プレゼンの晩に一度お会いしたお父さまの斜め後ろ、しずかな笑顔の綺麗な女性。
 シカマルって、お父さまにそっくりだと思ってたけど、お母さまにも良く似てるんだ。

「るせぇな、約束に遅れたことなんてねぇだろ?」

 立ち上がりかけた私の手を強く引きながら、ぶっきらぼうに答えたシカマルへ、言葉を放ったのはお母さまの方だった。

「シカマル…っ!父親に向かって何なの、その口のきき方は」
「へいへい」
「返事は一回っ!」

 さっきまでのやわらかい表情を崩して、目を吊り上げるお母さまに呆気に取られて。
 シカマルに手を繋がれたまま、ぺたりと座り込む。

「まあまあ…」

 諌めながら腰をおろすお父さまは、たいしたことでもないように落ち着いている。

「ごめんなさいね、林檎ちゃん」

 驚かせちゃったかしら?と続けながら腰を下ろすお母さまの顔には、再び気品ある笑みが戻っていた。

「いえ」

 ちいさく呟く私の隣で、ため息をつくシカマルを盗み見る。
 地窓から見える借景は、玉砂利と苔の枯山水。
 美しい坪庭をバックに、眉間に薄く皺を寄せて曖昧な笑顔を浮かべているシカマルに、ちょっとだけ見惚れた。







 母ちゃんも、今そんなこと言うなっつうの。
 元々大きな目をほんの少し見開いた林檎に手招きをして、近付いた耳元に唇を寄せる。

(だから、気ぃ遣うような相手じゃねぇっつったろ)
(でも)
(良いから、ラクにしろ。な?)

 囁きの途中で親父の低い笑いが邪魔をする。
 視線を動かした先に見えたのは、気持ち悪い位にニヤニヤと表情を歪めた親父の姿だった。

「おいおいオメェら早速いちゃつくかァ?」
「ちげぇよ、バカ親父」

 鋭く睨んでも、へらりとかわされて。

「テーブルの下の手はいつまで繋いでんだ」
 別に、奪い取りゃしねえから安心しやがれ。

 何で分かんだよ、そっからだと見えねぇだろ?
 ったく…、面白がってんの丸分かりだっつうの。

 再びため息をつきながら林檎をちらっと見たら、いやに不思議そうな顔。

 もしかして…
 また何か変な事、言うんじゃねぇだろうな?

「オメェが林檎ちゃんを離したくねえ気持ちはわかるけどよォ」
「ごめんねシカマル、私もう大丈夫だから」

 まともな返事をかえして来た彼女に少しホッとして、絡めていた指をそっと解く。
 触れ合った部分は、薄っすらと汗ばんでいた。

「ずっと手を握ってくれてたから暑かったの?」
「…いや」
「でも、シカマル…顔赤いよ?」


「………」


 ――はぁー……
 やっぱりかよ。



 ガクリと脱力して頭を抱えた途端に、降ってくる親父の高笑い。
 つうか、母ちゃんまで笑ってるし。

 一人だけ不可解な表情の林檎を横目に、腹のなかだけで舌打ちをした。







 舗道のインターロッキングブロックから、熱気が立ちのぼる。
 遠くの路面がゆらゆらと揺らめいて、空と地の境界が曖昧にぼやけているのは、陽炎だろうか。

 暑いな。
 背筋を流れ落ちる汗に不快感を感じながら、目的地近く、視線をさ迷わせた。

 ――桃地事務所…ここだ。

 洗練された雰囲気の中層ビルの前、一瞬だけ立ち止まると、開いた自動ドアから中へ滑り込む。
 外との照度差で眩む視界を凝らすと、センスの良い内装につい頬が緩む。

 流石、設計事務所の入ってるビルだよね。
 確か前に載った建築雑誌によると、桃地氏設計監理・インテリアディレクターを奥様が担当なさった自社ビルだったはず。
 でも、やっぱり写真と実物だとインパクトが全然違う。

 エントランスの吹き抜けを見上げながら、暫くぼーっとその空間の濃度に見惚れた。
 配された照明器具ひとつ取っても、細かい配慮と計算が窺えるように思えるのは、私が桃地夫妻の大ファンだからこその欲目なのかな。

 約束の13時までは、あと10分。
 肩に掛けた図面ケースを抱え直し、軽やかな電子音と共に開くEVに乗り込む。
 呼吸を調えるように大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出し終えた瞬間、事務所階で扉が開いた。

 目の前に立っていたのは、端正な顔立ちの男性。
 一歩。フロアに踏み出すと、吹き込んだ微風で肩にかかる髪がなびいて。
 これから始まる短い新生活への期待に、胸の奥が疼いた。

 私とは入れ代わりにEVへ乗り込んだその男性と、軽く会釈を交わす。
 彼も桃地事務所の人なのかな。

 一見冷たそうに見えるのに、薄い唇に微かに浮かぶ笑みは温かくて。
 すれ違いざまにふわり、漂った香りと、揺れる鮮やかな赤い髪に、何故か心が弾んだ。



「失礼いたします」

 重たいガラス扉を開いたら、雑誌で見慣れた女性(桃地夫人だ)と図面を挟んで真剣に議論している綺麗な男性。
 ふたりの周りにはびっくりするほど沢山の種類の図面。模型や見たこともない建材のサンプル群が、テーブルの上を占領している。

 やっぱり、大学で勉強してるのと実戦では全然違うんだ。見ているだけで、ワクワクする。

「あら、今日から来る予定のオープンデスクの子ね」
「はい。打ち合わせ中、お邪魔してすみません」
「いいえ、ちょうど約束の時間だものね」

 白、彼女を中に案内してあげて。ついでにサイをこちらに呼んでくれないかしら。

「はい」
「よろしくお願いします」

 優しい微笑みを浮かべて立ち上がった男性は、先を促すように打ち合わせスペースの奥のドアを開く。

「彼女の席は分かる?」
「承知しております」

 片手でドアを押さえたまま、夫人と言葉を交わす彼を見上げる。

「どうぞ」
「はい」
「君の席は窓際の…」

 彼の脇を通り過ぎて覗き込んだ中には、学校の製図室とは余りに違う光景が広がっていた。







 次々に出て来るお料理は、相変わらず目に楽しくて。

「此処は、いつ来ても幸せな気分にさせてくれるわね」
「ああ」

 目の前で会話を交わしているお二人は、シカマルと同様、この場にしっくりと馴染んでいる。
 やっぱり御用達のお店を持つ御家柄の人なんだ。

 繊細な切子細工の小鉢に盛られた和え物に箸を伸ばしたところで、お父さまの低い声が聞こえて顔を上げた。

「いつも馬鹿息子が世話になっててわりぃな」
「いえ」
 どちらかと言えば、私の方がお世話になっている位で。

「ほんとに面倒臭がりな子だから、林檎ちゃんに負担ばかりかけてるんじゃないかしら」
「そんなことないですよ?」
「炊事でも洗濯でも、がんがん押し付けちゃいなさいね」
 一応ひと通りのことは仕込んであるから。

「んなの、言われなくてもやってるっつうの。な?」

 眉間に皺を寄せたシカマルに問い掛けられて、こくりと頷いた。

「そりゃそうだろ、オメェは林檎ちゃんにベタ惚れだもんなァ」
「ぶっ……」
「シカマル…そうなの?」
「………」

 更に眉間の皺を深くしたシカマルは、さっきよりもっと顔が赤い。
 お酒には強いシカマルなのに、珍しく酔ったのかな?
 昼間のお酒は回り易いって言うから。

「大丈夫?」
「……大丈夫、じゃねぇよ」

 シカマルの頬に手を当てたら、正面からお二人の笑い声。
 訳も分からずに、首を傾げた。

(あの、私 何か変だった?)
(もう良いから、ちょっと黙ってろ)

 顔を寄せて囁くと、本当に困り切った様子のシカマルの返事に、もう一度頷く。
 庭から響く獅子威しの音が、やけに澄んで耳に届いた。







「ところでオメェ、今度はいつ帰ってくんだ?」
 いつまでもだらだらと、林檎ちゃんに迷惑ばっかかけてるつもりじゃねえだろうな。

 ニヤニヤとした表情を崩さぬまま問いかける親父に、内心の苛立ちを隠せないなんて、俺もまだまだガキだ。
 分かっているけど、ワザと勘に触る言い方をされるんだから仕方無い。


 ごくり、残りの酒を一気に呷ると、音を立ててグラスをテーブルに置き、シカマルは真っ直ぐ親父の顔を見据えた。

「そのことだけど」
「なんだァ、改まって」

 口ぶりにはからかいを含んだまま、視線が真剣なものに変わって。同じように真っ直ぐ見つめ返される。

 やっぱり親父には敵わねぇ。
 こんな短い一言だけで、俺の些細な変化もきっと筒抜けで。

 ふっ…と、ひとつため息を吐き、崩していた足を解いて正座する。
 隣で林檎も雰囲気を察したのか、箸をおろして居ずまいを正した。

 そんな俺たちにあわせて、親父とお袋もほんのすこしだけ表情を引き締める。
 無言の4人の間に聞こえるのは、静かな息遣いと外から響く涼やかな水音。

 一瞬だけ、張りつめた空気が室内を満たした。


「俺たち、一緒に暮らそうかと思ってんだ」
「ほう」

 言いながら、日本酒の入ったグラスをそっとテーブルに下ろす親父から、視線が反らせない。

「それも、出来るだけ早く」
「そりゃあ、今みてえに中途半端な形じゃなく っつうことか?」
「ああ」


 珍しく言葉を発せず無言で頷く親父には、陳腐な言葉で言うならば、威厳が溢れていた。
 林檎との婚約のことすらまだ報告していない自分が、愚息と言われるのも仕方ないのかもしれない。


「それから。事後報告になっちまったけど、」

 一旦言葉を切り、二人揃って座布団を降りて。すこし後ろへ下がると、改めて居ずまいを正す。
 そっと林檎と顔を見合わせながら、小さく頷いた。

 俺たちの空気を察してか、親父もお袋も一言も言葉を発せずに黙ってこちらを見守っている。
 その非日常の雰囲気が、否応なく心を強張らせて。

 ごくり、唾を飲み込んで、渇いた咽喉を潤す。
 考えてみれば、自分の両親を前にこんなに緊張したのは初めてだ。

 見つめ返した親父の瞳は、言葉の続きを促すようにいつになく真摯で。
 "早く言いやがれ"と言わんばかりに、心の奥を鋭く刺激する。

 覚悟を決めるしかねぇな。

 膝の上、ぎゅっと両手の拳を握り締めると、深く息を吸い込む。
 交互に親父とお袋の顔を見つめて、つかえる咽喉の奥から、ゆっくりと言葉を滑り出させた。


「俺たち、婚約しました。これからは二人で共に人生を歩んで行く所存ですので、今後ともどうぞ宜しくお願いします」
「宜しくお願いいたします」

 俺の後に言葉を続けた林檎と一緒に、両手を突いて深く頭を下げる。

 それから少しの間、部屋には静寂が続いた。



 ふわり料理の匂いを決して邪魔しない程度に薫る爽やかな竹香を、呼吸のたびに意識して。
 小さく身じろぎをすれば、膝が畳に擦れる渇いた摩擦音が耳につく。


 何秒が経過しただろうか。
 続く沈黙に、そっと面を上げると、二人は笑顔で俺たちを見つめていた。


「んだよ、笑ってんなら何とか言えっての」

 照れ隠しで荒げた声にも、きっと気付いているんだろう。
 先程までよりは心持ち揶揄の成分を減らして、親父は嬉しそうに笑った。

「くくっ。オメェもちったあ言うようになったじゃねえか」
「ええ。私も嬉しいわ」

 林檎と顔を見合せて、もう一度ため息を吐き出すと、ふっと肩の力を緩める。
 許して貰えない訳がないと分かっていながら、こんなにもいま安堵しているのは、自分が彼女に対して本気だということの現れに思えて。
 それが単純に嬉しかった。



「どうせ一緒に住むんなら、さっさと入籍しちゃいなさいよ」
「はあ?」
「何なのその返事は」
「オメェ…婚約して一緒に住むっていやあ、そういう事だろうが」

 くく、といつものやり方でほくそ笑む親父を前に、その真意を読み取る余裕もない。

 ――入籍…

 まだまだ先だと思っていた一過程が、俄かに現実味を帯びて目の前に迫る。

「先方へのご挨拶も、早めに済ませて」
 きっちりケジメ付けなさいね。

 母ちゃんの楽しそうな声を聞きながら、思考はそう遠くない未来へと飛んでいた。







「うん。じゃあ明日の午後に」

 実家への電話を終えて振り返ると、心配そうなシカマルの顔。
 うちのお母さんなら、大丈夫なのに。

 お風呂上がりで濡れたままのシカマルの髪を、後ろからバスタオルでわしゃわしゃと拭う。

「で、何だって?」
「うん。明日の午後なら時間取れるって」
「そう か」

 今度は、苦しげに眉根を寄せた顔。いったい、何をそんなに悩んでるのかな?


「ところで、お前の父親ってどんな人?」
「え?えーっと…一応大会社の役員やってる、大柄な人だけど」
 性格は頑固かなあ。でも、なんで?

 聞き返したら、不思議そうな顔が私を振り返った。

「明日会うための予備知識に決まってんだろ」
「あの、明日はお母さんだけなんだけど」
「は?」

 くるりと向きを変えたシカマルの頭から、そっとタオルを退かして。
 膝の間に抱き寄せられると、結い髪を解いた端正な顔は至近距離。

「お母さんが言うにはね、お父さんは誰を連れて来ても反対するだけだから」
 全部決まってからで良いわよ、だって。

「マジで、そんなんで良いのかよ?」
「うーん、分からないけど。取り敢えずは大丈夫じゃない?」
 それより、入籍日いつにしようか。

 緩やかに抱き締められた腕の中で、洗いたての髪の匂いを吸い込みながら、頭に浮かぶのは満たされた未来。

 そっと額に降って来る優しいキス。
 手に届く場所にある肌の温もりを感じながら、穏やかな幸せをそっと噛み締めた。


2009.02.01
[補足]オープンデスク=インターンシップ。学生が実際の創作活動に触れて実務の経験を積む事。設計事務所においては模型作成、CADによる図面作成補助、雑務などを行う。基本的に無給。
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