「そろそろ行くぞ」
うん。と返事をしながら、バッグを持ち上げる林檎を、シカマルは玄関先で待つ。
会社に通う時のカッチリした服装とは違う彼女の姿は、見違える(いつもの彼女も好きだけれど)。
「あれ、持ったか?」
「勿論。これでしょう?」
バックからするりと差し出されたのは、一枚の紙片。
そこに書かれたお互いの姓名に、口元が綻ぶ。
ヒールを履く彼女に手を貸して、きゅっと腕を引き上げると、扉を開ける前に額に軽くキスをした。
-scene23.5-
穏やかな夕暮れ
一人暮らしの俺のマンションには、良い匂いが漂う。もてなしの料理の香りだ。
もうすぐ訪れるはずの腐れ縁の彼らを待ちながら、キバはソファで雑誌をぱらぱらと捲っている。
空は夕焼けに滲み、温かな色を醸していた。
さっきから、天姫はキッチンで忙しく立ち働いている。
時々彼女の様子を見にキッチンへ近付いては、その内こうやって一緒に暮らす日がくるのかなと、無意識で顔が緩んだ。
「キバ、また覗いてる」
「わりぃ?」
「悪くないけど」
「けどなに」
「顔、すごいニヤケてるよ」
なんで?
問い掛ける天姫の後ろに立って、そっと背中から彼女を抱き締める。
美味しそうな料理の匂いに混じって、ふわり、漂う天姫の香り。
耳たぶに軽く噛みついたら、困ったような声で諌められた。
「もうすぐ林檎も奈良さんも来るんだよ?」
「わかってる、けど」
「キバ。出来たのから、あっちに運んで」
「おー、分かった」
渋々腕を解くと、天姫にコツンと額を小突かれて。
そんなことですら嬉しくなるなんて、俺ってバカみてぇかも…。
ぼんやりと自嘲していたら、丁度インターホンの音。
「俺、出るわ」
「お願い」
幸せそうな表情のふたりをリビングに案内して、キッチンへ戻った。
「で、どれ運べばイイ?すげえ、美味そう」
「それと、これ。あとこっちも」
持ってったら食べ始めてていいからね。
「天姫は?」
「これができたら終わりだから」
「おう、りょうかい」
料理を運んで、テーブルに並べる。
「お待たせー!」
畏まって座っているシカマルたちの姿は、見慣れなくて何だかヘンな感じだ。
両手に持った皿をテーブルの真ん中に並べると、林檎ちゃんが立ち上がった。
「私も手伝います」
「イイって、任せとけよ。林檎ちゃん、今日はお客さんなんだから」
あと一往復もすれば終わりだし。
ニカッと笑って見せたら、素直にすとんと腰を下ろす。
手早く残りの料理を運ぶと、俺も席に着いた。
「へぇ…やっぱ天姫ちゃんって料理上手いんだなぁ」
「うん、流石料理絡みの仕事に従事してるだけあるよね」
「ああ」
「味も保障するよ。このサラダは初めて見るけど」
新作かな?
目の前にあるのは、俺にとってはお馴染みの料理で。
生野菜たっぷりの上に、軟骨と鳥の唐揚げを乗せた、天姫特製のサラダ。
「あれ。林檎ちゃんは、これ初めて?」
「はい。天姫が作ってくれた料理の中には、こんなの確か無かったなぁ」
ぽん酢に胡麻油を混ぜたドレッシングを、ささっと振りかけた上に、スライスしたレモンを散らしたそれは、見た目にもすごくキレイで。
舌の記憶に染み着いた味を焦がれ、すでにじわりと生唾が浮く。
「へえ。俺は、しょっちゅう食べてるぜぇェ」
「そうなんですか?」
「キバに食わせる為に作ったんじゃねえの」
「そうなのかな?」
「だって、お前サラダなんて普段食わねぇじゃん」
しかも、これキバの好物だし。
首を捻っていたら、キッチンから両手を拭いながら天姫が現れた。
シカマルの台詞には、確かに思い当たる所があって。
ちらり、隣の天姫の方を見たら、にっこりと笑われた。
やっぱ、そうなのか…
「はい、シカマル」
料理を取り分けて、シカマルへ渡す林檎ちゃんの姿を、ぼんやりと見つめていたら、目の前に小皿が差し出される。
天姫の取り分けてくれたそれには、好物に混じって野菜もたっぷり。
「「「いただきまーす」」」
「んーっ!!んめぇっ!」
「ほんと、これ美味しい!!」
「ぽん酢が効いてんだな」
さっぱりしてて食いやすい。
シカマルの言葉に、自分が褒められたみたいに嬉しくなる。
「だろだろ?」
「お前が作ったんじゃねぇだろうが」
「はい、これで最後ね…って、あ!」
「なに……?」
「キバ…またトッピングの軟骨だけ食べてる」
ちゃんと野菜も食べてって言ってるでしょう?
目を吊り上げて怒る顔すら、天姫は可愛い。
「ちゃんと食べてるって」
「バランス良くないよ、もっと野菜も食べなさい」
いつものように叱られていたら、目の前でふたりの笑い声が聞こえて来た。
◆
「やっぱりな」
「シカマルの予想、当たりだったね」
笑いを含んだままに語り合う林檎と奈良さんを見つめながら、そっと問い掛けた。
「予想って、何ですか?」
「いや、キバにサラダ食わせようとして、天姫ちゃんはこれを考えたのかと思ってさ」
なるほどね、そう言うことか。
「分かります?キバって野菜食べる量すくな過ぎるから」
結構私も苦労してるんですよ。
「食ってるって。天姫が野菜ばっかり食いすぎなんだろォ」
「キバが少なすぎなの!」
少しだけ声を荒げたら、奈良さんの同意の声。
「確かに少ねぇよな」
「ランチも夜食も、サラダ頼んだことって無いですよね?」
「ほら、奈良さんも林檎もそう言ってるじゃない?」
得意げな顔でキバの方を見たら、何だかしゅんと落ち込んでいて。
あーもう…その姿に、結構弱いのに。
「だって噛み応えのねぇモン、好きじゃねぇし…」
「だからこうやって一緒に食べられるようにしたんでしょ」
「天姫が食わせてくれれば、食う!」
はぁ!?
すごく弱い仕草を見せてガツンと頭を殴られたばっかりなのに。
なんで、直ぐにそんな台詞を続けるの?
キバのバカ…
「な、何言ってんの」
強気で反抗しながら、声が震える。
顔が、熱いし(多分、赤くなってるはず)。何だか火が出る寸前みたい。
「な、“アーン”ってして?」
「い・や!」
「じゃー、食わない」
また。そんな顔して…
その、ちょっと拗ねたキバの顔にも私が弱いって知ってるんでしょう?
「――――っ!!!!」
キバ、絶対確信犯だ!!
八重歯を見せて、笑う顔。怒りたいのに、怒れなくなる。
お箸を持ったまま固まって。
奈良さんたちの方を見れずにキバを睨んでいると、向かいから小さな声が聞こえてくる。
(夫婦漫才も久しぶりだな)
(そうだね)
ちょっと待って。夫婦漫才なんかじゃないし。
反論をしたいのに、咽喉が詰まってしまったように声が出なくて。
隣からはキバが、服の袖をくいくいと引っ張っている。
「食わせてくんねぇの?」
「……」
「なあ、天姫――」
キバ、後で覚えてなさいよ?
ちゃんとこの仕返しはしてあげるんだから。
「……あ、あーん」
「あーん……ん、うまい!」
おずおずと差し出したお箸にパクつくキバは、すごく幸せそうな顔をしていて。
そんな笑顔を見せられたら、反抗なんて出来なかった。
◆
目の前で繰り広げられる久々の夫婦漫才に、ふたりの幸せな空気が透けて見える。
(俺たち、帰った方がいいか?)
(うん、そうかも)
(でも、あれ…)
俺の言葉に頷いた林檎は、バッグの中からそっと持参した書類を取り出した。
「あの、天姫…」
「キバも、俺たちそろそろ帰るわ」
「え、ええ?なんで?」
「そうだよ、ゆっくりして行けばいいじゃねえか」
口々に引き留めるふたりは、まだお箸で繋がったまま。
そんな姿を延々見てたら、あてられるだけだしなぁ。それに、完璧俺たちお邪魔じゃねえ?
林檎の方を見ると、俺と同じことを考えてる表情。
「でもなあ」
「ね?」
すっとテーブルの上に書類を差し出すと、天姫ちゃんはお箸を下ろして。
「それって、婚姻届?」
「うん。お願いしてたでしょう」
「だったら、尚更ゆっくりして行ってよ」
食べ終えて片付けたら、気合入れてサインさせて貰うから。
「今日はお前らのお祝いの会なんだし」
「そうそう、もっと寛いでくれた方が私たちも嬉しいよ?」
「あれ?天姫ってもう、犬塚さんと一緒に此処に住んでるの?」
「っ、違うけど……」
「けど、何?天姫…顔、真っ赤」
くちごもる天姫ちゃんを笑って見つめているキバの目は、穏やかだ。
今はまだ一緒に住んでいないとしても、その内このふたりも同じ家に暮らし始めるんだろう。
「俺と天姫が、シカマルたちの婚姻の証人かァ」
「ああ、頼むな」
「よろしくお願いします」
しみじみと吐き出されるキバの台詞を聞きながら、改めてその事実を認識する。
林檎と俺が、結婚――
テーブルの下、伸びてきた林檎の手をそっと包みこんで。
外へ視線を移すと、薄闇の空には淡い月が昇っていた。