取扱説明書
「やっぱり、悪ないなあ」
「ギン。お前…」
にや、と気味悪く笑うギンを見ながら、声を出しかけて飲み込んだ。俺の隣ではイヅルが呆れ果てたため息をこぼす。
我が道を行くギンに、呆れる俺とイヅル。最近の定番になった事務所での光景は、気の抜けた炭酸水のような甘ったるくてぼんやりした幸せに満ちている。
「ええなあ、ほんまに」
「………」
「ほんまええわ」
壊れたレコードよろしく同じ台詞を繰り返すギンは、目を細め両手で顎を支えている。だらしなくゆるんだ視線の先には例の彼女。
"ボクはいまあの子に全力で見惚れています"そう、顔に油性マジックで描かれたみたいな色男の姿は、渇いた笑いを誘う。これまでのコイツを知っとる人間なら、呆れてもしゃあないと思う。
「ああ、こっち見ィひんかな」
「………」
「真子の席なら、こないよう見えるんやね。ボクとこからは死角やから」
「まあな」
「羨まし。席、変わりたいなあ。立ち上がって背伸びせな彼女の姿見えへん席なんて、最悪やん」
ため息をつきながら「ほんまに最悪」と繰り返すギンを見ていたら、突っ込み入れるのも馬鹿馬鹿しいような気もしてくるのだが、ここはアレだ。性(さが)というか、業というか。
「おいおいおい、お前アホか」
「社長、席替えしよか 言い出さへんかなあ。ちょっと言うてみよか」
「なに言うねん」
「たまにデスク配置を換えたら、社内の空気が変わって より社員の精神が活性化されると思います、て」
「そんなんお前だけじゃ!」
「せやろか?」
「しかも活性化されんのは仕事欲とちゃうやんけ」
「みなまで言わんかったら社長には分からへんし、ええやろ。あの人"活性化"いう言葉に弱いからきっと喜んで乗ってくる、思うねん。そないなったらずーっと彼女のこと見てられるから絶対いまよりやる気出るんやけどなあ。でも彼女の姿見えたら手ェ止まってしもてアカンかな、いやその分短い時間で集中したらええんや。仕事ちゃんとしぃひんかったらイヅルが煩いしなァ」
ほんまどこに頭使てんのや、こいつは。恋する中学生みたいなギンの言葉に、一度飲み込んだはずの台詞が、ぽろり、こぼれた。
「顔がキモいっちゅうねん。ここ会社やど、もっとビシッとせんかい!」
「……あー、横顔もええなあ…彼女」
「聞けや、ボケ!」
「あのシャツの色、彼女によう似合てると思わへん?」
「………」
「キツイ目付きも堪らんし、ボクに色目使ってけえへんのがまた」
次々とこぼれるギンの言葉は、全部彼女に関することばっかり。俺とイヅルの砂を噛むような表情も空気も、まったく読む気ィあれへんらしい。砂っちゅうより、甘過ぎる砂糖の固まりをジャリジャリ噛まされてる気分やな。これは。
「アカンな、もう」
「ですね」
「馬に蹴られて死んでまえ、ドアホ」
「……同感、です。でも厳密に言えばそれは逆のイミでは?"人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて…"と言いますし」
「そんな細かいこと言いなやイヅル」
「まあどちらにせよ、ため息のこぼれる光景には違いないですね」
「ああ。市丸ギンは初恋でアホになってもた、言うことやな」
イヅルとふたりでため息をこぼすのも、いつからかすっかりお決まりのパターンになっている。
せやけど、次から次へと女を変えてるよりは幾らかマシなんかもしれへんな。まだ健全な気ィする。
「ん…?真子、なんか言うた?」
相変わらず目ェ細めたまま、視線は彼女にくぎづけ。まあ、ギンは最初から開いてんのか閉じてんのか分からんような目ェしとるけど。
「ノロけんのは付き合うてからにせぇって、この前言うたとこやろ」
「ああ、そんなこと」
「せやから、黙れ」
「付き合うてるよ」
「ほんまか?」
「ほんまや。なんでボクが嘘つくん」
ちょっと待て、ギン。お前はそんなに人に信用されるような人間か?どっちか言うたら、嘘の割合の方が人生の大半を占めとるオトコのくせに、なにを白々しいこと言うてんねん。
「そら、おめでとうさん」
「おおきに」
ほんまかいな、と思いながらイヅルと顔を見合わせた。
「あんな、聞いてくれる?」
「いやや」
「そんな意地悪言わんと」
「お前に優しいしたないわ」
「えー?真子は優しいで」
「は?お前が俺の何を知っとんねん」
「知ってるよ」
「しゃーから、何をや」
「わざわざ休日返上で部下の仕事チェックに来るくらい優しい上司や、て」
「うっさいんじゃ。黙れハゲ」
「あー……ごめんごめん。あれは上司やから、とは、ちゃうか」
不覚にも俺は、自ら墓穴を掘ったらしい。気付いた時にはもう遅かった。
「部下の仕事、やなくて、相手がキミやったから、やもんなァ」
急に向きを変えたギンが、俺のアシスタントの頭を撫でながら不敵な笑みを浮かべる。自分の話聞いて貰われへんかったからって、矛先を変えんなアホ。ちゅうか、気安うヒトの女に触んな。
「市丸さ…」
「あれから真子に、ちゃーんと可愛がってもろた?」
「あ、あの」
「誰かサンがまだぐずぐずしとるんなら、ボクのもんになる?」
「……いえ。大丈夫、です」
「へぇー…、思たよりは行動力あるんやねェ」
「……っ!」
「平・子・サン、も」
顔が近い。近すぎる。その手で彼女の頬を撫でんな。そいつは俺のンや、エエ加減に離れェボケ。
助けてくれと無言の視線を送ってくる彼女の顔を見たら、態度を変えるしかなくなった。なんやめっちゃ悔しいけど、ギンの作戦勝ちや。
「わかった分かった、ギン。話聞いたるから」
「ほんま?」
「ああ、はよ話せ」
「なんや、やっぱり真子かてほんまはボクの秘密知りたいんやろ?」
「……知りたないわ」
「相変わらず嘘つきやねえ、真子は」
知りたいなら知りたいて言うたらええのに。気持ち悪い表情のままで、俺とイヅルに向き直る銀髪に盛大なため息がもれる。
「イヅルも聞きたいやんなァ?」
「は、はい。勿論 です」
「せやろ、せやろ」
満面の笑みを浮かべる狐面を殴り倒したくなった瞬間、脇から湯気の立つカップが三つ差し出された。
「どうぞ。私は少し席を外します」
「ああ、おおきに」
「ごゆっくり」
やっぱり俺の彼女は気ィ利くなあ。そういう所も、好きなんや。
というよりこれから始まるギンの話は、多分あんまり彼女には聞かせたない種類のモンや。離れて行く背を見ながら、あいつが空気の読める女でほんま良かったと思た。
「で……なんやねん」
「昨日な。はじめてしてん」
シた?シたって何や、もしかしてアレか。もしかせんでもアレやわなァ。
「はやっ!」
つい数日前まで付き合うてもいいひんかったのに、もうそんなトコまで行ってんのか。
「ちゅうか、生々しいからわざわざそんなん言うな」
「せやかて嬉しかってんもん」
やっぱお前は信用ならん男やな、手ェ早いのもほどほどにせえよ。嬉しいからて人に言うか?普通は言わへんやろ。
「彼女の名誉にも関わるやんけ」
「なんで?真子てそない奥手やった?意外やなあ」
「誰もかもお前とおんなしちゃうわ」
「でも、気持ち良かってん」
「…黙れ」
「心臓止まるか思たんは久々や」
まだ言うか、この万年狐面の脳内お花畑変態ドS野郎。男と女のそういう境界線は、ひそやかに越えるからええモンなんや。別に手ェ早いのはどうでもええけど、頼むからここで言うなハゲ。
「せやから生々しいっちゅうねん」
「真子て案外、潔癖症やってんねェ」
「潔癖症とかどうでもええねん、お前のエロ話なんていらんわ」
「エロ話て、なに?」
何をまた白々しい表情しとんねん!彼女とシた、言うたんはお前やろ。
「シてんやろ?」
「たしかに、したけど」
「ほなエロ話やんけ、なあイヅル」
「はあ…まあ。一般的に異性と致した話はエロスの範疇に入ると」
「ほら見てみィ、イヅルも同意見や」
一瞬の沈黙のあと、三人同時にコーヒーを啜る。まだ温かい液体が、喉の奥を優しく撫でて滑り落ちた。
「ボクと彼女がしたんは……ほっぺにチュウ、やで」
「は?」
「ほ っ ぺ に チ ュ ウ」
「………」
「ぷにぷにでどないしよか思た」
では、先程からギンが聞いてくれと意気込んでいたのは、そんなことだったのだろうか。イイ歳をした大人の男が、わざわざ得意げに報告することとは思えず、耳を疑う。きっと聞き間違いだ、そうに決まっている。
「……なん、やて?」
「やっとな。あのやわらかいほっぺたにチュウ出来てん」
「…………」
「これで付き合うてないなんて、真子にも言わせへんで」
「…………」
「もうノロけても文句ないやろ?だってボクと彼女は、ほっぺにチュウする仲やから」
そない何度も"ほっぺにチュウ"て繰り返すな。聞いてるこっちが恥ずかしいわ。ちゅうか、ほっぺにチュウしたぐらいでそんなに舞い上がんなや。ニヤけんな。お前はどんな女でも百発百中で落とす男、我が社一番の女誑し市丸ギンちゃうんか?
「やっぱり惚れた女の子に触れるんはドキドキするなァ」
「はあ」
「イヅル、女の子と手ェ繋ぐんは清水の舞台からダイブ級やとか前に言うてたやろ」
「はい、まあ」
「聞いたときは笑たけど、あながち間違うてへんねェ」
「そう…ですか」
「ああ。あのドキドキは堪らん、なんやむず痒うなるわ。なあ、真子」
「なれへんわ、ボケ!」
前言撤回。やっぱお前は中学生や!中2男子の典型や。どんな女も簡単に口説き落とす魔性の色男市丸ギンは死んだんや。
「おい、ギン。お前なァ」
「ちょい待ち、真子」
「なんやねん」
「彼女と目ェ合うてん。こっち来る」
厭味のひとつも言うてやろうと思たのに、ギンのターゲット張本人が近付いたことで無理やり言葉を遮られた。
「市丸さん。またここにいらっしゃったんですね」
「ボクのこと探してくれたん?」
「仕方無く、です」
「そない照れんでもええのに」
「照れてません。ふざけないで下さいますか」
「ふざけてへんよ。でもキミがどうしてもボクのふざけてるトコ見たい言うなら、ふざけたってもええけど」
「 ……」
「真子、ちょっと漫才付き合うて!」
ボクがボケるから、真子はツッコミ担当な。
「結構ですから、一生ふざけないで下さい」
俺が「アホか」言う前に、ぴしりと厳しい口調で一蹴されたというのに、ギンは相変わらずニヤニヤしている。なんやこの光景。
「先日の書類にミスがありまして」
「あーアレやったんイヅルやから」
堪忍な、よう言うて聞かすさかい。
「いい加減にして下さい。イヅルくんは関係ありません」
「おーこわ」
可愛いらし顔が台なしやで。ギンの甘ったるい猫撫で声にも、彼女は表情ひとつ変えない。
「私がお願いしたのは、市丸さんに、です」
「キミのお願いやったらなーんでも聞いたりたいねんけど」
「では、さっさと訂正願います」
持参した書類をぱさり、無造作にデスクへ置く仕草は、しなやかだ。キツイ声ではない、むしろ柔らかいのに、淡々と紡がれる言葉。ここまできっぱりギンに言えんのも、たいしたモンやなァ。気持ちエエわ。
「30分以内にお願いします、では」
用件だけ告げて立ち去る彼女の背を飽きもせず眺めるギンには、全く反省の色が見えない。それどころかますます口元が緩んでいる。
「な。付き合うても、あの通りで全然態度変わらへんねん」
「そうみたいやな」
「あんな女の子、初めてや。悪うないわ、やっぱり」
「はいはい」
「媚びひん子て、ええよなァ」
「もうわかったから。で、エエんか?ここで油売ってても」
デスクに置かれた書類を持ち上げ、ひらひらとギンの目の前でちらつかせれば、途端に顔色を変える。
「イヅル!アカンやろ、間違うたら。彼女に迷惑掛けなや」
「え!?僕…ですか」
「当たり前やん」
「えええ゙ーー……」
「ほら、席戻ってさっさと直すで」
彼女をこれ以上困らせたらアカン。
偉そうなこと言うてるけど、全部お前のせいやんけ。イヅルも災難やなあ。そうやって肩を落とす姿ばっかり板について、可哀相に。
「ほな、またな真子」
「もう当分来んなやハゲ」
席に戻るふたりを見送って、何気なく視線を流した先。さっきまでの醒めた表情とは余りに違う顔で、彼女はギンを見つめながら、笑いを噛み殺していた。
取扱説明書ギンの扱い方を一番よう分かってんのは、どうも彼女らしい。