インターホンを鳴らして鍵をあけると、玄関には父の靴が几帳面に並んでいた。廊下の奥からは、小さくTVの音が聞こえてくる。
 出てきた母にただいま、と告げてリビングに向かえば、苦虫を噛み潰したような顔の父がいた。

「お父さん、帰ってたんだ」
「つい今しがたね」

 父の代わりに母が答える。彼は俯いたまま黙りこんで、必死で壁を作っているように見えた。壁を作らなければならないくらい、切迫しているのだと思えば、少しやさしい気持ちになる。

「ただいま、お父さん」
「何しにきた」
「お父さんと話をしに」
「話すことなどない」
「私にはあるから」

 そう言って、私は鞄のなかから例の代物を取り出した。
 


-scene28 役者が揃いましたので-





「これ。やっぱりお返しします」

 固い表紙に挟まれた写真を、テーブルの上で滑らせる。わずかに尖った視線を投げたあと、父はぷつん、とTVのスイッチを切った。
 差し出したそれに手も伸ばさず、父は黙りこんでいる。このままでは埒があかないと、深呼吸をひとつ。


「いまの私には、なんの意味も持たないものだから」
「……」
「お父さんから、きちんとお断りしておいてください」

 お願いします、と続けながら深々と頭を下げる。ここでもし再び突っぱねられれば、勝手に先方へ直談判しにいくつもりだった。その前に当然通すべき筋として、今夜私はここにきているのだ。なんの進展もないままでは帰れない。
 帰らない。

 無言で頭を垂れる姿勢を続けたまま父の反応を待っていたら、鼻を啜る音が聞こえた。
 え、なんで。
 びっくりして弾かれるように顔をあげる。さぞかし不機嫌な顔をしているだろうと思っていた父の目には、うっすら涙の膜が張っていた。

「お父さん?」
「……」

 返ってきたのは、低い咳払いがひとつだけ。TVの消えたリビングには音のない緊張が続いている。
 どうすれば良いのかわからずに、父の背後の壁掛け時計を見つめた。

 一分、二分。秒針はぐるぐると三度目の周回をはじめている。
 三分をすこし過ぎた頃。なにも語らない父の代わりに、母がそっと耳打ちをした。

 さっきまでね、「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ」「一人暮らしなんてさせなきゃ良かった」って愚痴って大変だったのよ。偏屈なのに涙脆いところは昔から変わらないんだから、この人。
 その言葉を聞いて、私は彼に愛されているんだなあと思った。これまで本当に大事に愛されて来たんだ、と。これからも彼は大事に愛してくれるのだ、と。だけどこれから先の人生を共に生きていくのは、父ではなくて。
 きっとその引導をうまく渡せないから、臍を曲げて、ためらって、意地になっているだけなんだね。


「勝手にしろ」

 搾りだすような短いその言葉が、父の精一杯の譲歩なのだろう。本当に、不器用なひと。

「勝手にします」
「とにかく、式をするまでは認めない」
「わかりました」
「入籍もそのあとだ」
「……」

 最後の命令には答えず、席を立つ。
 肩を竦めて母の方を見れば、無言のまま頷いていた。





 駅からの帰り道、まるでタイミングを見計らったように電話がなった。覗きこんだ画面には「奈良シカク」の文字。いま最も喋りたくない相手だ。
 無視を決めこんで数秒後、やっと着信音が消えたと思った途端にまた鳴りはじめる。

 ったく、めんどくせぇな。

 呟いて画面を見れば、出ない訳にはいかなくなった。そこに並んでいたのは「奈良ヨシノ」の五文字だったから。彼女だけはどんな時にも無視できない。そういう風に育てられた。
 あの人らは二人揃ってなにしてんだ。がりがりと頭を掻いて、シカマルは通話ボタンを押す。聞かれることなんて、話す前からわかっているのに まじめんどくせぇ。

「もしもし」

 夏の名残の生ぬるさが、頬をなでていた。
 電話にくらいさっさと出なさい、と母ちゃんに怒られたかと思えば、すぐに話者は親父に変わる。

「オメェら、どうなってんだァ?」

 数日前と同じことを、相変わらず笑い混じりに問われて「どうもなってねえよ」と返す声に苛立ちがにじむ。あっさりそれを見咎められて、親父が本気で笑いだすからムキになった。

「ガキじゃねえんだから放っとけっつうの」

 この人も、ゲンマさんも、どうしてこう俺に構いたがるのか。たぶん二人は同じカテゴリーに属する人種にちがいない。乱暴に吐き捨てながらそんなことを考える。

「ずいぶん余裕ねぇなァ、大丈夫か」
「心配するようなことは何もねぇよ」

 言葉でいくらそう言っても、たぶん親父には筒抜けなのだ。俺のひそやかな焦燥も、ばかげた不安も、全部。

「なら良いけどよォ」
「まだ何かあんのか」
「いや、な。母ちゃんが」
「なんだよ」
「例の神社もう予約しといて良いのかって浮き足立ってるもんでな」
「勝手なことすんなって」

 勝手なことばかり。誰も彼も勝手なことばかりする。
 たぶん、俺も。
 勝手に不安になって、勝手に心を波立てて、勝手に――


「阿呆みてぇに慎重になって先手、先手打つのがオメェの定石だろうが」
「それとこれとは」

 別、だろうか。
 ほんとうに?
 だって俺は、彼女をあのまんま放置していると危なっかしくて仕方がないから。だから。さっさと婚約しちまおうと思った。そんなモンで縛れるわけでもないのに。

「とにかく、彼女の試験も控えてるし、仕事の進行状況とか、」

 俺らにもいろいろ都合っつうモンがあんだよ。

「だってよ、母ちゃん」

 すぐそばにいるらしい母ちゃんに、親父が声をかける。あらあら、と呑気な声が聞こえた。

「切んぞ」
「へいへい、」
「ったく。勝手に走んな」
「シカマル」

 男っつうのは、何があってもどーんと構えとくモンだ――切り際の親父の台詞が、心の深いところに染みた。



 シカマルが新居に帰ると、部屋にはもう明かりが灯っていた。

「ただいま」

 さっきまでどんな顔をすればいいだろうと悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、そこにいた彼女はいつも通り。

「おかえりなさい」

 そう言って微笑むと、俺の手から鞄を受けとる。リビングに向かう背中で、すこし伸びた彼女の髪が揺れている。ななめ後ろを振り返った一瞬の表情、耳たぶで光るピアス。それだけで、焦燥感が影をひそめる。

「シカマル」
「ん?」
「実家で話してきた」
「ああ」

 どうやって切りだそうか最良の方法をひねり出そうと、ずいぶんぐるぐる考えていたけれど、そんなことはそもそも必要なかったようだ。あっさりと口にした彼女の声は、すべてを終えた後のように落ち着いていた。

「予定通り、シカマルのお誕生日に入籍で大丈夫だから」
「お疲れさん」

 見合い写真の一件は、いまとなってはもう何の意味も重さももたない。ざわざわと波打っていた暗い想いも葛藤も、全部、ぜんぶこのまま俺の腹の底に沈めてしまえばいい。

「頑固だよね、ほんと」
「親なんて、んなもんだろ」

 彼女の力の抜けた顔を見て、やはりすっかり話はうまくついたのだと思った。
 思い込んだまま、シカマルはほっとためいきをついた。

 9月22日まで、あと数日――





 翌日、シカマルと林檎が揃って早めに出社すれば、コテツさんとイズモさんが仮眠室から出てくるのに鉢合わせた。憔悴しきった表情は、まるで修羅場あけだ。
 いま、そんなに切羽詰まってる案件なんてなかったはずなのに。

「どうしたんすか」
「理由は 察しろ」

 イヅモの台詞に頷きながら、コテツは大きなアクビを繰り返している。さっぱり分からない。
 案件に追い立てられたのではない、とするとほかに理由として考えられるのはなんだ。彼女と顔を見合わせていたら、コテツさんがアクビ混じりに問いかける。

「あの人のタフさ、どうなってんの」
「あの人?」
「そ、あの人」

 誰だ、あの人って。

「シカマル解明してくれよ」
「解明して、俺らを救ってくれ」

 どこかで聞いたような台詞で、やっと思い当たった。
 ああ、なるほど。そういう訳ね。

「あの人、っすか」
「化け物の域だな、ありゃ」
「…ああ」

 どうやら、綱手サンの夜通しハシゴ酒耐久レースにふたり揃って振り回されたのらしい。

「御愁傷様っす」
「勝手に殺すな!」

 そう言ってコテツさんは、無意味に俺の背を叩いた。理不尽だ。理不尽だけれど、いつも綱手社長やシズネさんにあれこれ雑用いいつけられてぶつぶつ言いながらも恐ろしいほどの業務量を全部きっちりこなした末に一晩中歓楽街を連れまわされて自宅に帰ることも許されず仮眠室でわずかばかりの休息を取ったのちにまた1日ハードな仕事へ突入しようとしている二日酔い感満載の二人に比べればぜんぜん理不尽ではないから我慢する。
 眉根を寄せた俺の隣では林檎が、楽しそうに笑っていた。





「たしかに受け付けました。どうぞお幸せに」

 休日の朝、ふたり揃って届を出しに行けば時間外窓口しかあいていなかった。正規の入り口の脇にある、小さなガラス扉を介して紙片を手渡せばそれですべて終了。事務的なメッセージが送られて、からからと扉がしまる。
 これ、婚姻届なんすけど。一応世間では、ふたりの他人のこの先一生を確定するための重たい誓約書みたいなもんなんすけど。
 こんなんでイイのか?

 案外あっさりと済んでしまったセレモニーに拍子抜けしながら、建物を後にする。
 焼けたアスファルトに、小気味よい彼女のヒールの音が響いていた。


「簡単なもんだね」
「でも、約束は約束だから」
「それはそう、だけど」
「一応親に報告しとくか」
「私はやめておく」

 なんで?と問えば、微笑みが返ってくる。

「お前、もしかして」
「うん。内緒だから」

 まじか。親父さんとうまく話がついたワケじゃなかったのかよ。この前の夜に。
 あの日の力の抜けた彼女の表情を見て、俺が勝手に誤解してた、ってこと?

「内緒はまずいんじゃねえの」
「お式をするまで認めない、の一点張りなんだもん。強行突破して何が悪いの」

 悪びれたそぶりもない彼女の表情を見て、ためいきをつく。
 思い込んだら譲らない、強行突破でもなんでもしてみせる。それくらい強い意志を持って俺との未来を彼女が望んだ、という意味だとしたら、それはそれで嬉しいのだけれど。普段の柔らかい空気とはあまりにそぐわない、芯の強さが垣間見える。ことがある。たまに。
 その頑固さはたぶん、親父さん譲りなんだろうな。あの親にしてこの子あり、ってか。ひとりごちながら、シカマルは自分の知らない彼女の一面を見せられた気がしていた。また、ひとつ。
 きっと、こうやって、これから先も 次々に彼女は俺に新しい顔を見せてくれるのだろう。何度も。何度でも。

 ふっ、と息を吐いて彼女の髪をなでた。
 笑顔のままの彼女が、俺を見上げる。強行突破をする時点で、万が一反撃されたとしてもそれを跳ね返す覚悟なんてとっくにできている、そう言われている気がした。強くてやわらかい笑顔。
 かなわねえな。こいつには。


「暑いね」
「ああ、コーヒーでも飲んで帰るか」

 かなわない。腕を庇代わりにして、シカマルは照りつける太陽を見上げる。
 夏の終わりの空は、はれやかに澄み渡っていた。


2012.08.01
案外 一本気で男前な彼女。
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