神はただ無知を愛でる
週末前夜。社員はおおまかに2種類に分けられる。早々に仕事を片付けて夜の街に繰り出していく人々と、何とか翌日からの休みを死守するために深夜まで残業する人々。今週の私は後者だ。
徐々にオフィスから人の気配が消え、いつの間にか残っているのは数名になっていた。
「自分、先 帰ってええで」
「いえ。お付き合いします」
平子さんとそんな会話をしたのは、もう数時間も前のこと。静かな空間にカチカチと互いの操作するマウスの無機質な音だけが響いている。
やらねばならないことがあるから残業しているのは事実だが、平子さんの傍にいたかったからというのも事実。それでも、差し当たりやることは全て終わらせてしまった。
「お茶でも入れましょうか」
「おう、おおきに」
そっと彼を盗み見たらなめらかな動きを繰り返す右手が目に飛び込んできて、途端に心臓がどくり。騒ぐ。平子さんの手はキレイだ。
真剣に画面に向かったままの横顔に見惚れそうになって、ため息を飲み込んだ。
給湯室へ向かう途中に確認できたのは、吉良さんと浦原さんとあとは名前も知らない数名の社員のみ。終電の時間まで、あまり余裕がない。
「自分、一段落ついたんかいな」
「ええ」
「相変わらず仕事早いなあ。休日出勤決定ちゃうかと思てたのに」
「何かお手伝いすることあります?」
問い掛けながらカップを手渡したら、かすかに指先が触れる。
「いや、今ンとこ何もないで」
「じゃあ、私そろそろお先に失礼しますね」
「アカン。自分もお茶入れてきィ」
「でも…終電が」
「こないな時間に一人で帰せるワケないやんけ」
デスクの上を片付けていた手を止めて、平子さんに向き直る。
「俺が車で送ったるから、もう少しだけ待っといて」
「今日は車なんですか?」
「遅なっても仕上げて帰ろ思てたからなァ、休みは休みたいやん」
大人しい言うこと聞いとき、と付け加えた平子さんは、ニッと歯を見せて笑った。
◆
定時前後になると、事務所がざわつき始める。それが一段落したころ、やっと一息をついた。ここの所かなり仕事が立て込んでいて、今日ある程度進めないと明日は休日出勤するハメになる。真子がコキコキと首を鳴らしながら周りを見回ぜば、遠くでギンがカノジョに擦り寄る場面が目に映る。
「あのボケ なにしてんねん」
俺の席から丸見えやて、知っててワザと見せつけとんのか?心の中で呟いて、真子は呆れたため息をついた。
――カタカタカタ。聞こえてくるキーボードの音。
「自分、先 帰ってええで」
「いえ。お付き合いします」
背後から感じるアシスタントの気配は、かなり集中しているようだ。一分の隙もない張り詰めた声。
こういう所も好きだけれど、自分の彼女にあまり遅くまで仕事はさせられない。集中に水を差したくないからと振り返りたい気持ちを抑えたまま、またギンの方を見れば今度連れ立った背中が事務所から消える。
「にやけ面さらしやがって、ここぞとばかりに彼女に茶入れさす気ィか」
うっかり本音がもれているのにも気が付かずにもう一度コキ、と首を鳴らせば、背中合わせの席から彼女の声が聞こえて我に返った。
「市丸さん、ですか?」
「おう」
キャスターごとくるりと振り返った俺の目に、やわらかい表情が映って。その顔をとても好きだと思った瞬間、自分が無意識にギンを羨んでいたことに嫌でも気付かされる。
ちゅうか俺ら揃いも揃って社内恋愛にうつつを抜かしとるアホになってもたんちゃうか?ギンのこと偉そうに批判なんて出来ひんやんけ、むっちゃ恥ずかしいやん俺。
ふいに沸き上がった羞恥心をごまかすように言葉を続けた。
「自分トコになんぼでも茶ァ入れてくれる子いてんのに、わざわざ別の部署のヤツに頼むなっちゅうねん」
「仲良いですよね、あの二人」
「仲ええ言うんか一方的にギンがベタ惚れめろめろでイカれて付き纏うてはあしらわれとるっちゅうんか」
「市丸さん、雰囲気変わられました」
「そーか?俺には公私混同してるただのタワケにしか見えへんど」
眉間にシワを寄せて苦々しげに言えば、彼女は作業の手を止めて微笑む。一瞬だけそれに見惚れて、俺も公私混同のタワケやんけと自嘲した。
「平子さんにもお茶、入れて来ましょうか」
「せやな。でもあのアホが戻ってからでええわ」
「…アホ?」
「ギンやギン。あいつ彼女の後ろ、金魚のフンみたいにくっついて行きよったから」
「じゃあ今行けば、アてられますね」
作業の続きに取り掛かるため、画面に視線を戻した彼女の背は一瞬でまた凛とした空気を取り戻す。それをほんのすこしだけ見つめて、そっと目を眇めた。
◆
気が付けばオフィスはもう閑散としている。
「お先に失礼します」
「おう、お疲れさん」
「鍵、宜しくお願いしますね」
――俺ら、最後かいな。
声を掛けてきたイヅルに返事を返して見回せば、いつの間にか彼女と二人きりになっていた。
時刻は日付が変わる寸前、お陰さまでやるべき仕事はほぼ終わり。あとは月曜の午前中でも十分間に合う。
自分の我儘で引き留めてしまった彼女は、帰り仕度をすっかり整えたままデスクで黙って文庫本に集中していた。
悪戯心に火が点くのはこんな些細な瞬間。何かに夢中な誰かの姿を見るとついつい邪魔をしてみたくなるのだ。
すうっと息を吸い込んで、一歩。彼女のほうに近付く。無防備なうなじの向こう、無心にページを繰る指が目に映る。俺が近づいたことには、まったく気付かないらしい。世界に入り込んでいる彼女の周りには、見えないうすい膜が張られているようだった。
きっといま声をかけてその膜を破れば彼女は驚くだろう。どうせやるのなら、一番効果的なやり方で。
慎重に息を殺し、そのまま 数秒間 じっと背中を見つめ続けて、もう一度息を吸い込むと一気に距離を詰めた。
「待たせたなァ」
不意打ちで耳元に低い声。それが最も有効な策だ。案の定、驚いた彼女からは色気のまったくない叫び声が漏れる。
「っわ!」
「なんやねん、その声」
でも、振り返った顔はそれとはあまりに対象的に染まっていたから、勝手に心拍が上がり始める。
「な、なんですか」
「驚かそ思て」
「意地悪」
「今頃気ィ付いたんけ」
「…いいえ」
「ほな、了承済みっちゅうことで」
後ろから抱きしめて肩に顔を埋めれば、返事の台詞は強気なのに震えて消えそうな声。
「了承なんてしてません」
「へえ、そんなん言うん?」
「………」
「ほんまはもっと意地悪やねんけど」
だから余計虐めたくなる。
なんでやろ。最初はただちょっと驚かしたろ思ただけのはずやのに。彼女の反応で、変な具合に胸が騒いどる。
「そろそろ帰ろか」
「その前に…そろそろ離して下さい」
「なんでやねん」
「会社だし」
「もう誰もいいひんし、ええやろ?」
ぱたん、文庫本を閉じた彼女を腕に収めたまま鼻先を首筋に擦り付ける。
公私混同をするような愚かしい真似を自分は絶対しないと、ずっと信じていた。なのにどうだろう。場所もわきまえずにこんなことをしている。擦り付けた鼻が拾いあげる彼女の匂いをずっと嗅ぎ続けていたい、と思っている。
今の俺は愚かしい男の典型だ。
「今日はやけにくっつきたがりなんですね、平子さんらしくない」
「そうか?」
「ええ。感化されたんですか?市ま……」
お前のせいや。言いながら、てのひらで口唇をそっとふさぐ。
愚かだと思っていたのに、そういうことを彼女にだけはしてしまう。格好悪いと思っていたことを平気でしてしまっている。
きっと心底惚れるというのはそういうモンで、その相手だけがすべてにおいて例外になってしまうということ。ギンも案外、こんな気持ちなのかもしれない。
結局俺らは 似たモン同士 言うことやねんな。
「苦し…平子さ」
「なんや、もっと意地悪して欲しいんけ」
「違う」
「聞こえへんなァ」
「私はただ、理由を……」
椅子ごとくるりと身体の向きを変えて、正面から向き合う。見上げる彼女の頬を一度すうっと撫でて。
触れられて溶けはじめた目尻でそっと指先を止めた。
「あとで。お前ン家でゆっくり…な」
神はただ無知を愛でる理由とかそんなモン分からんでもええねん。 俺がお前に心底惚れてるから。ただそれだけ――