ブーイングラッシュ

 市丸は ふっ、と息を吐いて画面から顔を離し、一度背筋を反らした。ずっと同じ姿勢でいたせいですっかり身体が固まっているようだ。
 掛けていた眼鏡を外して暗い窓の外を見ると、眉間を揉み解しながら部下に声をかける。

「イヅル。ちょっと休憩しよか」

 珍しく根を詰めて作業をしたおかげで、もう今日すべきことは大方形になっている。
 時刻は定時を過ぎて二時間。返事のないイヅルの席へ眼を向けたが、姿が見えなかった。

「せっかくまた真子とこでも邪魔しに行こ思たのに」

 休憩するのなら誘ってくれれば良かったものを、と立ちあがって視線を事務所内に彷徨わせれば、ちょうどイヅルが女の子と並んで部屋から出て行くのが見える。

「確かあの女の子ォは、彼女の後輩」

 イヅルと付き合うてるとか言うてたな。それにしても社内でイヅルがあんな風に寄り添う姿見せるやなんて、珍し事もあるモンやね。
 少しだけゆるんだ口元を引き締めると、それを口実に彼女の席へ行くことにした。

「お疲れさん」
「お疲れさまです、市丸さん」
「イヅル、来てへん?」
「いえ、来てませんが」
「ほんま?さっきキミとこの女の子ォと一緒なん見たんに」

 ちら、とボクを一瞥しただけですぐに画面へ視線を戻す彼女の、そんな所も好ましいと思ってしまうのは惚れた弱み。つれない彼女だからこそ、時々見せられる素直さが余計に愛おしく思えるのだ。
 ボク、ほんまに恋してんねんな――アホ丸出しでニヤニヤしていたら、彼女の澄んだ声が聞こえた。

「イヅルくんは市丸さんと違って会社で公私混同はしませんよ」
「うわ、そない酷いこと言わんでもええやないの」
「本当の事ですから」
「せやかてもう終業時間とっくに過ぎてるし」
「そういう問題ではありません。場所の話、です」
「はいはい、勘忍」

 カチカチと忙しなくマウスを動かしていた彼女が、一旦手を止めて振り返る。

「そういえばあの子もいませんね」
「心配やなあ」
「子供じゃないんですから、そのうち戻って来ますよ」
「せやろか、一緒に探し行けへん?」
「バカなこと言ってないで仕事してください」
「ほんならキミがお茶入れてくれたら大人しい仕事するわ」

 はあー…。ため息をつくくせにちゃんと立ち上がる所を見れば、お茶を入れてくれるらしい。
 こういうの、ツンデレて言うんやろか。まさか自分にそないな趣味がある思わへんかったけど、こういうのも悪うないなァ。
 ボクは給湯室へ向かう彼女のあとをいそいそと追いかける。

「席にお運びしますから戻っていてください」
「いやや。だって女の子がボクのためにお茶煎れてくれてるとこ観察すんの趣味やから」

 はあー…。ふたたびため息をついた彼女は、ちいさく肩を竦めたけれど、その背中は決してボクを拒否してはいなかった。

「なにがええかな、緑茶もええけどたまには紅茶いうんもええね」
「どちらでも、市丸さんのお望みのままに」
「ほんなら今日は紅茶にしよか。前に取引先から頂いてまだ開けてへん缶があんねん」
「たしかエディアールのセイロン」
「知ってたん?」
「吊り戸棚の中にしまってあるのには気付いてました」
「キミも飲みたいやろ?せや、たまにはボクが入れてあげよか」
「市丸さんが?」
「結構上手いこと入れるんやで」

 取り留めもない話をしながらふたりで給湯室の傍まで近付くと、中から何やら怪しげな声が聞こえて揃って足を止めた。

「も……無理です」
「もうちょっとだけ」
「ダメ、イヅルさん」
「僕に全部委ねてくれればいいから」
「でも……私、もう」
「しっかりつかまってて」
「足がふらふらして」

 給湯室の明かりは消えたまま、終業時間を過ぎた周囲も必要最低限の照明しか点っていない。扉の閉じた室内は、きっとほぼ真っ暗に近いはずだ。
 それにしても、なんやのこの声。
 暗い中で男と女が二人きり。しかもドア閉め切って、無理やら委ねろやら足がふらふらやら、聞こえて来るんはけったいな台詞ばっかり。
 そんなんやってる事なんてひとつしかないんちゃうの。そう思いながら隣を見れば、彼女もボクと寸分違わぬことを考えているのか、眉間にうすくシワを寄せている。

「あれ、イヅルと…」
「うちの女の子の声、ですね」

 イヅルはむっつりスケベやと思てたけど、案外積極的なんやろか。
 それとも性的趣向が偏ってて、こういう誰が近付くか分からん場所で感じるスリルが堪らん興奮してまう、とか そないな類の変態なんやろか。いや、その気持ちはボクかてちょこっとは分かるけど。

「なに、してるんでしょうか」
「さあね。ボクの考え付くんはひとつやけど」
「やはり……」
「キミもそない思うん?イヅルは社内で公私混同せえへん言うてたんに」
「前言撤回、せざるを得ませんね」

 無意識に声を潜めて会話をしているせいで、自然と彼女との距離が近付いている。
 頬と頬が触れそう。それだけでもドキドキするのに、すぐ傍から聞こえてくるドア越しのくぐもった会話が、勝手に想像力を刺激する。

「イヅルさん、私……怖い」
「大丈夫。ボクを信じて」
「………っ、もういいです」
「こんな所で止められないだろ」
「そ……ですけど」
「ほら。やっと外れた」

 外れたって、何がやの?アカンわ、頭の中ぐるぐるする。イヅルて意外にも言葉で攻めるタイプなんやね。ボクもちょっと見習お。

「右手、伸ばして。僕の手が分かる?」
「分かります」
「しっかり掴んで」
「 は、い」

 視覚を伴わない音声情報というのは、思ったより刺激がキツいらしい。よく顔を知っているふたりだから、余計に煽られるのか。脳内では自動的に彼らの絡み合う情景が展開されている。
 想像力はどこまでも羽を広げて。ごくり、自分の唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

「市丸さん…」
「なに?」
「止めなくて、いいんでしょうか」
「あんまり野暮なことはしたないねんけど」
「でも、これは流石に」
「ボクら以外の人間に聞かれてもたらえらいことやろね」

 ええ。頷く彼女のやわらかい髪が、僕の頬を撫でたのと同時にそっと手を繋ぐ。振りほどかれるかと思ったけれど、彼女はなすがまま。
 互いのてのひらがうっすらと汗ばんでいるのは、彼女もボクと同じように想像力を逞しくしているからだろうか。
 どくん、どくん、高まる脈拍が繋がった指先から伝わる気がした。

「行くよ、イイ?」
「あ……っ、はい」
「結構キツいな。上手くハマらない」
「大丈夫、ですか?」
「ああ…」
「でも、誰か人――」
「もう少しだから、」

 なんやのほんまにこれは。アカン。もう黙って聞いてられへんわ。
 ていうより、これ以上聞いてたらボクの方が彼女におかしなことしてまいそう。今すぐここで襲いたなるやないの。
 ぎゅうっと彼女の手を握ったら、同じように握り返される。

「いくで?」
「はい」

 視線を合わせてひとつ頷くと、給湯室のドアに手を掛ける。せーの、小さく声を合わせて一気に扉を開いた――

「もう少して何がやの?」
「あなたたちこんな所で何を!?」
「アカンやろ。あんまり不謹慎なことしなや!イヅル」

 踏み込んだ瞬間にぱちり、明かりが点って。急に明るくなった視界で、くっきり目に映ったのは。


「「え……??」」
「「は……!?」」


 予想とはまったく 180度違った、色気の欠片もない光景、だった。

 脚立の上で天井に向かって両手を伸ばしたイヅルと、しゃがみ込んでその脚を支えている女の子。勿論着衣の乱れも全くなく健全極まりない恰好のまま、ふたり揃って驚いたように目を見開いてこちらを見ている。

「市丸、課長…?」
「あの…どうなさったんですか、お二人お揃いで」

 脚立を両手で支えたまま振り返った女の子の不審げな問いかけは、半分くらい耳に入らなくて。
 イヅルとカノジョの視線が繋いだままのボクらの手に注がれているのにも気付けない位、動揺していた。ボクも、彼女も。

「ボクらはお茶入れに来てん…けど」
「手を繋いで、ですか?」

 イヅルの無造作な問いで、慌てて彼女に手を振りほどかれる。しっとり湿ったてのひらを撫でる空気が、やけにひんやりと感じた。

「こ、これは…イヅルくんたちのせいで。つい」
「せや。自分らのせいやで」
「別に手を繋いでここまで歩いてきた訳じゃないから!」

 ムキになって否定する彼女は、少し頬が赤い。それ、手ェ繋いでたんは満更でもなかったいうこと違うの?
 素直じゃない所も可愛らしなと思ったら、さっさと彼女を連れて帰りたなった。もうお茶なんてどうでもええ。仕事もカタついてるし。

「僕らのせい、ですか?良く分からないんですが」
「ちょっと誤解した言うんか…」
「……誤解?」

 さっぱり腑に落ちない様子のイヅルを無視して、カノジョに問い掛ける。

「で、自分らはここにこもって何してたん?」
「すみません。蛍光灯が切れていたもので、私がイヅルさんにお願いして」
「ほな、さっきまで真っ暗な中にいてたんはそういうコトやってんね」

 ちょうどボクらが部屋に踏み込んだ瞬間に、タイミングよく蛍光灯がハマったと言うことだろうか。そんな、バカバカしい位に絶妙のタイミングというのがあり得るのか、と笑えてくる。

「ええ。薄暗い中での作業なので、思ったより手間取ってしまって」

 ボクは苦笑を噛み殺しているというのに、いつもの淡々とした調子でイヅルが答えるから、無性に文句を言いたくなった。おまけに、身体のなかでは一度芽生えた熱もまだ燻っている。

「ほんなら、彼女が怖いて言うてたんは…なに?」
「私、暗所恐怖症なんです。それで」
「足がふらふら言うんは」
「脚立の足、ですが」
「右手伸ばしてとか、行くよイイ?とか、なんや外れたとか、けったいなこといっぱい言うてたやないの」
「あー…それは多分、寿命切れの蛍光灯を外して彼女に手渡した時の台詞ですね」

 ほんなら全部ボクらの勘違いやった言うこと?イヅルとこの子はここで、ただひたすら健全に切れた蛍光灯を交換してただけやの?
 それに一喜一憂して、想像力を思い切り働かせて、手に汗まで握ってたボクらて何なんやろ。

 はあー……彼女とふたりそろって深いため息を漏らしたら、いつの間にか脚立を降りたイヅルに逆に問い掛けられた。
 
「先ほど"不謹慎なこと"と市丸課長が仰ったのは何でしょうか?」
「………ええねん、もう」
「そうは言われても気になります」
「ほんまに聞きたいん?」

 頷くイヅルにむかってため息をこぼし、「怒りなや」と前置きして、重い口を開く。

「イヅルとカノジョが真っ暗な給湯室でイケナイことしてる思てん」
「ばっ!な、な、何を仰るんですか!?」
「せやかて、誤解させるようなこと言うてたやないの」
「そんな事、僕が社内でする訳ないでしょう」
「ほな社外でやったらするんや?」
「え……いや」
「してんねや?」
「そ、それは いまは全く関係のない話ですっ!」
「そないに怒鳴らんでもええやろ」
「でも、失敬ですよ!」

 顔を真っ赤にして照れているのか怒っているのか分からないイヅルを見ながら、彼女とふたりでもう一度深いふかいため息をこぼした。

「怒りたいんはボクらの方やわ」
「は?」
「ボクら、今日はもう先帰らしてもらうから」
「あの、お茶は…」
「そんな気分ちゃうねん。残りの仕事イヅルやっといてな」
「え、なぜ」

 そないなことまで、みーんな言わな分からへんの?
 多分ボクと同じ気持ちのはずの彼女の手を取って、給湯室から急いで踵を返した。

「ボクを悶々させた罰や」



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ほんまに、とんだ勘違い。せやけど火ィついてしもた。
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