眠ったら、醒めるかな
金髪がふたつ、午後のやわらかい陽射しに輝いていた。こちらに近付いて来る平子さんと吉良くん。この二人の組み合わせは、社内でもかなり目を引く。髪色のせいだけではない、どちらも端正な顔立ちに明晰な頭脳で、上層部からも一目置かれている"有望株"なのだ。
いつもならそこにもうひとつ、繊細な銀髪を揺らす頭が並んでいるはずなのに、と思いながら画面から顔をはなした。
「お疲れさまです」
「お疲れさん」
お決まりの挨拶を交わせば、次に降ってきたのは意味深な視線だった。物言いたげな彼らの姿に、作業中の図面を上書きして向き直る。
「聞きたいことあんねんけど」
「いま、少しだけ時間いいかな?」
構いませんよ。言いながら立ち上がり、条件反射で市丸さんの席を確認した。やはり不在だ、外回りにでも出かけたのだろうか。淡い銀髪に彩られた形のよい頭が見えないのを、寂しいと思っている自分に気付いて、ほんのすこし口元が緩む。
「ギンなら今、いいひんで」
「だからこそ僕らはここに来たんだ」
「そう、ですか」
「スタバでも行こか。時間いける?」
頷いて後輩に伝言を残す。彼らの聞きたいことは、きっと市丸さんのことに決まっている。プライベートをわざわざ他人に明かす趣味はないが、無理に隠すことでもないと思った。
エレベーターを降りた先、一階に入ったスタバにはいつ見ても人が溢れている。
「俺、いつものンな。君は?」
ラテ、と口にするとイヅルくんは黙って一人店内へ向かう。後を追おうとしたら、平子さんに腕を引かれた。
「イヅルに任しとったらええねん」
「…でも」
「テラス席でもええかな、寒いけど」
促されるまま外へ出ながら、平子さんは喫煙者だったと思い出した。席につくまえから、既に彼の手には煙草のパッケージが握られている。それでも私のために椅子を引いてくれる所は、どこか市丸さんに似ている気がした。
「で、どないなってんの」
シュボ、いい音をたてZippoから火が立ち上る。漂うオイルの香。深く息を吸い込んだ彼が、気持ち良さそうに煙を吐き出しながら問う。
「どう、と言われましても」
「アイツ、大変やろ?」
「……いいえ」
否定したのは、社交辞令でも嘘でもなんでもない。市丸さんを不思議に思うことはあっても、大変だと思ったことはなかった。それは本当だ。
「ほんまに奇特な子ォやな、自分」
「そうでしょうか」
「ああ。あんな訳分からんヤツのどこがええの?」
訳分からんの響きは、あたたかい。そうやって毒を吐きながらも、たぶん平子さんは市丸さんのことが好きなのだろう。
私は?好き嫌いの二元論で言えば、好きなのは間違いない。では、どこが好きなんだろうか。
顔はたしかに嫌いではない、あの強引さも、それを覆い隠すようなしなやかな仕草も、やわらかい声も訛りも好きだ。すらりとした長身、透けるような白い肌、透明感をさらに際立たせるつややかな銀の髪。でもそういう表面に現れたものを羅列するのは、どこか違う気がする。
見た目が好意の理由、というのならば、いま目の前で紫煙を燻らせている平子さんだって彼に劣らない。現に、近くを通り過ぎるOLたちの視線がちらちらと彼に絡みついているし。
何と答えるのが適当なのかな、と迷っていたらトレイを手にイヅルくんが現れた。
「もう始めちゃってるんですか」
「まだなーんも聞き出せてへんで」
斜め前に腰をおろした彼からラテのカップを受け取れば、さらに道行く女性たちの視線がこちらへ集まっている気がした。普段はあまり意識しないけれど、イヅルくんも非の打ち所のない容姿をしているから。
「ギンのどこがええの、って聞いててん。なァ?」
「はい」
「それよりも君、ホントに市丸課長と付き合ってるのかい?」
「おいおいイヅル、えらい直球やな」
「平子さんも気になりませんか」
「そら、気になるからこうしてわざわざ茶ァしばきに来とるんやんけ」
「でしょう」
「アイツがあんなんなるんは初めてのことやからなァ」
「はじめて…?」
聞き返した私に向かって、平子さんはニヤリと口の端を歪める。
「ああ。まるで初恋に落ちた中学生みたい、言うんかな」
「女誑しの欠片があの人から微塵もなくなるのは、初めてなんだ」
たしかに、近づいてみれば市丸さんは予想よりずっと子供っぽい所のある人だった。社で一番の女誑しの割には純粋で、そのくせやっぱり掴みどころのない空気を漂わせている。そんな、不思議な人。
「俺とこ来ていっつも君の話ばっかりすんねん」
「で、どうなんだい。本当に付き合ってるの?」
「…たぶん」
「なんやアイツまだはっきり言うてへんの?」
「いえ、告白は何度も。ただ誰にでもおっしゃってますから」
あまり深入りするつもりはない。自惚れる気もない。どんなに近づいても、自分が彼のことを理解できると思うのは間違いだ。ただ、それでも市丸さんとの時間は心地よくて、一緒にいられれば嬉しいのは事実。
「他の子ォらに使てる色目とおんなしや思てんのなら、それはちゃうで」
ごくり、嚥下したあたたかいラテが咽喉の奥に染みる。平子さんの無造作な言葉と一緒にじわじわと。
「どっちでもいいです」
「まあ、そういう君やからアイツも本気になってんやろけど」
「変わらないところがイイらしいよ」
イヅルくんの言葉の意味がわからなくて、首を捻った。
「変わらない所?」
「ああ。付き合うても態度変わらへんのが堪らんねんて」
「毎度まいどのろけっぱなしなんだ」
市丸課長のあんなトコは、僕も見たことないよ。
「付き合うてる女の話なんてせえへん男やからな」
「ええ」
「そんな奴が君のことだけはちゃうらしい。やっぱ悪うない、悪うないっていっつも煩いねん」
「市丸さん、そんなこと言ってるんですか」
さらりと流しながら、胸の奥がかすかにむず痒い。嬉しい。
「ほんまに付き合うてんねんな」
「余り実感はありませんけど」
「ギンのノロケ聞かされんのはうんざりやねんけど、しゃーないか」
会話を遮るように平子さんの携帯がなって、私たちは各々飲みかけのカップを手に立ち上がった。
エントランスでエレベーターを待っていたら、聞こえてくる耳慣れた声。
「ボクを仲間ハズレにして、三人で何しててん」
「見たら分かるやんけ」
「狡いわ」
「ガキみたいなこと言いなや」
ちょうど外から戻ったばかりらしい市丸さんと鉢合わせた。偶然というのは、奇妙なものだ。
「上に来客らしいから、俺先 戻るわ」
「僕も。君は市丸課長に付き合ってあげなよ」
荷物、持って上がります。市丸さんの手からイヅルくんが鞄を受け取る。
「おおきに」
「いえ、ごゆっくり」
慌ただしく立ち去る二人を見送って、市丸さんと店内へ向かった。
さきに席へ座り、レジに並ぶ市丸さんを観察する。綺麗な姿勢だと見惚れていたら、目が合って。
細い目の奥の深紅に、ざわり、胸の奥が騒いだ。
◆
早く彼女に会いたいなと思いながら社に戻ると、エレベーター前でキミを見つけた。それだけで餓鬼みたいにドキドキして、偶然を神様に感謝したくなる。
近くに真子とイヅルがいたのは気に喰わないが、それでも予想より早く彼女に会えたことが素直に嬉しかった。
「珍し事もあるんやね、キミがあの二人と一緒にいてるやなんて」
「そう……ですね」
「なんの話してたん?ボクに内緒で」
買ったばかりのコーヒーはまだ熱くて、カップをそっとテーブルにおろす。片手でネクタイをゆるめる仕草に、彼女の視線が注がれている。やわらかくて、心地良い眼差し。
「市丸さんの話、です」
「ボクの?悪口言われる覚えはないんになあ」
「違いますよ。探りを入れられただけで」
「探り?」
「お二人とも、市丸さんのことがお好きなんですね」
そう言って、キミはまたふわり、微笑む。その表情に、ぎゅうっと心臓を握り潰された気がした。
恋をする。惚れるって、こういうことやってんね。キミに会うて初めて思い知らされた気ィする。
「ほんなら、キミは?」
「え…?」
「キミはボクのことどない思てんの」
ほんまはキミがどない思てるかなんて関係あらへん、何よりボクがキミと一緒におりたいだけやねん。せやのに、問いを口にしてしもたら、どうしても答えを聞きたなった。嫌われてへんて分かっとるんに、どうしてもその口で「好きや」て言わせたなった。
「昼間から、何をおっしゃってるんですか?」
「なにて…ボクのこと好きか嫌いか」
「聞かなくてもご存じでしょう?」
簡単には言うてくれへんて分かっててんけど。予想通り過ぎて笑てまう。そないな所も好きなんやけど。
「……何時まで仕事やの?」
「残業一時間ってトコですね」
ここでこうしてたら、その分だけ遅くなりますが。
「その後の時間、ボクにくれへん?」
「…なぜ」
「昼間言われへんのやったら、夜言うてもらお思て」
「………」
「キミのボクへの気持ち」
さっさと上、戻ろか。二人の夜が減ってしもたら嫌やから。一口だけコーヒーに口をつけて、二つのカップを持つと立ち上がった。
◆
理屈やない。自分の内側から溢れてくる感情に、どうしようもなく流される。
欲しい、キミが。キミだけが欲しい。それが恋をするってことなら、真子の言う通り、たぶんこれがボクにとっての初恋なんやろね。
そやから、思い切り大事にしよ思てた。ぎょうさん時間かけて、たっぷり愛したろ思てたんに。
キミが、悪いんやで。
「キツいなあ、力抜き」
「……ムリ」
「そないぎゅうぎゅう締め付けんでも、ボクはもう」
「……っ」
「とっくにぜーんぶキミのモンやで」
「う、そ」
「嘘とちゃう、ほんまや」
これからソレ、分からしてあげるから…覚悟し。息を細く抜きながら耳元に囁く。長い指を髪に絡ませる。やさしく。
「市丸、さ…」
「市丸さんやのうて、名前」
「………」
「ボクの名前、言われへんの?」
ほんならココでやめてしまうよ。ニヤリ、唇を歪めた。
少しくらい意地悪してもええと思うねん。だってキミ、まだ一度もボクに「好きや」て言うてくれへんから。
腰の動きをぴたり、とめたままで眼を開く。ボクの下で顔を切なげに歪めるキミはホンマに綺麗で、ちいさく震える唇も、薄く眉間に浮かぶシワも、濡れた睫毛も、ひとつ残らず網膜に刻みつけたかった。
上気した頬も、真っ白な肌も全部ボクのモンにしたかった。
「言われへんのなら、お仕置きや」
「……っ!」
ゆるゆると身体をずらして、繋がっている部分を少しずつ浅くする。粘膜の擦れる感触に心を持って行かれそうになりながら、欲望をわずかに上回る加虐心に従って、じわり、じわり密着度を下げてゆく。
「ええの、止めてしもても」
「………」
「昼間聞いたことも、まだ答えてもろてへんしなァ」
さっきまでさんざん唇を合わせて、触れ合って、その反応で十分キミの気持ちはわかってるんに、ボクもほんまに意地悪が染み付いてるみたいや。
切なく顔が歪むたび、もっと虐めたなる。吐息が甘さを増すたびに、もっと焦らしてやりたなる。こんな男で堪忍な。
「…市丸さ」
「なんや、ボクの言葉聞こえへんの」
「いじ わ、る」
「せや。知らんかった?」
好きな子には意地悪したなるモンやん。だから全部、キミのせい。さっさとボクの名前呼んだらええんに。さっさと好きやて言えばええ。そしたら、キミがもうええって言うほど愛したるんに。
なかなか言うてくれへんキミの方が、よっぽど意地悪なん違う?と思った瞬間に、ぎゅうっと粘膜が絡みついて。
「ギ…ン」
甘く溶けそうな自分の名前。そんな掠れた声で、そんな愛おしげな顔で、名前呼ぶなんて反則や。
「っ、…!」
自分が呼ばせたくせに、彼女の唇から零れる声は想像してたよりもずっとずっと甘くて、おそろしいほどに優しくて。そんな風に呼ばれたら、ホンマに頭おかしなる。
そう思てきつう目ェ閉じたら、首筋に縋り付く細い手が、ボクの頭をゆっくりと引き寄せた。
「嫌いな人とは、こんなことしない」
ギン。再び耳たぶを撫でるやわらかい声に、余裕なんて一瞬で弾けとぶ。お仕置きて、なに。もしかしてボクの方がお仕置きされてたんやろか。
「だから、」
「ん?」
「早く、わからせて」
ギンが全部、私のものだって。耳たぶを甘く噛む歯の痛みに、なぜか胸がじくじくと痛くなる。浅く繋がった身体の、ずっとずっと奥の方が、熱くてたまらない。
「…ギン」
もうアカン。
これ以上我慢するんなんて無理や。
「ボク…しつこいよ、」
「知って…る」
「……覚悟しててや」
最後の強がりな台詞を必死で吐き出して、一気に奥を穿つ。
頭の芯がじんじんと痺れそうなほど愛おしくて、欲しくて欲しくて、彼女のなかに溶けてしまいたくて。身を捩る彼女をそっと、でも、しっかりと抱き締める。
「一緒に溶けよな」
相槌は吐息。吐き気のしそうな愛おしさに翻弄されるのを愉しみながら、どくどくと脈打つ本能に身を任せた。
◆
何度抱かれたのだろう、何度揺さぶられたんだろう。あの甘い声でいったい何度、名前を呼ばれた?
見慣れない濃緋色の瞳に捉えられるたび、心臓のど真ん中を貫かれる気がした。自分がいつの間にこんなに彼を好きになっていたのかと、驚くことしかできなかった。
重たい腰をさすりながら、それでも幸せな気持ちで身体を起こす。
隣では朝の光を浴びたギンがちいさな寝息をたてていた。
「おはよ、ギン」
口に出せばびっくりするほどに掠れた自分の声。そういえば、喉がからからだ。昨夜から一滴も水分をとっていないうえに、ずいぶんこの男に鳴かされたから。
飲み物を求めて立ち上がろうとしたら、強く腰を引き寄せられた。振り返れば、ギンは相変わらずちいさく口をあけたまま、寝息をたてている。
寝ぼけてしがみつくなんて、まるで無邪気な子供みたい。思いながら微笑んで、陽に透ける髪を梳く。
子供のような顔をして、なにもかも知り尽くした大人の仕草で女を抱く人。壊れ物を扱うように、大切に大切に、私に触れる人。あなたのことを、好きにならないはずないでしょう。
ふ、とため息を吐き出して、薄い色の睫毛に、そっとくちびるを押し当てる。震える眼球のちいさなうごきに、愛おしさが込み上げる。
――可愛いヒト。
声にせず心のなかで呟いた瞬間、ぱちり、ひらいた深紅に捉えられて、呼吸が止まった。
眠ったら、醒めるかな寝てへんよ。ボクのこと誘てんの? まだボクの全部がキミのモンやって伝わってへんのなら、いくらでも教えたげる。