君のなかで溺死希望

 横顔にいつになく強い視線を感じたのは、昼下がりのオフィスにて。ボクは女性からの視線に敏感だ。特に好意の籠った視線に。

「イヅル、出来たで」
「どうなさったんですか、今日は随分仕事が早いんですね」
「まあな」

 目配せでカレンダーを指し示す。釣られて視線を動かしたイヅルが「あ……」と小さな声を漏らした。

「市丸課長、今日はお誕生日ですね。おめでとうございます」
「おおきに」
「あとでおやつに干し柿でも買ってきます」

 シルバーフレームの眼鏡の奥から彼女のいる打ち合わせテーブルを盗み見ると、やはりボクの方を見ている。やけに鋭くて、それでいてやわらかい双眸に絡め取られそうだ、と思った。社内では滅多に視線を寄越さない彼女が珍しく躊躇せずこちらを見ているのは、今日が特別な日だからだろうか。
 同じように彼女の方へと視線を動かしたイヅルは、羨ましそうなため息をひとつこぼした。

「そういうことや」
「なるほど」

 今夜は早う帰らせて貰うで。イヅルにそう告げると、ざわりと騒ぐ胸を抑えつけて、ボクは仕事の続きに取りかかった。

「意外やけどなァ」
「確かに。彼女は記念日などに囚われるタイプではないと僕も思っていました」
「そうなんよ。でも、ボクだけは特別言うことやね」
「……まあ、そうなんでしょうね」
「いつもあないにツンツンしてるんに可愛ええとこあるやん」

 誕生日の夜は一緒に過ごしたいてはっきり言うてくれたらええのに。呟きながらもう一度盗み見れば、まだボクの方に注がれている涼しげな視線。その目にすべてを絡めとられそうになるのを寸でのところで耐えると、市丸は青白い光を放つ画面へそっと視線を戻した。





「話聞いてます?先輩」
「え…ああ、聞いてる。仕上げデザインは敢えて統一感を図らない、だっけ」
「ええ」

 後輩とふたり、図面を広げて打ち合わせテーブルへ移動すると、見慣れない眼鏡姿の彼がばっちり見えて一瞬で目が釘付けになった。自席からはいつも見られない市丸の仕事姿。細いフレームに縁取られた瞳、PCの光が反射してレンズの底はよく見えない。

「いい意味での違和感を演出するって解釈で合ってる?」
「…はい。というか珍しいですね」
「何が?」

 視線を彼から外せない。繊細な指先が銀糸のような髪をさらりと掻き上げる仕草が堪らなくセクシーで、心を奪われそうになる。色素の薄い肌に、長い指、物憂げな表情。目の前の仕事も忘れて、ずっと見ていたいと思わせる光景がそこにはあった。

「先輩が仕事中に上の空で市丸さんに見惚れるなんて」
「……っ!?」
「お誕生日だから、ですか?それとも眼鏡だから?」
「そ、そんな訳ないでしょ」

 仕事中は眼鏡をかけていることが多いとは聞いて知っている。見たことがない訳でもない。だいたい彼のように顔の造作が整ったタイプは、何を身につけても似合うものだと頭では分かっていた。なのにいざ間近で真剣な横顔と眼鏡のコンビ技を見せつけられると、馬鹿みたいに心臓が騒いでいる。

「へぇー…」

 ほんの一瞬だけ、眼鏡の奥の濃緋色がこちらへ流されて離れていった。目が合ったような気がしたのは私の思い違いだろうか。見咎められた後ろめたさと、もっと見つめて欲しい気持ちが心の中で葛藤をくり返す。

「無駄口叩いてないで、続き。さっさと済ませよう」
「はーい。今夜は早く帰れるように、ですね」
「ばかっ!」

 からかい混じりの後輩を諭しながら、本当に馬鹿なのは自分だと思った。だって、眼鏡ひとつでこんなにも動揺している。細いシルバーフレームの奥に潜むあの眼を、至近距離で見せられたらどうなるんだろう。想像だけでどくりと心臓が騒ぎ始める。今は仕事中なのに。
 頭を切り替えるように眉間を揉み解して浮かんだ自分の考えを押し込めると、私は図面へ向き直った。





「仕事中えらいボクに熱視線注いでたやろ?」
「……っ!」

 誕生日らしくちょっと豪華なディナーを済ませてボクの自宅に戻った後。脈絡もなくそう切り出せば、意外なほど動揺する彼女の姿に悪戯心を煽られた。

「なんでやの?」

 並んで座っていたソファでそっと肩に腕を回して、華奢な身体を引き寄せる。たいした抵抗も見せずにその身を委ねた彼女と、密着度がすこし上がった。

「…市丸さんの気のせいです」
「ほんまに?」

 至近距離で顔を覗けば、やわらかく不確かにゆれる瞳が目の前。必死でごまかそうとする強気も、既に無意味だ。実を言えば、彼女の後輩からイヅル経由で情報は入っている。キミは眼鏡姿の男に、と言うより、眼鏡姿のボクに滅法弱いらしい。
 それと知ってて問いを向けるボクはやっぱり意地悪なんやろうなァ。せやけどキミの口からちゃんと聞きたいねん。

「強いて言うなら、今日は市丸さんのお誕生日だから…かな」
「へぇー…」
「改めて、お誕生日おめでとうございます」
「おおきに。でも、キミって嘘吐きさんなんやねぇ」

 引き寄せた耳元へ、特別にチューニングした低い掠れ声を注ぎこむ。キミの細い肩が頼りなく揺れた。

「嘘なんて……」
「吐いてへんとは言わせへんよ」

 とすん、ソファに沈めながらポケットから取り出した眼鏡をかければ、彼女の息を飲む音がやけに大きく響く。その途端いつもの冷静さを失って泳ぐ瞳に、ますます加虐心を煽られる。

「……っ!」
「見つめとったんは、なんで?」

 しっかり視線を合わせたまま半開きの唇をそっと親指でなぞれば、柔らかく両頬を包まれた。愛おしくて堪らないと指先の熱が伝える。眼鏡の奥から薄く瞳を開いて彼女を見据えると、数秒間だけ見つめ合って、恥ずかしげに視線は反らされた。
 そない簡単には逃がしたげへんよ――

「………」
「理由、ほかにもあるんやろ」

 顎を掬って無理やりに目を見つめる。また数秒だけ視線が絡んで、彼女はぎゅっと目を閉じる。思いがけず弱々しい声がボクの名前を呼んだ。

「ギン……眼鏡」
「なん?眼鏡がどうかした?」
「反則」
「ちゃんと目ぇ開けてボクの方見ながら言うてやァ」

 そう言って両方の瞼にひとつづつ、そっとキスを落とす。おずおずと開かれた瞳は、既に潤んでいる。背中を鈍い痺れが駆け上がる。そんな顔を見せられたら、ボクの儚い理性なんてすぐにガタ崩れになるというのに。
 今すぐにでも貪りたい気持ちを抑えつけ、出来るだけ冷静な声を出すボクの努力にキミは気付いているだろうか。

「何が反則なん?」

 今すぐ捕まえられそうな距離にある甘い痺れを、わざと遠回りに手繰り寄せるように、キミの指先がたどたどしくボクの頬を辿る。眼鏡のフレームに触れて、一度頬にかかる髪を掻き上げると、またそっと両頬を包み込まれた。

「………眼鏡が、ね」
「ん」
「…えろ い」

 絞り出すような細い声と潤んで溶けだしそうな双眸に、心を絡め取られる。まさか彼女の口から聞けるとは思わなかった形容詞に、身体の芯がじんと痺れる。エロいボクがお望みやったらいくらでも。それこそ、もう無理やって懇願するまで攻め倒したい。ちょうどええ事に明日はお休みやしなァ。
 こつんと額を合わせて、レンズの奥から至近距離で瞳を覗き込む。それだけでびくり、彼女の肩が揺れて。堪らずぎゅうっと抱き締める。
 目の前で切なげに歪む眉と甘い吐息に、追い立てられるように胸と胸を押し付ければ、慈しむような口付けがボクの呼吸を塞いだ。

「キミからそんなんしてくれるなんて珍しいなァ」
「お誕生日だから、特別」

 両頬を包み込んだままの手をそっと外して指を絡める。ソファに散らばった髪を梳きながら見下ろせば、眇めた瞳がボクを捉えて包み込む。もう堪らないと訴える表情に、むず痒い感情が沸き上がる。さっさとこのむず痒さをどこかへやらなければ、じりじりと内側から焦がされて理性なんて呆気なく消えてしまいそうだ。

「そない眼鏡に弱いて知らんかったわ」
「……ばか」

 恥ずかしげに掠れ漏れた声ごと口付けて、片手で手早くネクタイを緩めて。
 今にも衝動で先走りそうな身体を必死に抑え付けると、震える彼女をそっとベッドへと運んだ。



君の中で死希望

今日は眼鏡かけたまましよか。
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