なんとも言えない気分でふたりの新居へもどると、部屋にはもう、明かりが灯っていた。シカマルは先に帰っているらしい。
 父に無理矢理押しつけられた、私にはなんの意味ももたない紙のかたまりが、鞄のなかで存在を主張している。重量なんてたかが知れているはずなのに、やけに重たい。これ、たぶんシカマルに見つからないようにしたほうがいいよね。

 ドアの前、深呼吸をゆっくりして。
 扉に手をかけると、わざと明るい声を作って「ただいま」を言った。





-scene26 知らない部分-







 おかえりの挨拶をすませてすぐ、案の定彼女に問いかけられた。

「ところで、式の件だけど」
「ああ。勝手に独断で決めちまって悪ぃ」
「私はどっちでもいいんだよ」
 それより、うちの父がごめんなさい。

 失礼なことしちゃって、と項垂れる彼女の頭をそっと撫でる。俺は別にたいして気にしていない、こともないけど。とにかく大丈夫だからお前も気にすんな。

「親父さんの気持ち、分かるし」
「シカマル…」
「それに、俺もお前の白無垢姿とかドレスとか見てぇし、な」

 俺のその言葉に、ほんのりと染まった頬がかわいらしい。そんな顔を見られるのならば、やっぱり一度くらいはいつもと全然ちがうこいつの姿を堪能するのも悪くない、と思った。
 親父さんの威圧感に圧された結果だけど、けっきょくはこれで良かったのかもしれない。そう、思って彼女の頭をポン、となでたら、いつになく不可思議な瞳に見上げられて、心臓がぐっと詰まった。


「んだよ、その顔」
「いや」
「ほんとは嫌だった?」
「そうじゃなくて、」

 口ごもる彼女を見下ろせば、ほほえみの奥にひっそりと潜む不安な表情。
 そんな顔をしていたら、厭でも気づいてしまう。きっと俺が帰った後に、親父さんとの間で何かあったのに違いない。
 彼女は、そういう面では口が堅いのだけれど。


「何があった」
「べつに」

 素っ気なく答えながら、彼女は鞄のなかから煙草をとりだす。
 家で吸うところなんて一度もみたことがないから、微妙に違和感を感じた。もしかしたら相当なことを言われたのかもしれない。

「別にって顔じゃねえだろ」
「……」
「やっぱ反対されたか」
「そうじゃなくて、そうじゃないけど」
「けど?」
「……」
「別になに言われても驚かねえけど」

 そう言って髪をなでれば、しばらく沈黙がつづく。
 ちりちりと伸びていく灰と、ときおり彼女から吐き出される空気の揺らぎ。それ以外、なんの動きもない。濁った空気を出し入れすることで、彼女はいったいなにを考えているんだろう。
 俺も吸うか、と思ったころ。

「とにかく、何とかするから」

 そう言いながら彼女は煙を細く吐き出すと、煙草を揉み消した。この話はここで終わり、そういうことらしい。
 予定通りなら来週には入籍なんだけど、このまま進めてマジ大丈夫なのか?さっき親父さんとの別れ際にも感じた一抹の不安がシカマルの胸をふたたびよぎる。

「林檎」
「はい」
「隠し事はすんなよ?」

 夫婦になるんだから。そう続けてもう一度髪をくしゃりと撫でたら、彼女の表情がわずかに揺れた――







「天姫。相談があるんだけど」
「なに」
「というか、報告かな」

 いつもどおり天姫がお昼のケータリングに訪れたら、帰る間際に林檎に呼び止められた。入籍を数日後に控えたしあわせな表情にはとても見えない彼女の顔に、天姫はびっくりして声をひそめる。
 思い詰めた顔、してる。

「どうしたの」
「今夜時間取れない?」
「もちろん 無理にでも体あける」
「無理はしなくていいんだけど」
「何時?うちくる?」
「うん。じゃあ、19時半ごろ」

 分かった、待ってる。言い残して次の配達先へ向かいながら、天姫の心のなかはさっき一瞬見た彼女の暗い表情に占領される。
 奈良さんとの間になにかあったんだろうか、一昨日はあんなに仲睦まじかったのに。まさか、ね。







「急にごめんね」
「いらっしゃい、奈良さんは?」
「もうすこし残業するって」

 数日ぶりに訪れた天姫の部屋には、いい匂いがいっぱいに広がっていた。晩ご飯の香り。

「もしかして犬塚さんと会う予定だった?」
「毎日会ってるし、一日くらいいいよ」
「ごめん」
「なんなの今日は、謝ってばっかり」

 そう言ってあかるい顔で天姫が笑うから、すこしだけほっとして。鞄を足もとへおろすとソファにぺたり、と座り込む。

「ごはん食べてくでしょ」
「いいの?」
「もちろん」

 近づいてきた天姫の手には、ぬるめのミルクティがほんのりと湯気を立てていた。猫舌の私には理想の温度。彼女には、言葉がなくてもこういうことがちゃんと伝わっているのが心地いい。すこし、力が抜けた。やっぱり今日、ここへきて良かったな。

「ありがと」
「夕食準備してる間に、話まとめといて」

 無言のまま、こくり、頷いて ほのかにあたたかいミルクティを啜った。








「さすが林檎のお父様、って感じだね」
「さすがでも何でもないよ、あんなの」

 ただの横暴。箸を進めながら、天姫との会話を続ける。

「よっぽど余裕なかったんだろうな」
「婚約者を連れて行ったその日に別の男の見合い写真見せられた娘の気持ちはどうなるの」
「まあ、ねえ」
「わかってくれるでしょ」
「でもお父様も本気じゃないと思うよ」

 天姫の言葉を聞きながら、そっと箸を置く。本当にそうだろうか、そうかもしれない。自分の子供の幸せを一番に考える、という言葉には嘘などなかったと私も思う。
 だけど、あの父のことだから。真意はわからない。藪の中。
 わずか一割でも、たった1パーセントだけでも、彼のあの時の言動に本心が潜んでいなかったとは言い切れないのだから。大会社特有の人事が絡んだ姻戚関係云々なんて、私の知ったことではないけれど。
 それに、どちらにしろ私には「断る」という選択肢しかないのだ。父が何を言おうと、何をしようと、シカマルとの未来をあきらめる気なんてなかった。

「どうせ林檎 断るんでしょ」

 いつ断るの?と、あらかじめ決まり切ったことのように天姫に言い切られて、自分の考えを肯定されたように思えた。それどころか、彼女は上手に背中まで押してくれる。

「なんで分かったの?」
「長い付き合いですから」
「ごめん」
「そこ謝るとこじゃないでしょ」
「ごめ…」
「こら。また謝ってる」

 顔を見合せて天姫とふたり、ふふ、と笑い合えば肩の力はすっかり抜けた。
 自分でも気づかないうちにずいぶん力が入っていたらしい。それくらい、無意識でシカマルと一緒にいたいと思い詰めていたのだろうか。

 煎れてくれたお茶が、たぶんちょうど飲み頃だ。ごくり、喉を鳴らしてひとくち飲み下せばとたんに広がる爽やかな渋み。彼女の煎れてくれるお茶は、いつもおいしい。

「だったら悩むことないじゃない」
「だよ、ね?」
「そうだよ。あと、」

 そこで言葉を切って、彼女もひとくちお茶を含む。
 すう、と真面目になった目が私をまっすぐに見据えている。

「なに?」
「奈良さんには黙っとく事」
「…そうなの?」
「そうなの!」
「やっぱり」
「やっぱりってなに」
「天姫にそう言われる気がして、昨日と今日は ひとまず はぐらかしといた」

 そう答えながら、もう一口お茶をすする。無意識に力が入っていたのは、シカマルを騙している気分になっていたからなのかもしれない。

「あんたの抑止力は私か」
「だめ?」
「だめじゃないけど、まあいい判断 とだけ言っとく」
「なんで」
「は?」
「でも、なんで言っちゃだめなの」

 二度、問えば彼女の腕がテーブル越しにのびてきて。額を指先でぴん、と弾かれる。

「痛い」
「痛くしてんの」
「なんで」
「言わない方がいいに決まってるでしょ」

 どうせ断るなら、なおさら。そう続ける彼女をじっと見つめたまま首を傾げたら、ためいきを吐かれた。
 なんなのそれ。

「余計な情報で奈良さんをむだに翻弄するな、ってこと」
「でも夫婦になるんだから隠し事はナシだって、シカマルに言われたよ」

 そう言えば、ふたたび彼女からためいきとデコピンが飛んでくる。
 ほんとに痛い。

「嘘も方便、っていうでしょ」
「言うけど、でも」
「でもじゃない。あんたはさっさとその話断ってきなさい」
「…はい」
「そのあとは貝みたいに口を噤んでろ」
「……は、い」
「分かった?」

 分かりました、と小さく返して弾かれた額をなでる。絶対これ、赤くなってる。
 天姫 ほんと 力加減知らないんだから。


「今夜もっかい実家帰ろうかな」
「それがいいかも」

 きっぱりしっかり断る。そして黙る。だよ?

 ――きっぱりしっかり断る。
   そして黙る。

 暗示のように何度も何度もくりかえし聞かされて、私の頭のなかに天姫の言葉が染み付いた。
 きっぱりしっかり断る、そして黙る。きっぱりしっかり断る、そして、黙る――


 母とシカマルにメールして、彼女の家を出る。かえってきた二つの返信によれば、シカマルはまだ会社にいて父も帰宅していないらしい。
 とにかくこの見合い写真と釣書きだけでも自分の手元から早く離さなければならない気がして、私は実家への道を急いだ。
 まさか、すでに事態は遅かったなんて思いもせずに。







「……」
「どうすんだ、シカちゃん」
「どうもしねえよ」

 さっきから、ためいきばかりが出る。
 ためいきしか出ない。

「シカちゃんのためいき、数えとけば良かった」
「うるせ」


 ことの起こりは数時間前。
 定時をすこし過ぎて、たまたま林檎が席を外していた時のことだった。


「ショック」
「なにがだよキバ」
「天姫ちゃんにドタキャンされた。急用だって」
「たまには んな事もあんだろ」

 でも今日俺の好物作ってくれるつってたのに、あーあ。ためいきを吐いたキバが、俺の背中合せの席(つまりは林檎の席)に腰をおろしたそのときだ。椅子の上に不安定に置かれていた鞄が、どさり、鈍い音を立てて滑り落ちた。中に詰められた書類やポーチが、ばらばらに床に散らばる。

「あーーー」
「ったく、何やってんだよ」
「落とした」
「見りゃわかるっつうの」
「今日の俺、たぶん三隣亡だ」
「バカなこと言ってねえで 拾え」

 三隣亡ってなんなんだよ。お前どこまで建築に頭ンなか毒されてんだ。それ建築関係者の大凶日じゃねえか。その日に建築事を行うと三軒隣まで亡ぼす、ってか。どうでもいいけど俺まで道連れにすんじゃねえよ。心の中でシカマルがひとりごちていると、たまたま近くを通りかかったナルトが、四角い紙片をひとつ、こちらへ差し出した。

「あっちまで転がってたってばよ」
「さんきゅ」
「てかシカ、これって、あの」
「んだよ」

 手渡されたのは、硬い表紙に挟まれた薄い代物。よく、記念写真とかが挟まってるようなタイプのやつだ。見れば裏面の下のほうに小さく写真館の名前が刻印されている。

 これって、
 もしかして――

 いや、まさか。
 んなワケねえ、よな。ないない。


「お見合い写真じゃねえ?」
「……」

 シカマルのなかの嫌な予想をそのまま音にしたナルトは、事態を把握できていないせいなのか「誰の?見ていいってば?」なんて嬉しそうなトーンで言葉をつづけている。
 誰の、って。
 いま俺とキバが拾い集めているのは、誰の荷物だ。

 ――林檎の、だよな。

 ということは、どういうことなんだ。

 考えのまとまらないまま、シカマルはとりあえず手を動かして彼女の鞄に荷物をもどす。
 見てはいけないものを、勝手に見てしまったような罪悪感。
 その罪悪感をかんたんに払拭してしまいそうな、はんぱない焦燥感。
 そんな俺の気も知らずに、ナルトはその表紙を、そっとひらいた。

「わ!」

 硬い表紙の間から、うすっぺらい紙が一枚。ひらひらと足元にすべり落ちる。
 裏返ったままなのに、透けて見える表の文字が憎らしい。右端にでかでかと書かれていたのは「釣書」の二文字だった。それで、なおさらいやな予想が現実になる。
 なぜ。
 どうして彼女の鞄に、そんなものが入っているのだろうか。


「超イケメンだってば!」
「ナルト、黙れ」

 キバの制止でびくっと手をはなしたナルトから、その紙片をすばやく奪い取る。拾った釣書を挟んでそっと彼女の鞄へ戻すと、シカマルは無言のまま自分の席に戻った。こめかみがきりきりと痛んでいる。

 たぶんあとのことは、キバがなんとかしてくれんだろ。
 つうか俺、いま冷静になんかを考えんの、むり。

 やっと彼女の鞄をもとの状態に戻したころ、林檎が事務所にもどってきて。

「今日はお先に失礼しますね」
「お疲れさん林檎ちゃん」
「俺、もちっと残業してくわ」
「はい。お二人ともお疲れさまです」

 やわらかい声でそれだけ残すと、彼女は事務所をあとにする。
 その背中を見ても、シカマルはそれ以上なにも言えなかった――


 という訳で、ためいきに戻る。

「……」
「どうすんだ、シカちゃん」
「どうもしねえ」

 何度目かもわからないためいきを吐き出しながら、シカマルは眉間のしわをいっそう深めていた。

「たぶん今頃天姫ちゃんとこだろうけど」
「それか、実家かもな」
「昨日なにがあったんだ」

 彼女の実家行ったんだろ?と聞くキバに、苦笑をかえすことしかできない。
 挨拶して、うまく事を運べそうな気がしたのに、結局うまくいかなかった。式をするまで認めない、そう父親に突っぱねられて引き下がった。それだけ。
 そのあときっと、彼女にあの写真と釣書が押し付けられたのだろう。親父さんによって。俺の良くない予感は、ばっちり当たっていた。そしてよかれと思って、彼女は俺に隠していた。たぶん、ただ、それだけのことだ。
 それだけ。

「ま、言いたくなったら話せよ」
「さんきゅ」
「俺もこえぇな……」

 天姫ちゃんとこの親父さんってどんな人なんだろう。呟くキバに、返事を返す余裕もなかった。それくらいシカマルは戸惑っていた。

 いつもさらりと素直に感情を吐露する彼女が、見合いの一件は黙っていた。
 それには、どういう意味があるんだろう。


 俺は、実は、
 彼女のことを。

 まだ、なんにも知らないままなのかもしれない――


2012.06.27
三年ぶりにこんにちは。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -