全部後付けで構わない
「まだ足りひんかってんねや?」
「いえ」
市丸さんの綺麗な顔が、至近距離に迫る。はなれようとした後頭部を押さえつけられて、息を飲む。真っ白な枕と彼の顔しか目に入らない。
「嘘つかんかてええよ」
「…嘘なんて」
たやすく反転された身体。ベッドのスプリングが軋むのといっしょに、壁掛け時計の秒針の音がやたらはっきりと聞こえる。
色彩に乏しい部屋のなかで、その持ち主だけがひどく鮮やかに見えた。
「ボクも一緒の気持ちやから」
違う と口にする前に、とっくに唇は塞がれていた。寝起きの鼓膜の拾う音がやたら甘ったるく思えるのは、覚醒しきっていない脳の誤作動だろうか。
そないぎゅうぎゅう締め付けんでも、ボクはもう とっくに ぜーんぶキミのモンやで――つい数時間前まで飽きるほど愛された記憶が、一瞬でフラッシュバックする。
やわらかく両手首を捉えられ、心臓が壊れたように早鐘を打ちはじめる。
「市丸さん、」
「またそれや」
休日の朝の穏やかな空気を、たったひとことで塗り替える声。体重をかけずに覆いかぶさるやり方が、すごく手慣れている。彼はきっとこうやって気遣いながら、たくさんの女性を征服して来たんだろう。
「わざとなん?」
「わざと…って、なにが」
「その他人行儀な呼び方。まるで会社にいてる時みたいやん」
銀色の髪が目の前で揺れて、形のよい唇はいびつに歪んだ。
「市丸さんは市丸さんですから」
「へえー…」
もしかしたら、目が覚めればいっしょに昨夜の感情も覚めているんじゃないかと、どこかで思っていた。市丸さんの態度も、すっかり変わっているんじゃないかと。
身体を重ねる行為は熱病のようなもので、最中はのぼせるほど愛おしくて堪らなく思えるのに、終わった瞬間に嘘のように冷めてバカバカしくなったりするものだから。
「わざとボクに怒られるようなことして、お仕置きされたいん?」
「いいえ」
なのに彼の態度は変わらない。
釣った魚に餌はやらない、狩る行為こそが喜びであり手に入れた獲物には興味がない、女誑しというのはそんな人種だと思っていたのに。私を見下ろす目は閉じていてなお愛おしげに見える。
私はどうだろう。白い肌、調った顔立ち、キスを続けながら髪を撫でている優しい指先、これらを嫌いなんて言える訳がない。
「じゃあ、なに?」
そう言って唇を離し、片肘をついて見下ろす彼は、うっとりするほど綺麗だった。寝顔の幼さはどこかに消え果てて、余裕の表情。
「勿体ないから」
「何が?」
「名前で呼ぶのが、です」
掠れた声で答えたら、ふたたび唇を塞がれる。そっと触れるか触れないかの子供みたいなキス。
「あと、怖いから」
ふたたび組み敷かれてやさしいキスが続くと、余計に怖くなった。これが現実ではなく、夢のような気がして。
押さえられた手首をちいさく動かせば、するりと肌を撫でて両手の指が絡む。
「怖い…?」
「うまく言えませんけど、怖いです」
覚めたくない夢ほど、覚めるのが怖いものだ。絡み合った指先に、少しだけ力をこめる。
安心させるように握り返してくれる彼の指は、泣きたくなるくらいにやさしい。
「怖いんは、ボクも一緒や」
人間は言葉の動物だから、名前を呼ぶたびに感情が凝縮されて、少しずつ溜まっていく。言葉で意志を伝えられるのと引き換えに、言葉に縛られる。「ギン」と一度発音するたびに、自分のなかで彼の存在が少しずつ現実感を増して、染み込み徐々に根を張り、濃度が高まる。呼べば呼ぶほどに好きになる。
代わりに、手の届かない違う世界のヒトという感覚がだんだん薄れてゆく。誰か一人の女のモノになるような男じゃないのに、自分のモノだと錯覚しそうになる。制御できなくなる。それが怖かった。
「市丸さん」
両手をやわらかく拘束されて、見つめ合う。ただそれだけのことで、心臓は壊れそうに痛くなる。深入りするつもりはなかったのに、この人さえいれば他のすべてはどうでもいい気さえする。
いつの間にこんなに浸蝕されていたんだろう。
「ほんならいっぱいキミを抱かな」
「へ…?」
片手でぐいと腰を抱かれ、額がぶつかる。鼻の頭同士を擦り付ける仕草には、なにかをねだるような幼さが見えるのに、与えられる感触は官能を刺激するのが不思議だ。
「だって名前で呼んでくれるんは、繋がってるとき限定やろ?」
「……」
そういうつもりではないけれど、たしかに昨日の夜はたくさん呼んだ。曖昧で掴み所のないあやふやな存在を、身体に刻み付けるように。
「ボク、呼んでほしいもん」
な・ま・え。吐息混じりの声が耳に滑り込む。なんでそんな声が出せるんだろう、この男は。
「キミに呼ばれる自分の名前が、一番好きなんや」
催眠術にでもかけるような絶妙の力加減で、市丸さんの声が私をここに縛りつける。腰に回された腕よりも、ずっと有効に。
「市丸さん」
「………」
たぶん、私が名前で呼ぶまでは返事をしないつもりなのだろう。非難するように指先が肌に食い込む。強く引き寄せられて、剥き出しの肌同士が触れ合った。
「離して下さい。喉渇いたんです」
はぐらかして、不自然な姿勢でベッドサイドに手を伸ばす。立ち上がるにはまず、なにか身につけなくては。
昨日は混濁した意識のまま眠りに落ちたので、気が付けば二人とも全裸だ。陽を浴びた市丸さんの肌はとてもキレイだからずっと見ていたいけど、それはつまり自分も同じように見られるということで。恥ずかしい。
でも伸ばした手にはなにも引っ掛からなかった。
「いやや」
耳たぶを撫でるほど近くで、短いささやき。吐き出す空気の分量すら計算しているのかと問いたくなる完璧なチューニング。これを無意識でやっているのだとしたら、この男は天性の女誑しだ。
「服、着させてください」
「なして?」
「寒いから」
「アカンよ」
「なぜ?」
「そんなんしたら、ボクが見えへんようになるやないの」
キミのカ・ラ・ダ。囁いて耳たぶを甘く噛む。市丸さんはたぶん女性の一番弱いところを刺激する方法を生まれながらに身につけている。潜めた声がくすぐったくて、背中がぞくぞくする。
「市丸さん!」
「………」
また返事がない。ふっ、小さくため息をついて、きらきらの銀髪にキスをおとす。
「喉がからからなんです。服を着て冷蔵庫まで行ってミネラルウォーターを2、3口飲んだらまたここに戻ってきますから、は な し て く だ さ い」
「ほんまに、声嗄れてるねぇ」
「誰のせいだと?」
「色っぽい」
直接耳に甘い声を注がれて、全身が泡立つ。頭がくらくらした。
「っ!」
「ほんまにすごい鳥肌、そないに寒いんや?」
肌の表面を確かめるように、長い指が腰のラインをなぞる。そんなことをされれば、鳥肌は引くどころかますますひどくなるだけ。
「分かったら、この手離して」
片手で自分の胸を隠したまま、腰を掴む手を解く。半分背をむけて起き上がれば、ぱさり、なにかが肩に掛けられた。
「ボクのシャツ、羽織りィ」
「ありがと…ございます」
昨日市丸さんが着ていたシャツからは、彼の匂いがする。香水混じりのいつもの市丸さんの匂い。
「ボタンは止めんとってな」
「なぜ」
「勿体ないから」
「……なにが?」
「また脱がす時間が」
袖を通したあと、条件反射でボタンに手をかける動作がぴたりと止まる。抗議しようと思ったけれど、ここに長居したらまたすぐにベッドに引きずり込まれそうだ。それよりも今は、喉の渇きを潤したい。
「言うこと聞かへんかったら、お仕置きやで?」
無言で立ち上がり、歩きながらボタンをとめる。冷蔵庫の前にたどり着くころには、一番下まできっちりボタンが留まっていた。
グラスに注いだミネラルウォーターを嚥下しながら、考える。
お仕置き お仕置き って、市丸さんの口癖だろうか。プライベートの今、私と彼とは上司と部下でもなんでもない、対等な関係のはずなのに。
彼の分の水をグラスに注いでベッドに戻りながら、命令する者とされる者のような主従関係が自然に出来上がっているのは、やっぱりヘンだと思った。ヘンなのに拒否する気にならないのだから、もっとヘンだ、と口許が緩む。
「やっぱりボクの言うこと聞かへんかってんや」
「ええ。私にも意志はありますから」
「そないお仕置きされたいんなら、なんぼでもしてあげるよ」
「結構です」
ことり。ベッドサイドにグラスを置いて腰かける。見渡した部屋には生活感がほとんどないのが、妙に市丸さんらしい。必要最低限のモノたち。そのすべてがとても上質のものであることは、一目見ただけで分かる。
たぶんこの男は、身近に置くものに対する目がすごく厳しいのだろう。水を飲むグラスすら、バカラの逸品だったし。そういえばベッドもすごく寝心地が良かった。たぶんソファはアルフレックス、さりげなく置かれた椅子もランプも、灰皿一つさえ質がよさそうだ。
自分と空間を共有する存在として慎重に選ばれたモノだけがここにある。
「まあ…ええよ」
こくこくと水を飲み干す音に振り返れば、腰を引き寄せられる。この部屋に入れてもらえた私も、彼の審美眼に適ったということだろうか。
「お水ボクにも持ってきてくれたから、今回は堪忍しといたげる」
許すも許さないもないと思う一方で、彼の言葉ならどんなに横暴でもどんなにクサくて理不尽でも自然に受け入れてしまいそうだ、とも思う。ホントに不思議なヒトだ。
「それに、その格好も悪うないし」
「そうですか」
「裾丈の際どさにソソられてもた」
不意打ちで腕を引かれ、ベッドに沈む。見下ろす双眸がゆっくりと開いて、濃緋色に縫われる。
身体を重ねる行為は、踏み越えてみれば案外呆気ない。終わった瞬間に驚くほどすーっと冷めたりして、なんて下らないんだろうとバカバカしくなる。さっきまで、あんなにのぼせるほど愛おしくて、彼が欲しくて堪らなかったのは、夢だったんじゃないかと思う。
「お仕置きは諦めるから、いっこだけお願い聞いてくれへん?」
「内容によっては」
「名前。呼んで欲しねん」
なのに、その一瞬後には、愛おしくて愛おしくて、吐き気がするほどの愛おしさに堪らなくなったりする。激しい感情のぶり返しに飲み込まれそうになるのだ。
な、アカン?そう言って首を傾げる仕草がどうしようもなく可愛くて。繊細な銀髪に指を潜らせる。
「……ギン」
呼んだ瞬間に、胸が痛くなる。見下ろす彼の表情が切なげに歪んで、もっと胸が痛くなった。
彼はベッドで誰かに名前を呼ばれるたびに、こんな表情をするんだろうか。
「おおきに」
いつもこんな声で囁くんだろうか。明日にはこの腕からすり抜けているかも知れない彼。だけど、今は手の届く所にいる彼。
「ギン」
「やっぱり、堪らんわ」
名前を紡いだ唇を、指先がそっとなぞって。輪郭を確かめているのか、音の記憶を刻み付けているのか。与えられる感触に息が浅くなる。
「もっかい」
「……欲張り」
留めたはずのボタンが、ひとつ、ふたつ外されて、皮膚にひやりとした外気が触れる。かすかな布の摩擦で、敏感に反応する身体が恥ずかしい。
「欲張りやで、ボクは。知らんかったん?」
「知っ…て、る」
「ほんなら…もっかい」
もう一回というのは名前を呼ぶことだろうか、それとも身体を重ねることだろうか。
わざとらしく布越しに胸の中心を掠める爪の先。鎖骨をなぞる唇の熱さに、もうどっちでも良くなって。
「ギ…ンっ」
自分でも驚くほど甘い声で名前を呼ぶと、そっと形良い頭を抱きしめた。
全部後付けで構わないとりあえず、続きしてもええかな。 ボクとしたことが……脱がす楽しみ忘れてたなんて、不覚や。