別に自分は過去に固執するタイプではないと、シカマルは自覚していた。
誰かに執着することもない、と。
こんな風に思うのは、どちらかと言えば執着されるケースのほうが多かったからだろうか。
とにかく、これまで何かに偏執的な感情をいだいた経験はまったくない。だけど、彼女が相手だとどうにも調子が狂うのだ。
執着していた。たぶん、珍しいほどにひどく執着していた。普通ではない、と思う。彼女は自分にとって普通の範疇に入らないのだ。
普通ではない。だから、いつもの余裕なんてこれっぽっちもなくなる。
良くも悪くも、彼女は自分とはぜんぜん別の生き物――そんな当たり前のことを、シカマルは改めて噛み締めていた。
-scene27 明日治る病-
冷静に判断するならば、さっき偶然目にしてしまった見合い写真にはきちんと理由があって。その裏には彼女の意志だけではなく、親父さんの意地や立場も絡んでいる。
あれの存在=俺と彼女の破局には絶対になりえないと頭では充分に理解していた。
でも、理屈では割り切れることが、心ではどうしてもすんなり受け入れられないのだ。俺の気付かない理由が隠れていたらどうしよう、と不安に駆られる。それくらい彼女を失うのが怖いと思っている自分が、不思議だった。
「それにしても、天姫ちゃんが俺にも何も言わねえって相当だろ」
「さあな」
キバたちの距離感は知らないが、きっとそうなのだろう。でも、いまはなにも考えたくない。考えたくもないのに勝手に脳は動いて、結局ぐるぐる考えちまうんだけど。
「シカちゃんまた」
「あ?」
「ためいき」
考えていれば、勝手に出てしまうのだから仕方ないだろ、と思ったけど言葉にするのが面倒でシカマルは黙りこむ。
ふだん感情を素直に口にする彼女が、意図的に隠し持とうとした秘密。彼女を信頼しているし、まさか本気で見合いするつもりはないと思う。思うけど。
なにも伝えられなかったことが、シカマルを戸惑わせていた。
「林檎ちゃんも、まさか偶然俺らがあの写真見ちまってるなんて思ってねえだろうし」
「だな」
「不可抗力ってやつだから気にすんな、シカマル」
「お前が言うなっつうの」
だいたい、彼女の鞄をうっかりおとして荷物ぶちまけたのはお前だろうが。そう、キバに文句を言おうとしたら携帯がなった。噂の彼女からだ。
液晶画面を覗きこめば、いつも通り用件のみのシンプルなメール。
『今夜もう一度実家に行ってきます。晩ごはんは、申し訳ないけど一人で食べてください。ごめんね』
「なんだって?」
「キバ、飲み行くか」
「いいねー」
そういやシカちゃんと二人で飲むの久しぶりじゃね?と言葉をつづけるキバは、さっきまでドタキャンだ三隣亡だ云々で凹んでたとは思えないくらい明るいテンションを取り戻している。正直、それに救われた。
たまには男同士水入らず、っつうのも悪くねえよな。特にこんな夜には。
「水入らずバンザイだな」
「まあ、な」
「そうと決まったら早く行こうぜ!な!な!」
保存しちまうから、ちっと待て。と返事をかえしながら、最短スピードでデスクを片付ける。ハイテンションのキバに引き摺られるように、シカマルは事務所を後にした。
◆
そして何故かいま、シカマルとキバは四人でテーブルを囲んでいる。二人水入らずのはずが、どうしてこうなったか、って?
たまたま入った店に先客がいたのだ。とても逃げられないふたり、直属上司のアスマとくせ者ゲンマ。まあ、男同士には違いないけれど。
「二人が一緒って珍しいっすね」
「隠れ飲み仲間っつうやつだ」
内緒な、なんて言って髭面の前に人差し指を立てると、アスマは「しー」と呟いている。
誰になにを隠す必要があんだ、このどこにでもありそうなおっさん二人の飲み会。べつに、んな必要なさそうだけど。シカマルがそう思った瞬間、まるで俺の脳内をよんだみたいにゲンマさんが口をひらいた。
「綱手サン」
「へ?」
「だから。もし綱手サンにバレたら後が怖ぇんだよ」
「ああ」
なるほど彼女なら、さんざん彼らを引っ張り回して三軒や四軒ハシゴするなんてザラだろう。シカマルがそこまで考えたところで、またゲンマの声。
「五、六軒のハシゴじゃ済まねえぞ」
予測を寸分違わぬその言葉に、この人には隠し事なんて通用しねえな、と思った。喰えねぇ人だ。
「まじすか」
「大マジ」
「……げ」
「だいたい彼女が乱入してきたら、オールナイト朝まで何軒ハシゴできるか耐久レースってのが通例だな。そっからは内臓と精神力のせめぎ合い」
「恐ろしいっすね」
「怖いなんてもんじゃねえよ」
んなもん常人が毎回付き合えるわけねえっつうの。俺のカラダはアルコールをエネルギー源にして動いてるサイボーグか!つうかあの人のカラダこそどうなってんだ、シカマルお前頭いいんだからさっさと解明しろ。そんで俺たちを早く救ってくれ。
いつになく饒舌なゲンマさんに力説されたかと思えば、隣ではアスマが必死に頷きながら涙目を見せている。二人の姿を見て、綱手さんは酒を飲んだらすごい、ってことだけは良くわかった。
「とりあえず生二つ」
会話の途切れめに注文すれば「もう二つ追加」とゲンマさんの声が続く。
「お前らこそ珍しいな」
「なにがすか」
「二人飲み」
「以前はけっこう来てたんすけど」
「いまはリア充ってか」
爆発しろ、と続けたゲンマさんも隣で頷くアスマも、ほんとはリア充だって俺たちは知っている。特に家庭の空気なんてふだんは微塵も漂わせないし所帯臭さ皆無のくせに、ゲンマさんはじつは。
「リア充はどっちっすか」
「さあ、な」
そう言ってはぐらかす顔がやわらかい。
まあ、相当なネタ掴んだ上で話を振っても簡単に喋るような人じゃねえのも知ってるけど。こんな風に余裕を見せられると、一度くらいこの人を困らせてみたくなるのが人情ってやつだ。
そんなことを考えていたら、図星を突かれて思考が止まった。
「お前ら二人揃って彼女にドタキャン食らった、っつうトコか」
「すっげ!ゲンマさんなんで分かるんすか」
本気で驚いているキバにむかって、ゲンマさんはくつくつと笑う。
「お前らが分かりやすいから」
そう言って、余裕の表情のまま 彼はジョッキに残った液体を一気に飲み干した。
◆
突然飲み屋にあらわれたシカマルとキバを見て、こりゃなんかあったな、と思った。あいつら二人が定時後につるんでる所なんて、いつから見ていないだろう。プライベートが充実してんのは結構なことだけど。ゲンマは口のなかだけで呟く。
めずらしい。特に今夜のシカマルの憔悴っぷりは、なかなかに見ものだ。
「お疲れさまっす」
「おう、お疲れ」
すぐに切り出すよりは、すこし酒を入れてからにするか。そう思って、ゲンマはひらきかけた口をそっと噤んだ。
ずいぶん酒が進んだころ。まずは、落とし易そうなキバの方へ水を向けてみる。
「で、キバ」
「なんすか」
「今日のシカマルはなんだ」
「なんなんすかねー、俺の口からはとても」
やっぱり。
なんかあった、な。これは。
この様子だと俺が誘導しなくてもそのうち自分でぽろり、とこぼすだろう。
「言っちまえよ、キバ」
シカマルのその言葉は、ずいぶんなげやりに響いた。
「シカマル。いいのか?」
「……いいよ」
それは許諾というより、ただなげやりなだけだった。いつもは酒に強いシカマルの方が、キバよりもずっと酔っているように見えた。酔いたいのだと思った。
「でも、」とキバはためらっている。いま、この瞬間だけを切り取るならば、シカマルよりもキバのほうがずっと冷静で大人びて見えた。隣でアスマは黙って煙草をふかしていた。
「見合いっすよ」
シカマルの言葉は突拍子もなくて、ゲンマには理解できなかった。言い終えたあとに、シカマルはゆるりと口角を持ち上げる。その顔は、笑顔にしてはすこし歪みすぎている。
「キバ、通訳たのむ」
「言っていいのかなー、マジで」
「いいんじゃねえの」
むしろ今のシカマルは、バラされたいのだと思った。さらけ出してしまいたいのだと。
「俺にも聞かせろよ」
俺の言葉に、アスマが続く。濃く吐き出された煙が、テーブルの上を曇らせていた。シカマルは、すこし涙目に見えたけれど、それはきっと煙のせいだろう。そういうことにしといてやるよ、今夜は。
「見合いってなんだ」
「焦らすな」
アスマと俺に揃って詰められれば、キバに逃げ場はない。頼みの綱のシカマルも、今夜ばかりはたよりにならないと悟って、キバがしぶしぶ口をひらいた。
「林檎ちゃんが、見合い写真らしきモンを持ってたんすよ。シカマルに内緒で」
「なんだその笑えねえ冗談は」
冗談ではないのだ、とシカマルの目が訴えている。くちびるを歪めて。どうすればいいのだと問いかけてくる。
「そういうこともあんだろ」
俺がそう言えば、まっすぐに見つめる。まっすぐな漆黒は揺れている。途方に暮れている、と。そう書かれていた。
「んな簡単なもんなんすか」
「簡単じゃねえよ」
簡単じゃない。だけど、単純な話だ。
埒のないことを考えていても仕方がない。
「じゃあ教えてください」
アスマと俺を見据えたまま、シカマルは言った。強くて弱い目。
「なんだ?」
吸い込んだ煙を吐き出しながら、アスマはひどく優しい声を出す。こいつは俺よりもずっと優しい。
「二人は、奥さんの考えていること 分かりますか?」
シカマルが、いつになく低い声で問う。ずいぶんと弱気になっているらしい。俺なんかにうっかりその類いのことを聞けば、あとでどんな目に遭うかも考えずに。それくらいの判断すら出来なくなっている。そういうことだろうか。
「分からん」
アスマの言葉にシカマルはあからさまにほっとした表情を見せる。
「分かんねえから面白いんじゃねえの」
「そんなもんすか」
「そんなもんだ」
何もかも分かっちまったら一緒にいてもつまらねえだろ、とゲンマが続ければ、漆黒の揺れが止まる。
「分かんねえんすよ」
「分からないフリしてるだけじゃねえの、お前の場合は」
「シカちゃん、狡ぃとこあるからな」
キバにも分かっているのだ、と思った。
知らないふりをしている。ずっと考えていることがある。結論が出ていない。出したくない。知らないふりをしている。知りたい。
お前は、もう、知ってんだろ。本当は。ゲンマはシカマルを見ながら苦笑する。
「とりあえず、飲め」
アスマのひどく優しい声が、ふたたび響いて。四人は飲みかけのジョッキを持ち上げると、カチン、硝子を触れあわせた。
◆
アスマとゲンマさんの反応は予想通りだった。肩の力は抜いてくれるが、大事なことは結局教えてはくれない。三人で談笑している彼らを眺めて、シカマルはそっとためいきをもらした。
二人の言うとおりなのだ、たぶん俺はぜんぶ分かっている。
あんな写真があろうがなかろうが、未来はなんにも変わらない。俺と彼女の気持ちも変わらない。偶然見てしまったとはいえ、あんな写真の存在は無意味だ。だったらなにが問題だというんだろう。
彼女があれを俺に隠していること?違う。だって、彼女が隠そうとした真意を俺は知っているじゃないか。現にいまごろ、俺に隠れた場所で、彼女は父親に対峙しているはずだ。毅然と、胸をはって。俺との未来のために。
問題は、たぶん、俺。
あれを見た瞬間、動揺してしまった俺。
お見合い写真じゃねえ?――ナルトの言葉を聞きながら、キーンと耳鳴りがした。頭のなかが一瞬でぼやけた。うまく頭がまわらなくて、ただ、嫌だ、とだけ思った。
「信じてねえの?」
ぐるぐると回る無限ループに、ゲンマの問いが滑り込む。
信じていない?俺が、彼女を?そんなはずはない。信じている。信じていた。
「信じて、ます」
口にすれば、すとん、とその言葉が腑に落ちる。信じている。彼女のすべてを知ることが、俺の望みだろうか。違う。そんなエゴの押し付けなんて望んでいない。言葉にできることがすべてだとも思っていない。信じている。
「だったら、それで充分じゃねえか」
それ以上の、何がいるのだとゲンマの瞳が語る。くちびるに無造作にくわえられた煙草が、ゆらゆらと揺れている。
「今のうちに傷付いとけ」
アスマが言った。どういうことだか分からないけれど、俺は傷付いていたのか、と思った。傷付いていた。彼女には俺を傷付ける力がある。
問題は、
勝手に傷付いて落ち込んでいる自分にある。彼女はなにも悪くないのだ。信じている。信じたいと思う。そんな相手だからこそ執着する。
嫌だ、と思った。これまでの恋愛関係において、単純にそう思ったのははじめてだった。嫌、だ。思考のフィルターを介する前にそう思った。理由のつけられない感情が不可解で戸惑った。
嫌、というより、怖かったのかもしれない。そんな風に思える相手に出会えて、しあわせだと思った。しあわせだ。
「今日、二人に会えて良かったっす」
それだけ告げて、俺は残りの酒をあおった。三人はただ、笑っていた。
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2012.07.01
なァ、俺は?シカちゃん俺には感謝してねえの? って騒ぐキバ見えた。