ある程度のリアル

 人気のないエントランスに、コツコツとヒールの音が響く。休日の事務所はしずかだ。ビル全体が眠るような静寂に包まれている。

「悪いねんけど、月曜朝イチに上げんのはムリやろか」そう言って片手を顔の前に捧げ、拝むような仕草を見せた平子さんの姿が目の奥に焼き付いていた。彼の頼みなら無理もしたくなるのは、彼を尊敬しているだけじゃなく、上司以上の感情を抱いているから。私もその辺のOLと大差ない、ただの女で。蓋をあければ、責任感の仮面を被った下心が隠れている。

 という訳で、休日出勤。
 デスクトップが立ち上がる間に、途中で買ったラテをひとくち。ゆっくり流れる時間のなかで美味しいコーヒーを飲めば、休みの日に働く憂鬱さは半減する。待っているのは平子さんの笑顔だし。

「さ。やりますか」

 画面に向き合い、ラフスケッチに少しずつ整合性を与えていく。イメージを形にする作業は昔から好きだ。
 プロジェクトブースにはひとりきり、漂うカフェインの香り。電話の鳴らない空間では自然に集中力があがる。この分だと午前中に終わりそうだ。

 一段落。
 かけた眼鏡を外して、眉間を揉みほぐす。その瞬間、後ろに人の気配を感じた。

「お疲れさん。休日出勤なんて、頑張るなァ」

 やわらかい声に振り返れば、見慣れたスーツ姿とは全然違うイメージの市丸さんが、そこにいた。きれいな発色のシャツは、シンプルだからこそ質の良さが際立っている。首もとに覗くチーフ、細身のパンツ。いつものスーツも仕立てがいいけれど、私服のセンスにぐらりと来た。身体のラインも、とても綺麗。

「市丸さん、なぜここに?」
「なんや、たいした用事やないんやけど」
「では邪魔しないでください」
「邪魔なんてせぇへんよ」

 言葉とは裏腹の表情にとまどっていたら、「ほんまやで。」不用意に耳元に近づかれて、背すじがぞくっとした。この人の声は危険だ、ひびきで頭の芯がゆらゆらと揺れる。ゆるやかに追いつめる凶器。
 気が付けば、彼はじりじりと距離を縮めている。物理的にも追い詰められそうだ。

「手伝ったろか」
「結構です」
「怒った顔も可愛らしいなァ」
「ホントに忙しいんで、放っておいてください」
「そない言われたら、」
「……」

「意地悪したなるやん」
適度に力の抜けた囁きに、逃げられなくなる。頼まれた仕事を早く仕上げたいのに。仕上げ、たい のに。
 ふわり、後ろから包まれて、甘ったるい香りに噎せそうだ。なんの香水だろう、これは。
 状況に反して、脳は悦んでいる。結構好きな匂いだ、と思った。この人は服装だけでなく、身につける香りも趣味がいい。
 さっきまで、静かで落ち着いた、潔癖な空間だったのに。そこに市丸ギンという要素が加わるだけで、ブースには日常とは異質な空気が流れ始める。

「おーっとっと、動いたらアカンよ」
「はなして、ください」
「逃げられる思てんの?」
「…っ」
「ここ、ボクら以外 だーれもいてへんのに」

 逃げられない、と思った。逃げたいのかどうかもわからない。それくらい、彼の声には特別な何かがある。甘い。でも、甘いだけじゃない。微かに掠れて、力の抜けた声。
 やわらかく抱かれているだけなのに、逃げだせる気が全くしない。職場だということさえ、忘れそうになる。

「でも、急ぎの仕事が」
「あとでボクも手伝うたるから」
「いえ、」

「な、ええやろ?」
囁かれる声で、耳が熱い。イイって何がどういいのか、どうすればいいのか。良い訳がないのに、反論の言葉も浮かばぬまま身体から力が抜ける。

「そやそや。肩の力もっと抜き」
「なに…を」
「素直な子ォは、好きやで」
「市丸、さん」

 いつの間にか、キャスター付きの椅子ごと向きを変えられて、きれいな顔が正面。至近距離。
 胡散臭い笑顔なのに、近くで見たら飲み込まれそうだ。銀色の髪が、さらさらと揺れている。

「キミも、やろ?」
「え…」
「ボクのこと、好きなんちゃう?」

 状況を整理しよう。私は今日、平子さんに頼まれた仕事を仕上げるために休日出勤をしている。ここは事務所で、プロジェクトブースのなか。パーテーションで仕切られたこの空間は、たとえ誰かが事務所に入ってきても簡単には見えない。
 そして、今ここにいるのはふたり。私と市丸ギン。わが社筆頭の女誑しと名高い男。頭も切れて仕事は出来るが、その才能の使い方を間違っている男。その男に、多分、突然口説かれている。
 つまり、危険だ。かなり。

「好きやて言うてみ」
「あ…の、」

 市丸さんのことは、嫌いではない。ルックスはもちろん、必ず仕事では最高の結果を残すし、いつも女性には驚くほど優しい。女癖が悪い点を差し引いても、尊敬している。いや、していた。
 けれど「嫌いではない=好き」の等式は成り立たなくて。この状況、どうしよう。

「はよ、言い。それとも嫌いなん?」
「い、いえ」

 この時ほど、嘘のつけない自分を呪いたかったことはない。そうです嫌いです、と何故言えないんだろう。嘘も方便の諺が泣く。

「ほんなら、ええやん」
「……っ」
「せやけど良かったわ、抵抗されたらもっと虐めたなるから」
「ひ…」
「そない怖がらんとき。痛いことなんてせえへんよ」

 では、嘘をつけないのが良い方向に働いたのだろうか。でも、怖い。怖かった。
 きゅきゅ。音を立てて、椅子ごと後ずされば、デスクにぶつかる。もう、後ろは……ない。

「早う言い」
「……」
「言われへんのやったら、無理にでも言わせてまうで」

 誰か、誰でもいいから助けて下さい。でないと、このまま流される。すでに、流されても良いような気になりかけている。

「…どうやって」
「知りたいん?」
「まあ、 はい」
「そないボクのこと知りたいんや」

 本心がどこにあるのか分からない表情。それが間近に迫れば、狐目の奥に潜む真実へ手を伸ばしたくなる。意味の掴めないものだからこそ、近寄りたくなる。危険だと分かっているのに。

「思たより好奇心旺盛なんやね」
「……」
「ええよ、キミにはなんでも教えたる」

 これも、怖いもの見たさの一種だろうか。人間ってつくづく愚かしい。
 彼のしなやかな指が、顎にかかる。そっと持ち上げられる。流されたくないのに、どこかでうっとりしている。この人はその指で、いったい何人の女を騙して来たんだろう。

「ようさん時間かかるから。途中で逃げよ思てもアカンよ」

 まろやかな京訛り。その声で、いったい何人の女を泣かせて来たんだろう。動けない。女癖が悪いと聞かされても、近付きたくなる気持ち。近付いてしまう人たちの気持ちが、今なら良くわかる気がした。

 でも、だめだ。
 これ以上近づくと、飲み込まれて戻れなくなるから。動けない代わりにぎゅっと目を瞑る。
 と同時に、パーテーションを殴る鈍い音。さらさらの金髪を揺らしながら、私服の平子さんが現れた。

「やっぱり。予想的中やなァ」

 たった一言で、場の空気がガラリと変わっている。

「悪い予測に限ってよう当たるねん。なんやそないなことになってんちゃうかと思たわ」

 ニィと口角を持ち上げて「来てみて正解や」と呟く顔を直視できない。

「平子さん」
「…なんやねんその顔は」

 見慣れない帽子の下から、呆れた目がのぞく。きっと今の私は、頬が赤くて。陥落寸前のバカな女の顔。恥ずかしい。

「あ、あの…お疲れさまです」
「挨拶なんてどーでもええから。さっさとお前、こっち来い」

 ぐいと手首を引かれてバランスを崩し、平子さんの胸にすっぽり収まる。いい匂い。市丸さんのとは違って、ホッとする。
 平子さんのいつもの香りに包まれて、深いため息がこぼれる。

「何してんねんな、ギン」
「なんですのん?いきなり」
「いきなりちゃうわ」
「平子サン。邪魔せんといて」
「何してんねんて聞いとんねん」
「彼女を口説いててんけど。何か文句あらはりますか?」
「当たり前やろ!」

 語気の荒い平子さんに驚いていると、目の前で狐目がゆうるりと歪んだ。

「なんでやの?別に彼女、アンタのモンとちゃうやろ」

 ニヤリ、つり上がる口角が憎らしい。確かにその通りだ、私は平子さんのただの部下で。カノジョでもなんでもない。

「誰かサンがぼやぼやしたはるみたいやから、ボクが先に唾つけとこ思てんけど」
「そら、残念やったなあ」
「なにがです?」
「いや。なんでもないで、こっちの話や」

 お前みたいなヤツに、そう易々と渡せるか。続く声はちいさくて、うまく聞き取れなかった。
 繋がった平子さんの掌に、ぎゅうっと力がこもる。それは、どういう意味だろう。上司として、名うての女誑しの毒牙から部下を守ろうということ?それとも、もっと別の意味があるんだろうか。
 つい、期待したくなる。
 ふたりは、各々に微妙な笑みを浮かべたまま、しばらく動かない。
 目には見えない次元で、無言の攻防がくり広げられているらしい。双方が、一見やわらかい表情なのに、空気はぴりぴりと張り詰める。酸素がだんだんうすくなる。息苦しい。

「平子サンこそ、何しに来はりましたん?」
「俺は、部下の仕事状況をチェックしに来ただけや」
「そら見上げた上司魂やねェ。ボクも見習お」
「笑かすなや、ギン」
「笑わそなんて思てませんよ」
「ちゅうか、その気持ち悪い敬語やめてんか。いつもみたいに喋れや、ボケ」

 ハンチングの影から睨む平子さんの目が怖い。でも、それをさらりと涼しげに流す市丸さんの嘘臭い笑顔はもっと怖い、と思った。

「真子も相変わらず熱いんやねェ」
「なに言うてんねん、アホか」
「カリカリしててもええことないよ」
「分かっとるわ。しゃーけど、お前みたいにフニャフニャしとるよりマシや」

 平子さんのいつもよりずっと低い声にも、市丸さんは動じないらしい。両側から聞こえるふたつの関西弁に、動揺しているのは私だけ。

「そうかもしれんねェ。今回は、ボクの負けや」
「勝ち負けの話なんてしてへんで、俺は」
「ほんなら、ボクに彼女譲ってくれるん?」
「アホか!こいつは物ちゃうわ」

 くつくつと咽喉を鳴らし、市丸さんは肩を竦める。アホらし。小さな呟きとともに踵を返し、ふたりの脇を通り過ぎた。

「アカンわ。話にならん」
「待てこら、ギン!どこ行くねん」
「気ィ削がれてもた。帰りますわ」
「待て言うてんねん。俺、まだ話の途中やぞ」

 短い間に色んなことがあって、頭の処理が追い付かない。なかば呆然と背中を見つめていたら、肩越しに振り返った市丸さんと目があう。一瞬だけのきれいな双眸。次の瞬間には、瞳を閉じたいつものえせ臭い笑顔が張り付いていた。

「真子にせーだい可愛いがってもらい」
「っ…市丸さ」
「ちょ、待てや。ギン!」
「さいなら」

 ひらひらと掌を翻して立ち去る彼の足取りは軽やかだ。その背を、ただ視線で追う。平子さんの腕の中で。
 後ろに感じる平子さんの体温、さっきまでの市丸さんの態度、去り際の瞳。両耳から入り、染み込んだ声の洪水。頭が飽和しそう。

「もう、いい…です」
「ええ訳ないやろ。アイツが簡単にあきらめる訳ないねんで」

 そう、かもしれない。でも、彼が決して本気じゃないことも分かっていた。あの種の男が、誰かひとりに縛られることなど有り得ない。
 このふたりは似たような言葉を操り、似たように大きな器を持っているけれど、全然違うのだ。

「ええんか、ほんまに」
「はい」
「お前がええんなら、俺は構へんけど」

 包みこむような深い懐と、沈んでしまいそうな底無しの存在感。ずっと傍にいたいのはどちらか、なんて、比べるまでもない。

「…またこんな事があったら、よろしくお願いします」
「さらっと何言うてんねん。その気になってまうぞ」

 頷く額に落ちてくるキスは、限りなくやさしい。あの人の冷たい指よりも、ずっとずっと温かかった。



ある程度のリアル

先に唾つけたんは俺やから。お前は今から俺のモン。

 せやから、あない悩ましい顔は二度と他のヤツらに見せんなや。ボケ。
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