ここは夢路の交差点

「せやからあの料亭に届けにきて。イヅル、場所覚えてるやろ?」

 休日の午前中。まだベッドでまどろんでいたら、電話の音に起こされた。僕は案外マメな性格で、呼び出し音をグループ分けしている(神経質とは違うから、そこの所は間違わないで欲しい)。鳴り響いたのは、仕事関係者からのそれ。
 ウィークディが忙しい分、休みにはゆっくりカラダをやすめる主義なのに。休みの朝を、仕事の電話で起こされるなんて最悪だ。
 寝ぼけ眼で相手もろくに確認せずに通話ボタンを押せば、堰をきったように流れ込む京訛り。

 ――市丸課長…。

 ごめんな。で始まるお願いには、あまり良い思い出はないし、寝ぼけて聞き漏らしましたなんて言い訳の通る相手じゃないから、緩んでいた頭を、一気に覚醒させた。

「ほんま悪いなあ。せやけど頼まれてくれへん?」

 だいたいいつも、市丸課長は横暴だ。唐突で強引でわがままで。上司と部下の間柄にすぎないのだから、こんな頼みならいくらでも断ればイイ。なのにそれが出来ないのはきっと、ビジネスライクな関係以外のところに、不思議な魅力を感じているせいなのだろう。
 彼は親しげにずかずかと他人の領域へ踏み込んでくるかと思えば、自分の中枢には人を寄せ付けない。なのに、近寄って世話をやいてしまいたくなる可愛いげを併せ持つ人。親しく付き合って数年が経つ僕でも、戸惑う部分だらけ。
 ひとことで言うならば、得体の知れないオトコ。あれも一種のカリスマ性ってヤツなんだろうか。

「でも、僕…今日は」

 考え事をしながら手帳をめくり、スケジュールを確認する。約束は2時、いまの時刻が11時少し過ぎ。
 急いで準備して、会社へ寄って、あの料亭まで向かっていたら、確実に待ち合わせには遅刻だ。

「お昼ゆっくり食べてるから。出来るだけはよう持ってきてな」
「いや、だから」
「イヅル、会社行く言うてたやん。ついでやし、ええやろ」

 ほなあとでな。
 言いたいことだけ言って、電話は切れていた。全く、市丸課長にも困ったものだ。
 一応、僕にもプライベートはあるし、今日の予定はただの予定ではない。やっと、念願の一期下の彼女と映画を観にいく約束をとりつけたばかりなのだ。
 彼女とは言っても付き合っているわけではない。ゆくゆくはそんな関係になれたら良いなとは思うけれど。
 そういう、僕にとってはかなり気合いの入った約束事が控えているのにも、市丸課長はお構いなしらしい。

「…ま、仕方ないか。市丸さんだし」

 詳細を伝えている訳でもないし、絶対あの人には伝えたくないけどね。独り言を呟いて起き上がる。それよりも気になるのは、持って来いと指示されたものの方だ。正確に言うなら、指示されたものの持ち主のこと。
 市丸課長がさらりと口にしたのは、僕の同期の女性の名前だった。あまり異性との付き合いが得意ではない僕が、唯一プライベートでも懇意にしている同期女性。そして、僕がこれから会う年下の彼女と同部署の直属の先輩でもある。

「な。彼女の携帯電話、デスクからあの店に持って来て」

「は…?」
「しっかりしてるみたいに見えてて、彼女て案外うっかりサンなんやねぇ」
「…あの」
「そういうとこもかわいらしいけど」

 その名を、まさかいま市丸課長の口から聞くとは思わず、最初は冗談かと思った。ふたりに接点なんてあっただろうか?
 くつくつと笑う市丸課長の後ろに、誰かがいる気配がした。あれは彼女、なのかもしれない。
 それにしても、少し前から平子さんのアシスタントにご執心の様子だったのに。節操がないというか、なんというか、どこまでも自由な人だ。そういう所は、少し羨ましい。

 コーヒーをセットして、約束相手にメールを送る。彼女とはまだ、アドレスしか交換していない。
 パジャマの上を脱いだ半裸の状態で、煎れたてのコーヒーをカップに注いでいたら、耳慣れない着信音が響いた。この音、未登録の番号だ。

「もしもし」

 休日の午前中にしてはやけに電話のよく鳴る日だな、珍しい。首を傾げながら電話をとれば、いま一番聞きたかった声。

「メールより電話のほうが早いかと」

「……な!」
「突然お電話して、すみません」

 可愛い声が耳のすぐ横で響くから、心臓はバクバクと騒ぎ出す。僕はまだ、夢を見ているんじゃないだろうか。さっきの市丸課長の電話も夢で、いまのこれも夢。彼女は僕の番号を知らないはずだし、耳元でその声を堪能できるなんて幸せが、そうそう簡単に現実になる訳はない。
 でも、それにしては全てがやけにリアルだ。部屋にはコーヒーのいい香りが漂っているし、見るものすべてに色がついている。
 昔、何かの本で読んだことがある。色付きの夢を見る人は、精神的に少し、こう、なんというか、歪んでいる…と。僕がもし歪んでいるのだとしたら、きっとその何割かは、市丸課長のせいに違いない。

「あの……吉良さん、吉良イヅルさんの携帯ですよね?」

「…おわ!熱ッ」

 ぼんやりしているうちにカップからあふれた液体はテーブルを伝って、フローリングの上の素足へ流れ落ちていた。熱い、本気で熱かった。ということは、これは夢じゃ……ない?

「大丈夫ですか?」

「あ…ああ。ちょっと驚いて、コーヒーこぼしただけだから」
「かけ直しましょうか。冷やしてください」

 たいしたことないよ。言いながら、近くにあったタオルで無惨な液体を拭った。

「で…なぜ君が僕の番号を?」
「ずいぶん前に先輩から……っあ!」

 いま、たしかに聞こえた。ずいぶん前、と言ったね。それって、僕は自惚れてもイイということだろうか。何かと理由を付けては同期の彼女の席に近づいていたのも、無駄じゃなかったってこと?

「嬉しいよ。メールでは説明しづらいな、と思ってたから」

 かい摘まんで事情を説明しながら、気持ち悪いくらい顔がゆるんでいる。相槌を打つ彼女の声が、くすぐったい。

「じゃあ、1時に会社で」
「無理言って悪いね」

 市丸さんの理不尽なお願いを受け入れた時点で、一緒に過ごせる時間が減る覚悟をしていたのに。蓋をあければ、結局は一時間早く会えることになっている。最悪だと思った目覚めは、むしろ、最高だったのかも。
 こぼれたコーヒーも、ひりひりする足も、市丸課長の横暴も、全然気にならなくて。僕は、自分で思っていたよりゲンキンな人間のようだ。





「吉良さん」

 ビルに入る手前で、僕を呼ぶ声。振り返ると、君がいた。いつものシンプルな服装とは余りに違う姿で。ふわふわのスカートとゆるく巻かれた髪に、一瞬でどく、どく、と心臓が暴れ始める。
 待ち合わせまで、まだ20分。先に上へ寄り、用事を済ませてから彼女を待つつもりだったのに。

「ずいぶん早いね」
「…待ちきれなくて」
「……へ?」

 っ!す、すみません。口を押さえながら頬を染める彼女の手首で、細いバングルがきらきらと揺れた。仕事中には見たことがないもの。
 それじゃあ。君の可愛い格好も、きれいに塗られた爪も、見慣れないアクセサリーも、その髪型も、待ちきれず早めにここへ現れたのも、全部ぜんぶ僕のためで。僕と同じくらい今日を楽しみにしてたって、勘違いするよ?自惚れる、よ。
 僕は思い込みが激しい上に、案外しつこいんだ。あとになって、そんなつもりじゃなかった、なんて言い訳はきかないから。

「…吉良、さん?」
「ああ、すまない。君も一緒に上まで行くかい?」
「はい。そのつもりです」

 人気のないエントランスを横切り、乗り込んだエレベーターのなか。確かめるように手を繋げば、そっと握り返される。

 ちょっと待て。
 やっぱりこれは夢なんじゃないか?
 急に大胆な行動に出ているのがまず僕らしくない。自ら異性の手を取るなんて、僕にとっては清水の舞台から飛び降りるくらい無謀なことなんだ。市丸さんには笑われそうだけど。
 それに、なにもかもがこんなに上手く行くこと自体が嘘臭いし、目の前の君は理想ピッタリな格好で、可愛すぎる反応で。まるで僕の願望を押し付けて形にしたみたいな世界が広がっている。
 きっと、びっくりするほどリアルな夢なんだ。そうに違いない。ぬか喜びはしちゃいけない。自重した瞬間に名前を呼ばれて、変な声が出る。

「吉良さん」
「…へぃっ」
「エレベーター、着きましたよ」

 おりないんですか?はにかんだ笑顔で腕を引かれて、これが夢ならばいっそ思い切り堪能してやろうと思った。

 手を繋いだまま歩く廊下は、いつもより短く感じる。下のキーボックスには鍵がなかったから、誰かが休日出勤しているのだろうと予想はついたけど、事務所のドアを開けるときも、君の手を離そうとは思わなかった。繋いでいるほうがずっと自然で、むしろ今までなぜ一度も繋いだことがなかったんだろう。僕は思い込みが激しい。
 それに、たとえ同僚の誰かにこの姿を見られたとしても、夢なんだから。

「吉良さん…手、離したほうが」
「君、そうしたいの?」
「…いえ」
「じゃあ、このままでイイよ。僕が繋いでいたいんだ」

 頬を染める君に、笑顔をむける。現実でもこれくらい、余裕のある言動が出来ればいいのに。
 目的のデスクに向かい、忘れられた携帯を手にするまでの間も、ずっとふたりの掌は繋がったまま。
 自分の席に寄って仕事用の資料を手に取ろうかと思ったけれど、夢でまで仕事のことを考えたくなくて、すぐに踵を返した。この幸せな夢はいつまで続くんだろう。


「なんやァ、お前らそういう仲やってんな」
「…!平子さん」

 お疲れ様ですと続けながら頭がぐるぐるする。そ、そういうってどういう。つまりは、恋人同士ってこと。夢ではそんな設定にしてもバチは当たらない、かな。

「休日出勤デートちゅうやつか。若いってエエなあ」
「市丸課長に頼まれ事で」
「ギン…か。さっき来てたわ」

 彼の隣で、アシスタントの女性が俯いた。耳が赤い。

「俺ら飯食いに行くんやけど、一緒に行けへん?」
 お邪魔やったら遠慮したるけど。

「すぐに市丸課長の所へ届けないと」
「あいつ仕事だけやのうて、休みの日ィまで部下こき使うてんのか」
「まあ…そう、ですね」
「ほんま、ろくなやっちゃないなァ。オンナには手ェ早いし」

 な?平子さんがニッと白い歯を見せて、アシスタントの髪をくしゃくしゃと撫でていた。この夢では平子さんも彼女と恋人同士という設定なのか。そして多分、市丸さんと同期の彼女も。
 4人で並んでエレベーターに向かいながら、とりとめのない会話。幸せな夢はまだ続いている。
 皆が揃って社内恋愛の設定だなんて、僕の思考回路も安易だけれど。人間はこういう身近なところに幸せを見つけようとする生き物なのかも。この夢が、ずっと覚めなければいいのに。


「にしても、イヅルも見かけによらんとこあるやんけ」
「…何が、ですか」
「上司の前でも手ェ繋いだまま離さへんなんて、よっぽどカノジョのこと溺愛しとんねんな」

 ばしん、背中を叩かれた。お笑い芸人がツッコミを入れるノリで。

「痛っ」

 ……って、痛い。イタい、痛い?
 痛いっ!!!



ここは路の交差点

これってもしかして、夢じゃないんですか?

 なに寝ぼけたこと言うてんねん、ゲ・ン・ジ・ツ。白昼夢見るて、イヅルも相当疲れてんちゃう?ギンにキツう言うといたるわ。
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