よしなに

 ふたり残された事務所は静かで、休日特有のいつもとは違う空気が流れていた。さっき額に唇をおとしたせいで、心臓の音がやけに大きく響いている。
 ええ歳した大人が、なんでこんな事で動揺しとんねん。
 自分にツッコミを入れてみても、たいした効果はなかった。

「ほんまに何もされてへんのんか」
「かろうじて」

 俺の行動は本当に正しかったんだろうか、彼女はそれを望んでいた?今更弱気になった所でやってしまった行為は元に戻せないのだけれど。昨日まではただの上司と部下だった関係が、今、変わろうとしていることは確かで。その証拠に、ただのアシスタントらしくない表情の彼女は、しっかり俺の腕のなかにいた。
 成り行き。ギンから彼女を救うという成り行きの裏には、俺の意志があって。だったら、従順に華奢な身体を委ねている彼女にも、きっと何らかの意志があるはずだ。好意的な。
 ギンの気配が完全に消えるのを待って、もう一度彼女をぎゅっと抱き寄せる。

「間に合うてよかった」

 ため息まじりにこぼれた声は、自分でも笑えるほどに頼りなく聞こえた。
 天下の平子真子が、なにこん位のことでびびっとんねん。ちんまい男やなァ、俺。自分を鼓舞しながら、更に変な笑いが込み上げる。相手はたかがひとりの男―市丸ギン―やのに、一瞬遅れたら取り返しのつかへんことになるんちゃうかと思た。

「アイツ、この前からやたらお前のこと気にしよったから」

 俺は鈍い方ではないから、彼女の視線がずっと前から自分に注がれていることには気付いていた。だから、安心していたはずなのに。さっきの事務所に流れていた空気は、とても安心できるようなものではなくて。ふたりがどうにかなるかもしれん。そんなん想像したら、堪らんかった。あんな空気見せられたら、いつもみたいに余裕かますことなんて出来ひん。
 人間の感情は、些細なことで大きく変わる。それを知っているから、柄にもなく必死になった。それが、なによりも怖い、と思った。

「悪い予感て当たんねんなァ」

 腕のなかに彼女を納めたまま、もう一度深いふかいため息。小さく揺れる身体から、伝わる鼓動に、自分の心臓までざわざわと騒いでいる。彼女をどれだけ好きなのか、不覚にも思い知らされる。
 ほんまに、間に合うて良かった。

「…助かり、ました。平子さん」
「おう。気にせんとって」

 少しだけ身体を離して、顔を覗き込む。彼女が小さく息を飲んだのがわかった。ほんのりと上気した頬は、俺のせいなのか。それともさっきまでここにいたアイツのせい?

「お前のため言うより、むしろ、俺のためやし」
「え?」

 問い返す彼女に、ニッと歯を見せて笑う。思いきりカラ元気なのは自覚している。そして、少し意地悪な気持ちになっているのが何故か、ということも。

「せやけど、ほんまは助けへんほうがよかったんちゃう?」
「な!そんなこと…」
「あいつに詰め寄られて、うっとりしとるように見えてんけど」
「錯覚……です」

 虐めたい気持ちが半分、かまかけて安心したい気持ちが半分。
 実際にさっきの彼女の表情には、怯えと期待が同居しているように見えたから。もし違うのなら、もっと強く否定してくれればイイのに。俺の嫉妬心も不安も、消し去ってしまう位に強く。つよく。

「ほんまか」
「ホント、です」
「そんなら、証拠見せてーや」
「しょう、こ…ですか」
「せや」

 もういちど、ニッと笑ったら、ふるえる掌で瞳を塞がれた。ほんのりと冷たい体温。
 条件反射で閉じた唇に、彼女の吐息がふわり。

「なんやねん急に、」

 どないしたん。言おうとしたら、それより先に唇をふさがれた。壊れ物にふれるような優しいやさしいキス。

「唾、つけました」
「……っ」

 思ったより大胆なことすんねんな、とか、俺の男としての立場はどないなんねん、とか、頭の隅っこでは下らないことを考えながら、離れていったばかりの唇の感触が愛おしくて。
 まだ眼を覆っているちいさな掌を、引き剥がす。
 たぶん彼女らしくない大胆さは、なによりも彼女が本気であることの証明だから。

「今度はちゃんと顔見せてェや」

 潤んだ瞳と、しっかり視線を絡めたまま、そっとそっと唇を重ねる。
 人気のない事務所、気の利かない電話のベルが遠くとおくで聞こえていた。



しなに

本気にしてもええんやな?

 アカンて言われても、もう後戻りする気ィなんてさらさらあれへんけど。
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