90%わがまま

「大変ですー!!!吉良先生っ、市丸くんがァァァ」

 その朝は、雛森先生の悲痛な声が建物中に響き渡った。
 僕の一日は大抵誰かのこんな叫び声で始まる。同僚の慌てた声に走って駆け付ければ、毎回想像をはるかに超えた無残な有様が広がっているのだ。

 ――今日はいったい、なにをやってくれたんだろう。

 彼の悪戯を楽しみに思えるくらいの余裕が、僕にもあれば と思うけれど、乱菊先生のようにカラカラと笑うのは到底無理。だって僕は真面目だから。

「まったく、いい加減にしてほしいモノだよ…あの子も」

 情操教育の一環として教室で飼っていた金魚が一匹残らずぷかぷかと白い腹を見せて水上に浮かんでいたこともあれば、花壇で成長を観察していた花たちが全て抜かれてバケツに押し込まれていたり、水飲み場の水道の蛇口が全部一度に解放されて廊下中水浸しで園児絶好の水遊び場になっていることもあった。
 よくよく突き詰めて話を聞けば、どれにも彼なりの考えがあって。例えば金魚の一件はこうだ。

「お魚サンたちがな、もっと元気になってくれはるように思て」
「なにをしたんだい?」
「これ、入れてん。ほんならお魚サンたちみーんなぱくぱくし始めはって」


 そう言って植物用の栄養剤だか除草剤だかのボトルを差し出されたのを見たら、がっくりと力が抜けた。つまりは多少なりと善意にもとづく仕業の場合もあるので、なおさら本気で怒れなくなるのだが。


「こら!市丸くん…またそんな悪戯して」
「ごめんな」
「なぜ君はいつもそうなんだ」
「そんなん、おもろいからにきまってるやん」
「面白いからって何をしてもいいワケないだろう!?」

 瀞霊幼稚園の超絶問題児・市丸ギンくんが今日やってくれたのは、最近リフォームしたばかりの真新しい白壁に恐ろしいほどのらくがき。消えない油性ペンで書きなぐられた何物ともつかない数々のそれに、盛大なため息をもらす。
 知ってるかい市丸くん。これの後始末は、全部ぼくがやらされるんだよ?しかも、場合によってはかかった費用が給与から差し引かれる可能性だってあるんだ。

「イヅルはいっつもうるさいなァ」
「イヅルじゃありません!"吉良先生"って呼べと言っているでしょう」
「そんなんやからいつまでもカノジョできひんのとちゃう?」
「……うっ、うるさい。それとこれとは話が別です!」
「シンケイシツな男はモテへんって、ボクでも知ってるで」
「神経質って……市丸くんっ!!」
「おぉ…コワ」

 コラ!と言いながら小さな身体を持ち上げて、顔の高さを合わせる。睨みつけようと思うのに、無邪気な笑顔を目の前にするとなかなか怒れなくなってしまうのが僕の悪い癖。
 けれど、小首を傾げて「カンニンしてーな…」と可愛く言われてしまえば、どんなことでも許してあげたくなってしまうのだ。つくづく自分の甘さを反省する。

「もうしない、って先生に約束してくれるかい?」
「許してくれるん?」
「ああ。今回だけ特別にだよ」
「イヅル先生ェ…おおきに」

 はあー…。ため息を吐き出したら、僕の耳元へとちいさな身体を必死で伸ばして、市丸くんが囁いた。

「あんな、ほんならお詫びの代わりにええこと教えたろか?」
「…なんだい?」

 先生と呼ばれたことに少し気をよくして、聞き返した僕が間違いだったのかもしれない。まさか、そんなことを聞かされるとは思ってもみなかったのだから。

「ボクな、こないだ雛森先生ェの着替えてはるとこ見てしもてん」
「……っは!?」
「やっぱり、おっぱいちっさかったわ」
「なな、な、な……なっ!!」
「なにを"なななな"言うてるん?」
「君は何をやってるんだァァァ」
「あれ?なんやァ、イヅル先生ェも見たかったん?」
「!!」
「ヒナモリセンセー、イヅル先生ェがなァーーー」
「ば!やめなさいっ!」
「冗談やんか」

 何をそない焦ってんの?イヅル先生ェすごい顔なってるで。続けて白々しく言い放つ小さな口を、必死で塞ぐ。

「もっとええこと教えたろか」
「もう結構だ!」
「そんなん言わんと聞いてェや。乱菊センセが言うてはってんけど」
「……………なに」
「おっぱいて、揉んだらおおきなるんやろ?」
「……っぶ!!」
「イヅル先生ェが揉んであげたらええんちゃうの?」

 雛森先生のおっぱい…――小さな手を耳に寄せて、囁かれる声に頭が一気に熱をあげる。

「あれェ?えらいカオ赤いけど、どないしたん?」
「き、きき、君のせいだろうがァァァ」

 でも僕はまだ甘かったんだ。エプロンの肩紐を手繰り寄せるようにして、さっきよりもっと市丸くんが密着してくる理由を予測すべきだった。

「イヅル先生ェがもっと知りたいこともボク知ってるで」
「……?」
「とぼけてもムダや。ほんまは雛森先生よりあの先生のほうがずーっと好きやねやろ?」
「……っ、ちょ!?」
「あの先生ェのスリーサイズはな、」

 ゴニョゴニョゴニョ……直接耳に注ぎこまれた数字で、瞬間的に頭が沸騰して、本気でどうしたらいいのかわからなくなる。

「あああぁあぁあぁあああ――ッ!!」
「どないしたん急に、耳まで赤いし」

 ボク的にはカノジョが一番理想のサイズや、イヅル先生ェ見る目あるやないの。シレッと言葉を続ける腕のなかの子が、とても幼児には見えなくて空恐ろしい。

「い、いち、市丸くんんんっ!!!!!」
「シンケイシツなうえに、ヒステリーやなんて ますますモテへんよ?」
「煩いっ!放っておいてくれ給え」


 という夢を見たんだ、本当に最悪だよ――僕の悪夢の話を聞いて、彼女はくすくすと楽しそうに笑う。

「だから朝からお疲れ気味だったんですね、吉良副隊長」
「そうなんだ。まったくあの方ときたら、寝ているときまで僕を追い詰めるんだから」

 目覚めた瞬間には、既にどっぷり疲れていたんだよ。そう言って大きなため息を吐き出した。

「災難でしたね」
「まったくだよ」
「でも、情景が目に浮かびます」

 ちいさくなった隊長、微笑ましいんでしょうね。やわらかい表情で続ける彼女に、大きく首をふる。

「とんでもない!姿は可愛いけど小さな悪魔そのものだったよ」
「よほどコテンパだったんですね」
「現実と夢と、どちらに戻りたいのかも選べないくらいに…ね」

 彼女とお茶を飲みながら談笑を続けていたら、恐ろしいほどに尖った市丸隊長の霊圧が近づいてきた。

「えらい楽しそやなァ、イヅル?」
「……い、市丸隊長っ」
「そない笑える話、ボクも混ぜてほしいわァ」
「…………」
「じゃあ私、お茶でも入れてきます」
「おもろいことは大好きやさかい…なぁ、イヅル?」

 彼女が部屋を出てすぐに、市丸隊長の唇の角度がきゅうっと持ち上がる。そんな表情をしては、そのうち唇が裂けてしまいます。というよりも……目が、目がまったく笑っていませんよ隊長。


90%がまま
ボクのおらへんトコで彼女が笑てるなんて許されへんねん。

2010.03.05
イメージイラストは こちら
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