計算式はないしょ

「ええよ、またどこでも好きなとこ連れてったる」
「ほんとですかー?」
「ほんまや。ボクの言うこと信じてへんの?」
「そんなことないですよー、勿論」

 となりの部署から聞こえてくる、甘えた女子社員の声。先週とはまた違う女の子がお相手らしい。いったい、彼も彼女もここをどこだと思っているんだろう。
 でも、これだけ人目のあるところで次から次へと女を代えて、たいしたトラブルになっていない点は、驚きだ。市丸さんはクレーム処理能力にも長けている、ということだろうか。ある意味、尊敬すべきかもしれない。

「信じてますー」
「おおきに。素直な子ォは大好きや」

 あんなに簡単に「信じる」とか「信じない」って言葉を使うこと自体、私には信じられないけど。

 画面からそっと目を反らし、さめてしまったコーヒーを飲み干した。空のマグカップを手に立ち上がれば、自然に彼らが目に入る。
 パーテーションのみで仕切られた広い事務所では、近くで行われていることがつつぬけなのだ。そのオープンな空気が互いの無意識の競争心に働きかけて、結果として会社全体の成績があがる、というのが社長の持論らしい。

 何気なく視線を流した先、細いシルバーフレームの眼鏡の奥から、じっとこちらを見つめる濃緋色。吸い込まれそうなその色に気付いて、背筋がざわつく。
 市丸さんが 目をひらいて こちらを見ている。気のせい、だろうか。
 市丸ギン、社内切っての女誑しと名高い、隣の部署の男。普段は胡散臭さを絵に書いたような彼の、一瞬の鋭い視線。開いた瞳の深い色が、レンズの奥から心を絡め取ろうとしている。絡め、とられる。

「市丸さんどうかなさいましたー?」
「あぁ。ごめんごめん、今夜はどこに連れてってあげよか考えててん」

 なのに、その数秒後にはさっきの表情が幻だったのかと思えるほど、狐目の不審顔が張り付いている。

「…………」
「ほんまやて、」
「…………」
「堪忍なァ」

 まるで媚びているような、女の子の甘ったるい声は聞こえなかった。その代わり、聴覚が拾い上げるのは、やわらかい低音。微かにかすれた市丸さんの声。
 さっきの視線、きれいだった。市丸さん、眼鏡かけることあるんだ、珍しい。そもそもいつも殆ど開かない瞳で、ちゃんと物が見えているんだろうか。大きなお世話だけれど。
 いずれにせよ、私には縁のない男だ。ああいうタイプに振り回されるつもりは、全くないから。

 デスクの前で数秒立ち尽くすと、ふっ、ため息がもれる。

「どうしたんだい」
「……イヅルくん、お疲れさま」
「お疲れ。ボーッとしてるみたいだけど、平気かい?」
「別に、なんでも」
「だったらいいけど、」

 残業もほどほどにね。言い残して立ち去る同僚の背中越しに、再び市丸さんが見えた。すでに眼鏡を外し、すっかりいつも通りの彼の姿。
 閉じた瞳、弧を描く口許。つくりものの笑顔をうかべ、女の子の腰にさりげなく手をまわす。そのやりかたは艶っぽいのに、ぜんぜん厭らしく見えない。それはつまり、彼が彼女に対して欲望を抱いていない証拠なのではないか、と、不意に思った。

「じゃあ、ボクらお先に」
「お疲れさまでした市丸課長」
「イヅルもほどほどで帰り」

 心地いい声音が再び耳にすべりこみ、やがて消える。定時をとっくに過ぎた社内、繁忙期ではないせいもあり、人影はずいぶんまばらになっている。私もそろそろ帰ろう。
 先程から手にしたままのマグカップの存在を思い出して、給湯室へと向かった。





 縁がないはずの彼との接点は、意外な偶然で訪れる。神様は、イタズラがお好きらしい。
 忘れ物を取りに立ち寄った、休日のエントランスホール。社員通用口から中に入ると、目の前に市丸さんが立っていた。
 いつものスーツとは違って、きれいな色のシャツ。私服のセンスもなかなかだ、女の子たちが騒ぐのも無理はないかも。思いながら挨拶を交わし、通り過ぎようとしたら、腕を掴まれた。

 次のターゲットは私、そういうことだろうか。面倒事は遠慮したい。いくらでもなびく女性はいるだろうに、選ぶ相手を間違えている。
 剥き出しの手首を掴むきれいな指、日に当たったこともなさそうな白い肌。ゆるい力を、振りほどくのは簡単。

「待ちィて」

 走る彼をはじめて見た。エレベーターへ身体を滑りこませた彼は、珍しく息を切らして。狭い密室空間で、息遣いが近い。
 なにをそんなに必死になっているんだろう。市丸さんに「必死」は、もっとも似合わない言葉だと思う。

「今な、」

 事務所でお取り込み中やねん。耳元での囁きには、動じないふりをしたけれど。ぐらぐらと揺れる感情、引き込まれそうな想いを、すんでの所で押し止める。
 人間は、間違う生き物だ。近づいてこそ感じる、彼の力。それに圧倒されているのは、一時的な判断の誤りにすぎない。きっとそう。動揺をおし隠す。階数表示ランプを注視する目が、強張って痛くなるくらい見つめて。

「ボクの一生の頼みや思て」

 言うこと聞き。な…また甘い声。そっと腰に手が回る。そうやって簡単に踏み込もうとするのは、勘弁してほしい。
 たいして親しくもない相手にむかって、易々と一生のお願いを持ち出すところが嘘臭い。つい、不審げな瞳で見上げる。
 この人は本気で私を口説く気だろうか。ならば出来るだけさめた口調で。女誑しに翻弄されて、喜ぶ趣味はないから。

「ボクが、怖ないん?」
「ええ。それより、腰から手離して下さい」
「イヤ、言うたらどうする?」

 べつに。ちいさくためいきを漏らす。いい加減に引いて欲しい、と思ったのと同時に、目的階に到着。降りようと身を捩れば、無理矢理ぐいと引き寄せられた。

「なんでか聞かへんの?」
「市丸さんの本心なんて知らないし、知りたくもありませんから」

 すべて、本当のこと。
 でも、その言葉が、彼のスイッチを押してしまったらしい。

「えらい冷たいんやね」
「市丸さんには負けますよ」

 計算なんて、全くしていない。ただ、素直な気持ちを口にしたまでだ。
 第一私は、今日ここへ忘れた携帯電話を取りに立ち寄っただけなのだ。用事を済ませたら、ひとりで贔屓にしているカフェにでも寄って、休日の午後特有のたゆたうような時間を味わうつもりだった。

「本気なん?知りたないて」

 なのになぜ、一番警戒すべき人種とふたりきりで、こんなところに閉じ込められているんだろう。ふたたび扉がしまり、エレベーターは完璧な密室。

「ええ、知りたくありません」

 淡々とした口調。媚びを含まぬ視線で見つめる。「知りたくない」本当に知りたくなかった。
 こんな社内だから、興味がなくても情報だけは入ってくる。それは仕方ないと思っているし、入って来た情報は鵜呑みにせず、ちゃんと自分の目で確かめたい、とも思う。だけど、市丸ギンは女誑しである、というのは、わざわざ意識して探るべき情報ではなくて、すでに明白な事実だ。
 わかりきったことを、これ以上探る必要が、どこにあるだろう。

「強引なやり方に、興味はないです」

 他の子たちはどうだか知らないけれど、少なくとも私は違う。もっと腰を引き寄せられて、密着した肌。市丸さんの香水の匂い。
 また、無意識で彼のスイッチを押してしまったようだ。もちろん故意ではなかった。これが私の素なのだ。一般的な女性像と比較すれば、多少はさめている自覚はある。

「ボクも嫌われてもたな」
「違いますよ、」
「なんで?ボクのことは知りたないし、言うことも聞きたないんやろ?」

 私なんかが掴める程度の人じゃないと思っているだけ。こんな頭の切れる女誑しの考えていることなんて、理解できるわけがない。住む世界の違う人間なのだ、と思う。
 なのに、強引に執着されると悪い気がしない。これも彼の計算なのだとしたら、簡単に墜ちてしまう女が多いのは仕方がない。
 そう。仕方ない。降って沸いた天災みたいなもの。案外、ほかの女子社員たちもこんな気持ちなんだろうか。



「和食がいいです」
「もちろんや、任せ」

 そんな蟻地獄に足を突っ込むつもりはないけど、食事くらいならなんとでも。言い訳しながら、ひとまずは彼に折れたフリ。
 フリをしたつもりなのに、心臓の奥がちくちくする。それにも気付かないフリ。
 強張った身体から力を抜いた瞬間にふわり、和らいだ表情は、かなり好きかも知れない。

「お手をどうぞ、お嬢さん」

 なんてクサイ台詞だろう。でも、なんて彼に似合う台詞なんだろう。想いとは裏腹に、そっと手を委ねて。顔を見合わせれば、自然に頬がゆるんだ。
 多分、この前のシーンは彼の計算。私が見ているのを知っていて、彼は目を開いたのだ。狡い男。おかげで私は、無意識のままアナタを意識させられていたのらしい。悔しいから、そんなことは一生、正直に言うつもりもないけど。

「この前、なんで眼鏡だったんですか?珍しい」
「気付いてくれてたん、嬉しいなァ」
 じゃあ、ボクがキミを見てたんも気ィついた?

「ええ。市丸さん、目、開いてた」
「なんでや思う?」

 絡んだ指にきゅっと力がこもる。エレベーターは静かに下降を続けていて、もうすぐ一階。
 さあ…。首を傾げれば、にや、と歪む表情。傲慢さと、艶っぽさと、かすかな不安とが混ざり合う、微妙な顔に心が縫われそうになるのを、必死で押し留める。このゆらぎを、彼に見せたら負け。

「キミの姿、ちゃんと焼き付けたかってん」

 聞こえた小さな囁き。私を覗きこむ涼しい瞳、あの日の濃緋色。
 やっぱり、狡い男。
 ポーカーフェイスの内側で、心が震えた。



式はないしょ
さて。翻弄されているのは、どっち?
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